エピローグ

 桜咲く季節、かつての東京から遠く離れた田舎の小さな町。薫と綾は、荒廃した都市の喧騒を逃れ、ここに新しい居場所を見つけていた。二人が住まいとしたのは、築百年を超える古い農家だった。朽ちかけていた屋根や壁は、二人の手で丁寧に修繕され、今では温かな生活の匂いが漂っている。


 薫は庭に立ち、朝日に照らされた野菜畑を見つめていた。かつて「真贋査問人」として複製人間を追っていた彼女の手には、今、柔らかな土の感触が残っている。畑には、トマトやナス、キュウリなどの苗が整然と並び、その緑の葉が朝露に輝いていた。


 畑の向こうには、桜並木が広がっている。満開の桜の花びらが、そよ風に乗って舞い落ちる様は、まるで淡いピンクの雪のようだった。その光景は、荒廃した未来都市の記憶とは対照的な、穏やかで美しい世界を表していた。


 家の中から、綾の姿が現れる。彼女は薫に向かって微笑みかけた。その笑顔は、永田博士の研究所で見た時よりも柔らかく、人間味に溢れていた。綾の長い黒髪は、朝日に照らされて艶やかに輝いている。彼女の白磁のような肌は、今では健康的な血色を帯び、頬には薄っすらと赤みがさしていた。


「朝ごはんの準備ができたわ」


 綾の声は、クリスタルのように澄んでいながら、温かみのある響きを持っていた。


 薫は綾の姿に見とれた。複製人間として生み出された彼女が、今では生き生きとした表情を浮かべている。その姿は、薫の心を温かく包み込んだ。


「ありがとう。すぐに行くわ」


 薫は畑仕事の手を休め、家の方へ歩み寄った。


 二人で囲む朝食の時間。テーブルには、薫が育てた野菜を使った料理が並んでいる。窓から差し込む朝日が、食卓を優しく照らしていた。


 食事を終えると、綾は地元の図書館へと向かう準備を始めた。彼女は、そこでひっそりと働いていた。本に囲まれた静かな空間で過ごす時間は、綾にとって心安らぐものだった。


 薫は綾を見送った後、再び畑仕事に戻る。土を耕し、水をやり、雑草を抜く。その単純な作業の中に、薫は新たな喜びを見出していた。


 時折、都会の喧騒や過去の記憶が蘇ることもある。真贋査問人としての日々、永田博士との戦い、そして自分も複製人間だったという衝撃の事実。しかし、そんな時も、互いの存在が大きな慰めとなった。


 夕暮れ時、仕事を終えた綾が帰ってくる。薫は縁側に腰を下ろし、綾を待っていた。綾の姿が見えると、薫の顔に自然と笑みがこぼれる。


 綾は薫の隣に座り、その肩に頭を寄せた。二人は言葉を交わすことなく、ただ寄り添っていた。遠くで風鈴の音が聞こえる。その澄んだ音色は、彼女たちの新しい人生の始まりを静かに告げているかのようだった。


 薫は綾の手を取った。その手のぬくもりに、薫は人間と複製人間の境界など、もはや意味がないことを実感していた。二人の間にあるのは、ただ深い愛情だけだった。


 夕陽が地平線に沈んでいく。その光景は、かつて見た東京の夕暮れとは全く異なる美しさを持っていた。薫と綾は、その光景を静かに見つめていた。


 これが、自分たちの手で選び取った未来。そこに、真の自由があった。二人は、小さな幸せを大切にしながら、これからも歩み続けていくだろう。


 夜風が二人の髪をそっと撫でていった。それは、新たな夜の訪れと共に、彼女たちの明日への希望を運んでいるようだった。


(了)



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【SF短編小説】電氣桜花 ―人工の心、真実の愛― 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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