第一章

「子供」の終わり

 北の大地は冬の最後の居場所だった。ゆえに冬は他の土地から追いやられた後も、この場所で風を吹かせ雪を降らせ、そうして自らの存在を示し続けていた。

 少年イツセは薪置き場にいた。着古して薄くなった毛皮の上着を冷気に乗っ取られ、唇を紫色に侵されながら、彼は父親に言われた通りに暖炉の燃料を集めていた。


「細いのが三本、太いのが六本、小枝は両手に持てるだけ」


 父親の言葉を連呼して両手両脇の薪を数えている。少なければすぐに燃え尽きて怒られてしまうし、多すぎれば薪置き場に戻すように言われてしまう。彼は三度ちょうど本数があることを確認してから、薪を抱えてふらふらと立ち上がった。彼は吹雪に逆らって歩いた。裸の両手は、骨に皮を貼った指の、寒風に曝されて肉の脂身のように白いのが、気味悪かった。彼は父親の姿を思い出して急いだが、その精神に反して、膝は灰色の積雪に飛び込もうとし、肩はログハウスの壁に甘え寄りつつあった。けれども彼が思うには、このログハウスは裏手から玄関に回るなどウサギでも容易いほどに小さく、それを自分が休み休みこなすなど恥ずかしくてとてもできたものではないのだった。

 玄関の分厚い木の扉はやはり開いていなかった。足で雪をどかし、抱える薪を置いて、重い扉を両手で引き開く。立ちどころに、彼を「遅い」の一言が射抜いた。薪を拾い上げて上着のままで中へ駆け込めば、自分が出た時と同じままにリビングのソファに座り、足を組んで腕を背もたれに広げた父親が、くいくいと顎で暖炉を指し示した。


「遅い。火が消えたぞ」

「ご、ごめんなさい。今すぐ点けます」


 イツセは暖炉の前に座り込んで、父親の両目に背中を晒しながら、顔を煤けた中へと突っ込んで薪を置いていく。頬が黒く汚れ、目に灰がしみることなど、置き間違えて背後の目を口へと変えてしまうことに比べれば嫌がるようなことでもない。

 それは薪の鋭いささくれが彼の手を切っても同じで、むしろ彼は、右手に入った切り傷とそこから流れる血とを見て、唇を鉤型に曲げた。


「ちょうどいいや」


残りの薪を手早く暖炉に入れ、彼は上着を脱いだ。中に着る襤褸の胸ポケットから取り出した小ナイフで、右手の傷を切り広げる。それを暖炉へと差し入れると、積み上げられた薪の上へと血が垂れた。


「燃えよ」


 血による、極小の火の魔法。

 魔法の触媒として最も効率が良いのは魔法を行使する者の血であるとされる。自分の血が最良で、それが唾液などに変わると下がっていき、他人や動物の血になるとさらに悪化する。水ではほとんど発動しない。

 イツセは母親に魔法を教わっていた。生前、私みたいに血を使うのはもう少数派なのよ、と言っていたが、そんな母親を師とする彼は血を使う以外の方法を知らなかった。だからこそ血の魔法だけは、母親のいなくなった後も毎日練習を欠かさなかった。父親には隠れたままで──それは自分に厳しくしてくる父親を驚かせ、そして自分のことを認めてもらうためだった。

 薪に火が点く。


「イツセ、今なにした」


 大きな足音が背後から近づいて来て、燃え木の立てるパチパチという音を踏み潰し、そうしてイツセは父親の不満を察した。小さな火種を作り出すくらいの魔法の操作では、褒め言葉には足りないようだった。火を大きくするよりも小さくする方が難しいとは、魔法を使う者ならば誰でも知ることだったが、しかしその程度で褒められようとした自分の志の低さが、燃える薪の明かりによって、足元に影となって自分を引き摺りこもうとしていた。

 いつものように火打石を使えばよかったと、心が澱む。


「魔法で、暖炉に火を点けました」

「どうしてそんなことした、俺を馬鹿にしてるのか」

「ち、違うよ! 僕はただ、魔法を褒めてほしくて」


 そう言った自分の口調を、彼はすぐさま後悔した。咄嗟の否定が本音を喉奥から引っ張り出していた。魚が飲み込んだ釣り針を無理やり引っ張って、赤黒い内臓が口から飛び出た時を思い出した。イツセはやるべきことをしないで見返りを乞うような今の言葉が、どうか父親には届いていませんようにと願った。


「ごめんなさい。次はもっと上手くやります」


 床に座ったまま父親の方を見上げたイツセは、天井に吊り下がったランプの逆光で黒く翳る父親の顔を見、そしてその真っ黒い穴から一つ、小さな舌打ちが自分の頬に垂れ落ちるのを感じた。それが皮膚を食い破り、血の流れに乗って全身に広がっていくのを錯覚した。

