銀冠の粘菌術士

鳥辺野九

銀冠の小部屋でアイスコーヒーを飲む


 釧路湿原で違法に増築されたメガソーラー施設の撤去工事中に、地中から新種の粘菌が発見された。

 約25平方キロメートルにおよぶ巨大コロニーを形成していた新種粘菌は『クシロスライム』と命名された。




 私の足下にクシロスライムが潜んでいる。思うだけで肌が粟立つ。ブーツが泥に塗れるのも構わず、足早に湿地を抜けた。

 釧路湿原に一軒のログハウスが建つ。ウッドデッキが北欧の湖畔リゾートを思わせる涼やかな風景の中、上半身ビキニ水着にだらしなく白衣を羽織った長身の女が一人。乃木和のぎわカタナはクシロスライム主任研究者である。

 クシロスライム。奴らは太古の時代から姿を変えず生き続けてきた単細胞生物だ。そして現代社会が渇望する大いなる可能性を秘めた謎の生命体でもある。


「乃木和先輩、わざわざ来てやりました」


 クシロスライムは二酸化炭素を食って熱を生む。これほど近代において人類の経済活動に適合する生命体がいただろうか。

 釧路湿原にて。メガソーラー施設が本来なら地面に吸収されるはずの太陽熱を遮り、湿原の自然環境に多大な影響を与えた。それはクシロスライムにとっては絶好の生息環境であった。太陽光によって活動を制限されていたクシロスライムは湿原を覆い尽くす勢いで爆発的に増殖している。


「よく来たな、群雲むらくも。まずは脱げ。もしくは飲め」


「脱ぎません。飲みます」


 ワイシャツの襟元を正し、細いネクタイを締め直す。いくら温度湿度が高いと言えど、乃木和先輩のような格好はしたくない。

 ウッドデッキのテーブルにはアイスコーヒーのデカンタと、焼き菓子みたいな得体の知れないブツ。


「研究の進捗具合を聞かせてください」


 アイスコーヒーを自分でグラスに注ぐ。カラン、とデカンタの氷が涼しい音を聴かせてくれた。


「はっきり言っておく」


 上半身ビキニに白衣姿の乃木和先輩はアイスコーヒーのグラスを掲げた。祝杯のように高らかと。


「このままではクシロスライムの勝ちだ。北海道全土が奴らに侵食される日も近い」


 10月の釧路湿原はクシロスライムの発熱効果で暑い。だからアイスコーヒーが冷たくて美味しい。そして乃木和先輩の野望が叶う日も、近い。




 乃木和カタナは変人である。こと人工知能の扱いに関しては変態的な特殊能力を発揮する。女子高生時代からやれサイコパスだ、やれマッドサイエンティストだ、と言われていたものだ。

 今も、クシロスライムにコンピュータ将棋を教えている。マッドっぷりは健在だ。


「で、国のアホどもの見解は?」


 ツーブロックに決めたショートカットを掻き上げて、乃木和先輩はゲーミングノートPCのモニターを睨んでいる。


「そのアホどもに私も含まれますか?」


「いや、おまえはあたしの特別だ。違う見方が出来る観察者だ。だから呼んだ」


 なら、いい。許す。


「厚生労働省と文部科学省、国土交通省まで出張ってきて、クシロスライムの取り扱いはうちにやらせろって揉めてます」


「相変わらずレベル低いな」


 USB接続端子から伸びる長いケーブルがウッドデッキを越えて地面に突き刺さっている。乃木和先輩は大きめのイヤリングを指で弾きながらマウス操作していた。


「厚労省は病原体媒介を懸念しています。文科省は発熱能力を発電に使えないか画策中です。国交省は国土の開発ならうちだろうってちょっかい出してます」


 今のところ、私が所属する文部科学省がクシロスライム研究の主導権を握っている。

 乃木和先輩のモニター内の将棋盤では相手側に主導権がありそうだ。


「強くなりそうですか?」


「最適手を選んで生き延びる将棋を教えている。なかなか賢いぞ」


 生き延びる将棋を指すクシロスライム。厄介だ。


「道理でクシロスライムの生息域が広がってるわけです。旭川市近郊でも粘菌群体が発見されました。たぶん、同じ奴です」


「旭川まで逃げたか。やるな」


 そう笑ってマウスをクリック。将棋盤のクシロスライムはすぐさまリアクションを返してきた。


「反応速度すごいですね」


「直挿しだからな」


「あの先に、クシロスライムがいるんですか?」


 USBケーブルの先は直で地面。考えるだけで鳥肌ものだ。


「餌のために将棋を楽しんでるかな」


「迷路をクリアして餌にたどり着く粘菌もいます」


「記憶を継承するように群体としてパターンを認識する奴らだ」


「神経細胞のシナプス結合に似てます」


「それよ」


 乃木和先輩の大きめのイヤリングがチリンと揺れる。


「二酸化炭素を食って熱を発している時、あいつらはかすかに荷電する。それがオン状態だ。発していない時はオフ。もうわかるか?」


「ゼロとイチ。二進数です」


 乃木和先輩はニヤリと笑う。ある意味、クシロスライム以上に人類に仇なす素敵な笑顔だ。


「半径64匹のクシロスライム球体がある。中心から対となる64クシロをオン、反対側をオフに固定すればオンとオフが同時に両立するクシロ球となる」


「すなわち量子ビット化ですね」


「量子ビットと化したクシロスライム球体が多層構造で三次元的に配備され、それが釧路から旭川、札幌まで増殖するんだ。どうなる?」


 私はアイスコーヒーを一口飲んだ。内なる興奮と潜在的恐怖がせめぎ合っている。冷たいコーヒーごときで冷静になれるものか。


「情報伝達速度が釧路札幌間で光の速さを越えます」


「処理時間ゼロだ。あたしの北海道全土量子コンピュータ計画は、この将棋ゲームにかかっている」


 乃木和先輩の野望が蠢き出す。


「我々の手で制御できますか?」


「大丈夫。奥の手もすでに用意してある」


「奥の手?」


 爆発的に増殖するクシロスライムへの対抗手段など存在するのか。乃木和先輩はコーヒーに添えてあった焼き菓子のようなモノを口に放り込んだ。


「焼いて食ったらすごく美味い」


「……食ったの? 食ったの!」


「おまえも食うか? 量子ビット化したあいつらが害悪だと判断されたら日本人全員で食い尽くせばいい」


 私は初めてクシロスライムに同情した。乃木和カタナと出会ったのが、奴らの運の尽きだ。

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