フォークロア
班白扇
序章
生に代える記録と記憶
本棚の裏の隠し階段を降りた先は、十年前と同じように埃っぽかった。傷んだ木の扉を引き開けてカンテラを闇に掲げ入れれば、やはり変わっていない薄暗い書斎が、まるで貼り付けたようにそこに在る。岩盤で隔てられたこの世界には雪の降る響きも無くて、ただカンテラの火の揺らめく音に自分の乱れた呼吸だけが混じっていた。息遣いは僕の頭の中で蒸発して、満杯の蒸気の漏れたのが、多分僕の聞く呼吸だった。
僕は自分の身体を部屋の真ん中の机まで引き摺って行って、そしてその机の上に、左手に抱えていた「彼女」を置いた。そっとではなくて、落とすように──それは力の戻らない腕のせいだったが、しかしそのことに「彼女」が文句の一つも言わないのは、あの男の「もはやただの本」という言葉を肯定するようで、僕には受け容れ難かった。
何か一言で良いから、昔のように喋ってほしいと思った。書いてほしいと思った。
机上のランプに手元のカンテラから火を移し、僕もまた椅子に身体を落とす。襲い来る痛みに備えて目を瞑ったものの、それは不思議とやって来なかった。全身の打撲は、殴打の傷は、すっかり黙りこくって静かだった。
「もうすぐ死ぬ人間には、傷も優しくなるものなのか、それとも──実はもう死んでいるのかな」
自分の脚に触れ、目の前の机に触れ、そして机上に立てられた羽ペンに触れてみる。どれも、確かに感触がある。自分が生きているのか死んでいるのかは僕には分からなかったが、たとえ死んでいたのだとしても、まだ物に触れられるのは僥倖だった。
そしてその僥倖が許すままに、僕は「彼女」の革の表紙をめくり、その一ページ目を開く。そこはやはり、埃がその上に降り立っても見えるくらい真っ白で、インクの痕跡は微小な一粒でさえ残っていなかった。空っぽだった。それはこの十年間、心を抜き取られ続けた「彼女」の果ての姿で、そして「彼女」に向き合う僕も──本当は「彼女」を犠牲に満たされているはずだった僕も、こうして空っぽな状態に回帰して、死んで、ここから消えようとしている。
ゆえに、言葉は自ずから決まっていた。
「ごめん。こんな風になるなんて思ってもいなかったんだ。──ごめん」
しりとりをしているようだった。
「ただほら、ここに帰って来たよ。君と初めて会ったこの場所なら、君と僕との別れにも相応しいんじゃないかと思うんだけど、どうかな」
しかしそれに耽っているのは僕だけで、「彼女」は何も返すことなく、紙は相変わらずまっさらなまま。ふと視界が少し明るくなり、また暗くなっても、そんなランプの火の揺らぎでさえ、今の僕には「彼女」と全く絶たれて見える。
けれども、この薄暗い部屋の隅の隅まで叶わないくせに光を届けようとする、その一個体としての懸命さだけは、僕の中にも小さな火を灯したように感じた。
机上のインク壺と羽ペンとを手元に寄せる。
「今日か明日か、僕は死ぬ。そうして十年か二十年か、僕を覚えている人もいなくなって、百年経ったら、この家だってきっと雪と泥とに埋もれて消えるんだ。時間の先の先でいなくなってしまうのは分かってるんだ。でも……」
インク壺を握る。前に使われてから何十年経っているのか蓋はひどく堅く締まっていて、開けようと力を込めると両手の傷からドロドロとした血が絞り出された。傷口は黙るのをやめて、その痛みが僕を苛んだ。しかし、考えに考えた末の僕のこの自分勝手をするという一念は、決して僕の心の舵を手放さなかった。
「うん、君にだけは覚えていてほしい。この十年間の、君と僕との旅路と、物語と、その終わり方を」
羽ペンをインクに浸し、「彼女」に向けて構える。血がさらに流れ垂れて、羽ペンの先でインクと混じり合う。一つ、ランプの火が大きく揺らいで、空気の流れが僕の背中と腕とを推した。
空っぽの紙面にペン先が触れて、黒いインクが満ち始める。
『この本を開く人へ──』
五百年後か千年後か、目覚めた「彼女」と共に過ごす人へ。
『どうかこの伝承は解き放たないで』
僕と「彼女」の物語が失われないように。
知らない誰かのための言葉を連ねた僕は、そこで一度ペンを止めた。目を瞑り、大きく息を吸って、深く吐く。ランプの火の熱を顔に感じながら、僕は全身を火照らせていた。
「よし」
さあ、ここに書き記そう。「彼女」がいつか知ることのできるように。
僕は強く羽ペンを押し当てた。
『北の大地は──
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