第五幕:新たな夜明け

 東京の夜明け前、永田博士の研究所は不気味な静けさに包まれていた。かつての超高層ビル群は、朽ちた巨人の骨のように空を突き刺し、その間を縫うように、薫と綾は忍び寄っていた。


 研究所の外観は、荒廃した未来都市の中にあって、異様な存在感を放っていた。錆びついた鉄骨と割れたガラスの間から、青白い光が漏れ出している。その光は、まるで生命の鼓動のように明滅していた。


 薫は綾の手を強く握りしめた。綾の指が、優しく薫の手に力を込め返す。二人の視線が交わる。言葉なく、互いの決意を確認し合う。


 研究所の裏口から潜入した二人は、慎重に内部を進んでいった。廊下には無数の配線が這い、壁には複雑な回路が露出している。それらは、まるで研究所自体が生命体であるかのような錯覚を与えた。


 そして、最深部の扉の前で、二人は立ち止まった。扉の向こうには、全ての真実が待っているはずだった。


 薫は深く息を吸い、扉を開けた。


 そこには、永田博士が待ち構えていた。博士の姿は、かつての威厳ある科学者の面影はなく、狂気に満ちた目が、二人を捉えた。


「よく来たね、私の最高傑作たち」


 博士の声には、奇妙な愛情と誇りが混じっていた。


「博士、もうやめてください。これ以上、複製人間を作ることは……」


 薫の言葉を、博士は軽く手を振って遮った。


「分かっていないね、薫くん。これは進化なんだよ。人類の、次なる段階への飛躍なんだ」


 博士は熱に浮かされたように語り始めた。完璧な複製人間を作り上げることで、人類の進化を促すという自らの野望を。その言葉の一つ一つが、薫の心に突き刺さった。


「人間の欠点を全て取り除いた、完璧な存在。それこそが、私たちの目指すべき未来なんだ」


 博士の言葉に、薫は激しい怒りを覚えた。


「違います! 人間らしさは、その不完全さにこそあるんです」


 薫の声が、研究所内に響き渡る。その瞬間、博士の表情が歪んだ。


「そんなこと、お前たちが分かるはずがない!」


 博士は制御パネルに手をかけた。


「なぜならお前たちは複製された存在だからだ!(●傍点)」


 けたたましい警報音が研究所内に響き渡った瞬間、状況は一変した。金属製の壁面が次々と開き、そこから無数の複製人間たちが湧き出してくる。その目は無機質に光り、動きは非人間的な正確さで、薫と綾に向かって一斉に襲いかかってきた。


 薫は瞬時に反応し、真贋査問人時代の訓練を思い出した。

 彼女の動きは流れるように滑らかで、完全な正確さを持っていた。最初の複製人間が接近すると、薫は低く身を屈め、相手の重心を崩し、一気に投げ飛ばした。次の瞬間には、別の敵の攻撃をかわし、的確な反撃で機能を停止させる。


「痛っ……」


 負傷している左肩に痛みが走る。しかし薫は止まらなかった。


 一方、綾の戦いぶりは薫とは対照的だった。彼女の動きは、まるでダンスのように美しく、予測不可能だった。複製人間たちの攻撃を、まるで風のように軽やかにすり抜け、その隙を突いて致命的な一撃を与える。


 研究所内は戦闘の轟音で満ちていた。金属がぶつかる音、電子機器が破壊される音、そして倒れゆく複製人間たちの機械的な悲鳴が入り混じる。


 しかし、時間が経つにつれ、薫と綾の息遣いが荒くなっていく。倒した敵の数以上に、新たな複製人間たちが現れ続ける。薫の動きが、わずかに鈍り始めた。


「くっ!」


 薫の頬に、鋭い傷が走る。彼女の周りを、複製人間たちが徐々に取り囲んでいく。


 綾も同様に苦戦していた。その優雅な動きにも、疲労の色が見え始めていた。


 二人は背中合わせになり、円を描くように襲い来る敵を見据えた。薫の額には汗が滲み、綾の呼吸は乱れていた。


 そのとき、天井の一部が崩れ落ち、複製人間たちの新たな波が押し寄せてきた。薫と綾の視線が交錯する。その目には、諦めではなく、強い決意が宿っていた。


 しかし、状況は刻一刻と悪化していく。研究所の壁が震え、亀裂が走り始めた。システムの過負荷警報が鳴り響く中、薫と綾は背中を寄せ合い、最後の抵抗を試みようとしていた。