 その痛みで、彼の体が跳ねる。


「いまっ、今やるからっ! 次じゃなくて、今、今ここでやり直すから」


 彼は床に転がっていた小ナイフを掴み上げ、さっきの傷口を今度はもっと深く抉り、そしてその手を燃え盛る火の上にかざして血を注いだ。ジュワッという音がして、肉を焦がした時の臭いが煙に混じって彼の鼻を刺した。


「風よ吹き巻け!」


 火を点け直すには今の火を消さなくてはならない。薪に水は掛けられず、ゆえに風の魔法で火を収めるしかなかった。それはまさに火を見るよりも明らかに、水の魔法を使って消すよりも難しかったが、しかしイツセの頭には「失敗」の二文字を浮かべられるほどの場所は余っていなかった。

 そしてその余裕は、渦巻き状の風が暖炉の火を包み込み、細くなっていって遂に炎をねじり消してもなお、生まれる隙を持たなかった。


「おい」

「は、はい」

「今のは、何をしたんだ?」

「え? えっと……火を点けなおすために風の魔法を使って」

「なんだと?」


 父親が正座をするイツセを見下ろした。


「その、か、風の魔法で火を消したんです」


 もはやイツセには、風の魔法が正解だったのかどうかすらも分からなくなっていた。あるいは水を操って薪に触れないようにすべきだったのか、あるいは水の魔法で湿った薪をまた乾かすのが良かったのか。父親の望む答えは、暖炉が消えて薄暗くなった部屋に隠れてしまっていた。

 ただ明らかなのは、自分が間違ったということだけ。

 案の定、再び舌打ちがあった。


「お前は俺を馬鹿にしてるのか?」

「ち、違います。ただこれなら薪が濡れないかなと思って、そしたらあの、すぐに火の魔法をやり直せるから」

「風の魔法だの火の魔法だの」


 ああくそ、と父親が頭を掻き毟った。荒い息で床を何度も踏み蹴り、その度に、イツセの積み上げた薪が崩れていく。彼は俯いて、歪み軋む床板を見つめていた。──視界の中の父親の足が、いつか自分に向かってくるのではないかと怯えながら。

 しかしそれは突如として止み、イツセの視線の先で父親の踵が向きを変えた。


「もうずっとそこにいろ。俺に話しかけてくんな」


 たとえ何を言われても、イツセは「はい」と返事をするつもりでいた。今までと同じようにどんな言葉にも従う意志であったし、そもそも繰り返し使ってきたその応答は、今では何かあればすぐに口から出るようになっていた。

 しかし今回ばかりは、それが詰まった。


「え、お父さん──」


 顔を上げて視界に映ったのは、離れゆく父親の背中だった。


「待って、僕が悪かったから! ちゃんとやるから!」


 イツセは左手で床に転がっていたナイフを拾い上げて、それを高く掲げた右手に突き刺した。流れ出す血を乱暴に薪の上へと撒き散らし、火の魔法を使って「ほら、まだできるから!」と指し示す。そうしながら見つめ続ける。


「ねえ、見てよ! ほら!」


 イツセは立ち上がって父親の背に縋り抱きついた。羽の立ったその服が右手をつたう血でベッタリと汚れた。しかし彼にとってはこの汚れを理由に罵声を浴びるのも蹴りを受けるのも歓迎するところで、何もされないのが最も恐ろしいことだった。

 彼にとって、攻撃は間違いなく自分を対象としているのだった。自分に対する反応なのだった。そして今、自分の存在と行動とを「見る」人は、父親しかいない。


「まだ全然、何にもできないけど、お父さん、僕よりずっとすごいし、僕の魔法なんてくだらないかもしれないけど、でも、ちゃんとこれから練習して、お父さんみたいになるから、だから──」


 そのとき自分を振り払おうとしていた力がふと弱まって、イツセの心に、父親がまた自分に反応してくれたという喜びが沁みた。

 そうしてふり返る父親を見つめていた彼は涙滔々の目元を拭い、そしてその目を開けたとき、ちょうど彼は、父親の手のひらが自分の胸元に触れているのを見た。

 そこに、大声があった。


「ふざけんじゃねえっ!」


 ──何よりもまず彼が認識したのは自分の足が浮いたということで、続いて頭が何か硬いものにぶつかり、次の瞬きの後には狭暗い場所に押し込まれていた。嗅ぎ慣れた炭の匂い。それが暖炉の中なのだと知り、そうしてから、父親の言葉が頭の中に入ってきた。

