父を殺そうとした夜

鈴木一矢

1話完結


 幼い頃、父の枕元に刃物を持って立ったことがあった。


 私の父は厳格とか古風とか、そういうのとは違うタイプで、かと言ってよくテレビなんかで取り上げられる毎日のように家庭内暴力を繰り返すろくでなしとも違った。

 外ではよく働き、上司や部下からの信頼も厚かったと聞く。しかし、私にとって父は理不尽の塊だったのだ。父は私を「自分が理想とする息子」に育てたかったのだと思う。その理想という名の轍を一歩でも踏み外せば、折檻が待っていた。


 父は学生時代にサッカーをしており、いま思えば大した実績も技術もあったわけではないと思うのだが、自分が疑問を持つより前に当たり前にサッカーをほぼ強制で習わせられた。幸い、運動自体は好きでサッカーそのものに苦痛を感じたことはなかったのだが、理想を押し付けられるとなると話は変わる。

 父の教えは素人知識にも関わらず、監督の意向よりも上でなければいけない。父が「エゴイストになれ」と言うなら、チーム力を重んじる監督の前でもエゴを突き通す。当然そうなればメンバーからは外されるが、私の父にとっては自分の教えが間違っていたという考えは微塵もなく、「メンバーを外された」という事実だけで私に制裁を加える理由ができるのだ。


 いまでも思い出す父の顔は、呼吸を忘れるくらいに歯を食いしばり、真っ赤になった姿。この顔になると誰も手をつけられない。ただただ感情的に、無慈悲な暴力が幼少期の私に降りかかる。


「動くなよ」


 そう言われ気をつけの姿勢になる。この状態で平手打ちが飛んでくるのがいつものパターンだが、その際に目を瞑ったり、手でガードしたり、動いたりしてはいけない。それは反抗とみなされるため、もう一度最初から


「動くなって」


 予想だにしない痛みより、絶対に来るとわかっている痛みの方が恐怖になると、幼いながらに学んだ。何度も何度もやり直し、その度に平手打ちを食らうと、鼻血が出てくる。その頃には流れ落ちているのが涙なのか鼻水なのか血なのか、自分でもわからなくなっていた。


「床を汚すな」


 ポタッと、鼻血が床に垂れると父はそう言い、さらに私を殴りつけた。その衝撃で再び血が床に落ちると汚すなと追撃が来る。そんな繰り返しだ。そんな様子を見る母はいつも


「やりすぎだよ〜」


 そう言いつつも、自分の力で止めることはできないとわかっているので、なにか行動に起こしたりはしなかった。


「お父さんによく似てるね〜」


 親戚の集まりで決まって言われるこの言葉が、大嫌いだった。自分にとっての父の顔は、あの顔だから。

 少しでも父から離れようと、中学生からは父が絶対にしないであろう髪型や服装をし、結果として似ていると言われることも減った。

 高校生になり、アルバイトを始めると色々な大人と接することになり、父の異常性を改めて客観視することができた。同時に少しずつ、社会性が身についたこともあり、父のあしらい方がわかるようになっていた。父が変わるのでなく、私が変わることでようやく呪縛から解き放たれたのだ。だからこそ、あの夜のことは鮮明に覚えている。


 父からの折檻を受けた日の夜、助けてくれない母を、非力な自分を、そして元凶たる父を、その全てから解放されたくて、台所から包丁を持ち出し、滑らないように両手で大事に握って、父と母が眠る寝室に向かった。意外にも足取りは軽かったのを覚えている。しかし音をたてないように扉を開けて、父の寝顔を見た瞬間、現実感が湧いてきた。

 自分がいま持っているのは刃物で、その気になれば父を刺して全て終わりにできる。じゃあ、そのあとは? 自分はどうなる? こんな奴のために、自分の人生を犠牲にするのか? でもそれならどうする? 耐えられるか?