 その時、綾が叫んだ。


「薫さん、あそこです!」


 綾の指さす先には、研究所の中枢システムがあった。薫は瞬時に理解した。あれを破壊すれば……。

薫の瞳が中枢システムを捉えた瞬間、時間が止まったかのように感じた。次の瞬間、彼女の体が弾かれるように前方へ飛び出した。


「止めろ!」


 博士の叫び声が背後で響く。薫は振り返ることなく、全神経を前方に集中させた。


 突如、左側から影が飛び出してきた。博士だ。薫は咄嗟に体を捻り、博士の腕を掴んで投げ飛ばした。だが、博士もすぐに立ち上がる。


 二人の激しい格闘が始まった。拳と拳がぶつかり合い、蹴りが空を切る。薫の動きは正確で無駄がなかったが、博士の狂気じみた攻撃は予測不能だった。


 薫は博士の顔面に鋭い右ストレートを放つ。博士が後ずさる。その隙を突いて、薫は中枢システムに向かって駆け出した。


 あと数メートル……。


 その時、金属音が響いた。振り返ると、博士が銃を構えていた。


「これで終わりだ!」


 銃声が鳴り響く。薫は間一髪で身を躱したが、腕を掠める鋭い痛み。しかし、彼女は立ち止まらない。


 ついに中枢システムに到達。薫は操作パネルに手をかけた。


 その瞬間、薫のわき腹を抉った弾丸がすぐ横に着弾する。振り返る薫の視界に、銃を構えた博士の姿が映る。


 一瞬痛みで視界が霞む。しかし、薫の指はパネルのボタンを押し続けた。


「ダメだ! 止めろ! 止めろ!」


 博士の絶叫。しかし、もう遅い。


 システムが起動音を鳴らし、次の瞬間、大きな爆発音と共に閃光が走った。


 研究所内の照明が次々と消え、あちこちで複製人間たちが倒れていく音が聞こえる。


 薫は床に膝をつきながらも、満足げに微笑んだ。


 研究所の警報音が遠のいていく中、床に横たわる永田博士の姿が、薫と綾の目に映った。かつての威厳ある科学者の面影は消え、今や博士はただの老婆のように見えた。


 薫は、ゆっくりと博士に近づいた。その足取りは重く、まるで時間が引き延ばされているかのようだった。綾も、薫の後を静かについていく。


 博士の瞳が、かすかに動いた。薄れゆく意識の中で、博士は薫と綾を見上げた。その目には、もはや狂気の色はなく、ただ深い悲しみと、わずかな希望の光が宿っていた。


「私は……間違っていたのかもしれない」


 博士の声は、かすれていた。その言葉は、長年の研究への懺悔のようにも聞こえた。薫は、胸に去来する複雑な感情を抑えきれずにいた。

 博士は、痛みに顔をゆがめながらも、かすかに微笑んだ。


「自由に生きよ……君たちこそが、真の進化の姿なのかもしれない」


 その言葉には、後悔と共に、薫と綾への期待が込められていた。博士の目に、一筋の涙が光った。


 薫は、思わず手を伸ばした。しかし、その指が博士に触れる前に、博士の瞳から光が消えていった。


 静寂が訪れた。警報音も止み、ただ薫と綾の息遣いだけが聞こえる。


 綾が、そっと薫の肩に手を置いた。二人は言葉を交わすことなく、博士の亡骸を見つめていた。


 やがて、遠くから夜明けの光が差し込んできた。その光は、博士の顔を優しく照らし、まるで安らかな眠りについたかのように見せた。


 薫と綾は、静かに立ち上がった。二人の目には、決意と共に、かすかな哀しみが浮かんでいた。


 彼女たちは、博士への最後の別れを告げるように、深々と頭を下げた。そして、新たな未来へと歩み出す準備をした。


 研究所を後にする二人の背中に、朝日が差し込んだ。それは、新たな時代の幕開けを告げているかのようだった。


 研究所のアラームが鳴り響く中、薫と綾は互いを支え合いながら、静かに姿を消した。外に出ると、夜明けの光が二人を包み込んだ。


 薫は綾の顔を見つめた。朝日に照らされた綾の姿は、これまで以上に美しく輝いていた。その瞳に映る自分の姿を見て、薫は気づいた。人間か複製人間かなどということは、もはや重要ではないのだと。


 二人は手を取り合い、新たな道を歩み始めた。その先には、人間と複製人間の区別のない、新しい世界が広がっていた。


 東京の街並みが、朝日に照らされて輝き始める。崩れかけた建物の間から、一輪の花が顔を覗かせていた。それは、この荒廃した世界に、新たな希望の兆しを告げているかのようだった。


 薫と綾の歩む道に、かすかな虹が架かった。それは、彼女たちの新しい人生の始まりを祝福しているかのようだった。

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