 自分が突き飛ばされたと分かったのは、最後の最後だった。


「何が俺みたいにだ! いっつもお前は馬鹿にしやがる!」

「お、お父さん──」

「来んなっ!」


 周囲のものを投げ散らかしていた父親が、暖炉から這い出てきたイツセの頭を蹴り、そしてその背を踏みつけた。


「毎度毎度、お前は昔っからそうだ。口を開けば俺を馬鹿にする、余計なことしか言わねえ。もう散々だ、我慢ならん」

「待ってよ! 謝るから、何とかするから、ねえお父さん!」

「はんっ、お父さん、ね。俺の子供ならそれらしく振る舞いやがれってんだ。俺の望み通りにしろってんだ。それができないくせに俺の子供ヅラすんなっ、馬鹿が」


 唾を吐き、父親が一際深くイツセの背中を踏みにじる。襤褸が引っ張られ、さらに破ける。

 先に流した涙はとっくに塗り替えられていた。しかしそれは痛みによってというより、父親の言う通りにできないこと、父親の期待に応えられないことへの申し訳なさによってだった。それが薄く、恐怖という衣を纏っているだけで。

 そもそも、イツセの心の中はまだ波立っているに過ぎなかった。精神の小池があって、その水が上下していた。如何な強風が水を跳ね上げたとて、その量はたかが知れていた。だからこそこの時のイツセには、言わばまだ余裕があった。


 床にうつ伏せになって足蹴にされていたイツセは、すっと、背中にあった靴の圧迫感が消えるのを感じた。今のでおしまいなのかなと内心に安堵が灯り、続け様、その灯火に情けなさが水をかけた。別に、父親の意に添えたわけではないのに。

 うつ伏せのまま痛む首を引っ張って顔を上げると、父親がリビングから出ていくところだった。


「あ、ちょっと待って」


 ──謝らないと。謝って、これからどうすれば良いかを聞かないと。

 イツセの心に危機感が生えて、黴のように斑点模様を作り出していた。このまま自分で考えていても父親の望み通りにはできないだろうと、そう思い始めていた。ゆえに彼は、たとえ父親に一時の迷惑をかけたとしても、父親に直接、自分がどうすれば良いかを聞くべきだと考えて、地図を欲した。

 全身が痛んで、うつ伏せの体を起こすにも随分な時間がかかる程だったので、立ち上がることなどとても叶わず、彼は諦めて、四本の手足で父親の後を追った。ふと彼は自分がイヌになったような気がしたが、事実は、イヌにすらなれていないのだと知っていた。駆け寄って命令を受けても、見当違いなことばかりする、そういう、言う通りに動けない猟犬の煩わしさは、彼も知らないものではなかった。

 這う這う、イツセは鈍足でリビングを出て、横に伸びる廊下の右手、玄関に、父親の背中を見た。大きなバッグを背負い、肩からも一つ提げて、厚手の上着を着込んでいた。


「お父さん? どうしたの……?」


 いかにもな格好に不安が再起する。薪を取りに行くような、買い物に行くような軽装ではない。イツセは目を凝らして、何かバッグから衣服がはみ出しているのを見た。

 分厚いコートと荷物との隙間から、腰に下げられた一本のステッキが覗いた。


「待って、どこ行くの? ねえ!」


 父親はその叫びに振り返る素振りも見せない。イツセが駆け寄ろうと手足を動かし、その膝の床板に打ちつけられる音があっても、父親はブーツの厚底で床を蹴って、その音を打ち消すかのよう。

 やがてイツセが父親の脚に抱きつくと、痛めたばかりのその背中をステッキが襲った。


「このっ、離れろっ」

「う、やだ、やだっ。行かないでっ。僕、頑張るから、ちゃんとやるから──」

「しつけぇ!」


 そこでとうとう父親が、イツセの抱きついている方の脚を勢いよく振り上げた。無理やり引き剥がされた体が壁に叩きつけられ、落ちて、死んだウサギのように床に倒れ伏した。それでもと精神に駆動されて伸ばされた左腕も、左手も、たちまち父親のステッキの下に屈服した。

 腕は折れ曲がっていた。


「黙れ! お前など、もう知るか!」


 叫び声と共に振り回された杖が壁を殴り天井を殴り、そうして家が軋んだ。イツセにとっては、十四年間、かつては三人で、母親がいなくなってからは父親と二人で住み続けてきた家が、父親の嘆きの火によって崩れんとしているかのようだった。あるいは家の軋みは、その薪炭である自分を非難する轟々とした声であるような気もした。──どうあっても、自分の起こした火によって自分の家を崩し、そこに埋もれる運命だった。

 扉が開けられた。枠の向こうは吹雪いて灰色だった。その大流から分かれ出て侵入してくる風が父親のコートをはためかせ、そして家の軋みをいっそう大きくした。


「お父さん」


 それは風雪の狂った声に比べれば存在しないも同然の呟きだったが、しかし父親は耳ざとく──わざわざそれをつまみ上げた。


「金輪際、お前を俺の子供だと思うことはない! 二度と、二度とだ!」


 ──なんて。

 心内の池底に大きな穴が穿たれ、そこから滔々と水が流れ出て去って、水面の大浪が静まるよりも早く、水があっという間に枯れ尽くした。

 勢いよく扉が閉ざされた。その大音を以って、二人の家が倒れ去った。

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