 体感的には十分以上、枕元に立っていた気がする。けど実際は一瞬だったのではないだろうか。結局私は非力な子供のまま、その夜を終えた。


 そしていま、私の枕元には父が立っている。


 私と妻の眠る寝室。六畳ほどの洋室はダブルベットを置けばそれだけでほとんどいっぱいになってしまう。

 いつも通り寝息を立てている妻を起こさないようにベットに入り、目を瞑る。私は寝つきが悪い方で、何度も体制を変えては、その日の自分にとってのベストポジションを見つけようとしていた。

 横を向いたそのとき、瞼の裏側から気配を感じた。ゆっくりと目を開くと、そこには私を見下ろすように立っている誰かの脚。そのまま目線だけを上げると、そこにいたのは父だった。

 父の姿を最後に見たのは五年前。棺の中で眠る年老いた姿。死因は肺癌だった。患ったと聞いたとき、一応は大人の対応として姿を見せた。父は当時のことなんて覚えてないどころか、そもそも悪いとすら思っていないので、普通の親子のように接してきていた。痩せたその姿を見ても、心の中では父に対する恐怖は消えていなかった。太い腕だろうが細い腕だろうが、自分を傷つけてきたそれを完璧に克服できるほど、自分は強くはない。


 亡くなったはずの父が私を見下ろしている。しかもその姿は、私が幼少期の、一番恐れていた頃のそれだ。無表情で私を見下ろしている。きっと夢だと目を瞑り、そのまま朝を迎えた。

 それから毎晩、父は現れるようになった。なにをしてくるでもなく、私を見下ろす。妻に相談したい気持ちもあったが、精神的な負担をいまの妻に与えたくはなかった。

 毎晩現れる父を見て、あることに気がついた。少しずつ、表情が変わっている。例えば口元。数日前よりなんだか悲しそうな、そんな印象。


「父は謝りたいのかもしれない」


 そんな風に考え出したのは、父が現れて一週間ほどが経った頃だった。悲しそうな顔で、なにも告げずに私を見る。理由はそれしか思いつかなかった。ただ一言「許すよ」と言えば、父は満足するだろうか? 私は本心から、父を許すことはできないとわかっていた。父が死んで本当の意味でその存在から解放されたと思っていたのに、死んでも尚私を離してはくれないのか。

 幼少期と同じ、理想の押し付けだ。亡霊となってまで謝りに来たのだから、許すのが当然と。きっとそうに決まっている。でもここで許せば父の思う壺だ。父が消えるまで、根比べといこうじゃないか。私も大人になって、父と同じように自分を曲げない力を手に入れた。


 今日も、父は枕元に立っている。私はそれを無視する。

 父に背を向けて眠る。無視してやる。

 父の顔がまた少し変わった気がする。私は気にしない。

 父の視線がより強く、私の背中を刺す。気分が悪い。

 なに見てんだ、いい加減しろ。

 どれだけ俺の邪魔をするんだ。もういいだろ。

 俺になんか文句でもあんのか。


 あの夜の続きをしよう。ちゃんと終わらせよう。そんな思いが頭の中をグルグルグルグルと巡っている。台所から刃物を持って、落とさないように、大切に両手で握る。あの時と同じだ。

 寝室の扉を静かに開ける。俺がいなくても、もうそれはベットの脇に立っていた。悲しい? 許して欲しい? そんなんじゃない。その顔は歯を食いしばって、真っ赤になっていた。そうだ、俺がよく知る父の顔。


「やっぱりそっくりだ」


 最初からわかってたのかもしれない。気がつかないようにしてただけなんだ。父だと、そう思いたかっただけなんだ。それは、俺だ。父にそっくりの、歳をとってより瓜二つになった自分自身。それが毎晩毎晩、枕元で俺の隣にいる妻を、そのお腹の中の子を見てるんだ。

 

 妊娠が発覚して真っ先に出た感情は喜びじゃなく、恐怖だった。自分に子供ができる。あんな幼少期を過ごした自分が。父のようになるのではと、そう思った。父の呪縛から解き放たれてようやく自分のために生きることができると思った矢先に、子供という呪縛が父の顔を覗かせながら現れた。


 枕元に立っている俺の顔は父と同じだ。きっとあの夜の俺も、こんな顔をしていたんじゃないだろうか。

 もうなにかに縛られるのはたくさんだ。いまの俺は非力な子供じゃない。


「動くなよ」


 喉から這い上がってきたのは俺の声か、父の声か。そんなことはもうどうでもいい。両手に力を込めて、新たな「俺を縛るもの」を確実に殺さなければ。もう失敗しない。


 俺だって、俺の理想を追い求めてもいいだろ?

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父を殺そうとした夜 鈴木一矢 @1kazu8ya

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