1-2 父親

第2話

 北の大地は冬の最後の居場所だった。ゆえに冬は他の土地から追いやられた後も、この場所で風を吹かせ雪を降らせ、そうして自らの存在を示し続けていた。

 少年イツセは薪置き場にいた。着古して薄くなった毛皮の上着を冷気に乗っ取られ、唇を紫色に侵されながら、彼は父親に言われた通りに暖炉の燃料を集めていた。


「細いのが三本、太いのが六本、小枝は両手に持てるだけ」


 父親の言葉を連呼して両手両脇の薪を数えている。少なければすぐに燃え尽きて怒られてしまうし、多すぎれば薪置き場に戻すように言われてしまう。彼は三度ちょうど本数があることを確認してから、薪を抱えてふらふらと立ち上がった。手袋のない両手は赤みを失って、小枝を持っているという感覚ももはや無い。急ごうとするその精神に反して、灰色の雪に握られた足とログハウスの壁に吸い寄せられた肩は──体は、心に休むことを懇願していた。けれども彼が思うには、集落から切り離されて丘の上に建ったログハウスは裏手から玄関に回るなどウサギでも容易いほどに小さく、それを自分が休み休みこなすなど恥ずかしくてとてもできたものではないのだった。

 玄関の分厚い木の扉はやはり開いていなかった。足で雪をどかし、抱える薪を置いて、重い扉を両手で引き開く。立ちどころに、彼を「遅い」の一言が射抜いた。薪を拾い上げて上着のままで中へ駆け込めば、自分が出た時と同じままにリビングのソファに座り、足を組んで腕を背もたれに広げた父親が、くいくいと顎で暖炉を指し示した。


「遅い。火が消えたぞ」

「ご、ごめんなさい。今すぐ点けます」


 イツセは暖炉の前に座り込んで、父親の両目に背中を晒しながら、顔を煤けた中へと突っ込んで薪を置いていく。頬が黒く汚れ、目に灰がしみることなど、置き間違えて背後の目を口へと変えてしまうことに比べれば嫌がるようなことでもない。

 それは薪の鋭いささくれが彼の手を切っても同じで、むしろ彼は、右手に入った切り傷とそこから流れる血とを見て、小さな笑顔を灯した。


「ちょうどいいや」


 残りの薪を手早く暖炉に入れ、彼は上着を脱いだ。中に着る襤褸の胸ポケットから取り出した小ナイフで、右手の傷を切り広げる。それを暖炉へと差し入れると、積み上げられた薪の上へと血が垂れた。


「燃えよ」


 血による、火の魔法。

 魔法の触媒として最も効率が良いのは魔法を行使する者の血であるとされる。自分の血が最良で、それが唾液などに変わると下がっていき、他人や動物の血になるとさらに悪化する。水ではほとんど発動しない。

 イツセは母親に魔法を教わっていた。生前、私みたいに血を使うのはもう少数派なのよ、と言っていたが、そんな母親を師とする彼は血を使う以外の方法を知らなかった。だからこそ血の魔法だけは、母親のいなくなった後も毎日欠かさず練習をしていた。父親には隠れたままで──それは自分に厳しくしてくる父親を驚かせ、そして自分のことを認めてもらうためだった。

 薪に火が点く。


「イツセ、今なにした」


 父親の、低い声。

 燃え木の立てるパチパチという音を踏み潰すように、大きな足音が背後から近づいた。そうしてイツセは、父親の不満を察した。小さな火種を作り出すくらいの魔法の操作では、褒め言葉には足りないようだった。確かに、火を際限なく大きくするよりも、小さくする方が難しい──しかし、その程度で褒められようとした自分の志の低さが、燃える薪の明かりによって、足元に影となって自分を引き摺りこもうとしていた。

 いつものように火打石を使えばよかったと心を澱ませて、彼は隣に立った父親の質問に答える。


「魔法で、暖炉に火を点けました」

「どうしてそんなことした、俺を馬鹿にしてるのか」

「ち、違うよ! 僕はただ、魔法を褒めてほしくて……あ」


 自分の口調に、言ったそばから後悔した。咄嗟の否定が本音を喉奥から引っ張り出していた。魚が飲み込んだ釣り針を無理やり引っ張って、赤黒い内臓が口から飛び出た時を思い出した。イツセはやるべきことをしないで見返りを乞うような今の言葉が、どうか父親には届いていませんようにと願った。


「ごめんなさい。次はもっと上手くやります」


 床に座ったまま父親の方を見上げたイツセは、天井に吊り下がったランプの逆光で黒く翳る父親の顔を見、そしてその真っ黒い穴から一つ、小さな舌打ちが自分の頬に垂れ落ちるのを感じた。それが皮膚を食い破り、血の流れに乗って全身に広がっていくのを錯覚した。

 その痛みで、彼の体が跳ねる。


「いまっ、今やるからっ! 次じゃなくて、今、今ここでやり直すから」


 彼は床に転がっていた小ナイフを掴み上げ、さっきの傷口を今度はもっと深く抉り、そしてその手を燃え盛る火の上にかざして血を注いだ。ジュワッという音がして、肉を焦がした時の臭いが煙に混じって彼の鼻を刺した。


「風よ吹き巻け!」


 火を点け直すにはまず今の火を消さなくてはならない。薪に水は掛けられず、ゆえに風の魔法で火を収めるしかなかった。それはまさに火を見るよりも明らかに、水の魔法を使って消すよりも難しかったが、しかしイツセの頭には「失敗」の二文字を浮かべられるほどの場所は余っていなかった。

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