瀧本は見せたことのない笑みを浮かべて言う。

「だって、忍川先輩には詩織先輩という人がもういるのですよね。だったらもう、私の出る幕はないですもの」

「いや、でも――」

 告白してみることくらいはいいんじゃないかなと築垣は言う。しかし瀧本は首を横に振った。

「人様の恋路に水を差すような真似をするほど、私は野暮やぼではありません」

 その言葉に迷いは感じられなかった。正直、もっとうじうじと悩むものかと思ってたが、案外いさぎよい性格のようだ。

「じゃあ、犬の彫刻はどうするんだ? せっかく創ったんだろ」

 俺が訊くと瀧本は、

「これから美術部に入るつもりです」

 と答えた。

「美術部に?」

「そうです。あの彫刻を猿渡先生に見せたら、きみには芸術の才能がある――とか言われてしまって、それならもういっそ、中学生の三年間を美術に捧げてみようって思ったんです」

 私もです、と尾花が軽く手をあげた。

「今まで帰宅部で、でも何かやりたいと思っていたので、試しに美術部へ入部してみるつもりです」

 それじゃあ私たちはこれで、と言って、二人は俺たちが来たほうへと駆け去っていった。

 俺と築垣は、その振り返ってその背中を見送る。

 さらに進む。

 図書室へ続く螺旋階段が見えてきた。


「いいから塗れって言ったのはおめえさんだろうが」


 どん詰まりから、威勢の良いべらんめえ調が聞こえてきた。

 何事かと思って駆け寄ってみると、また橋本と猿渡が正面から向き合って言い争っていた。

「いいからとは言いましたがね、それはどんな色でもいいというわけではありませんよ。だいたいなんでピンク色なんかで塗るのですか」

 猿渡はトイレの出入り口の脇の壁を指して、

「しかもここだけ」

 と言った。

 見れば猿渡が指さしたところだけが、ピンク色に塗られている。まるでそこに、ピンク色の新しい扉があるかのようだ。

「どうしたのですか」

 と築垣が声を掛ける。

 猿渡を睨みつけていた橋本は、築垣に気づくと白い歯を見せて微笑み、やあ推理のお嬢さんと言った。それからまた厳しい顔つきになり、この野郎がまた文句をつけてきやがったんだよと猿渡を指差す。

「壁を塗り直しておけっていうからその通りにしただけなのによう」

 ぜんぜんその通りではありませんよと猿渡は甲高い声でいた。

「もともと白だったではないですか。それをピンク色に塗ったのですから塗り直しではなく完全に塗りですよこれは」

「だから俺は無理だって言ったじゃねえか。それなのに、いいから塗れって言うから仕方なくやったんだ」

「いいから、というのは文句を言わずに、という意味ですよ。なんでよりによってピンク色なんかに」

「白いペンキがなかったんだからしょうがねえだろ」

「だったらそう言えばいいではないですか」

「言おうとしたのに聴く耳を持たなかったのはおめえさんだろ。塗れ塗れって一方的に言ってどっか行っちまったじゃねえか」

 どうやらこの口論は長引きそうだ。俺は築垣と顔を見合わせて密かに笑ってから、どん詰まりに背を向けた。

 するとそこへ、ちょうど林田がやって来た。

 林田の隣には――。

 望月が立っていた。

「水沢先輩」

 と望月が言った。

「どうしたんだ、二人とも」

「朗報だぜ」

 ユニフォーム姿の林田は両手を腰に当てて、

「望月がサッカー部に入るそうだ」

 と言った。

「おまえが?」

 俺も驚いて望月に目をやった。

 小柄で髪を短く切っていて、真っ黒に日焼けした一年下の後輩は、きらきらした目で俺を見あげている。

 たしかにクレッシダではそこそこの腕前を見せていたし、この学校には女子サッカー部がないから部活でサッカーをやりたいというなら男子に混じってやるしかないのだが、小学生の頃に比べて男女の体格差体力差はより顕著けんちょになっているはずだ。男ばかりの環境に耐えられるかが心配だった。何より、あれほど愛していたクレッシダはどうするというのだろうか。

 そう尋ねると、これは挑戦ですよと望月は言った。

「挑戦?」

「そう、挑戦です。私と水沢先輩の勝負です。もし私が水沢先輩より先にレギュラーを獲ったら、クレッシダに戻ってきてください」

「そう来たか」

「そう行ってみました」

「もし俺が勝ったら?」

 望月は少し考えてから、その時は私もレギュラーになりますと答えた。

「そうすれば、また三人でディフェンスをになえるじゃないですか」

 望月は嬉しそうに林田と、そして俺の腕を同時に掴んだ。

「私たち三人のディフェンスを、全国に見せつけてやりましょうよ。この三栖手里みすてり中学校から」

「それじゃあけが成立してないじゃないか」

 なあ築垣、と振り返ったが――。

「あれ?」

 すでに築垣の姿は消えていた。

 ――でも。

 悪い気分ではなかった。そもそも負ける気はしないし、何よりこの三人でまたサッカーができるのは嬉しい。少年サッカーには年齢制限もあるから、これが最善の選択なのかもしれない。

「いいねいいね、待ってるぜ、おまえらがレギュラーになれるのを」

 林田はすでに乗り気のようだ。

「そうだな」

 と俺も答えた。嬉しかったが、渋々といったていを装って。

 三人いれば、レギュラーの重みにも耐えられるだろう。何より、技術的に相性がいい。相乗効果も望める。


 ケルベロスに隙はないのだ。


「行こうぜ」

 と林田が言った。

「どこへ」

 と俺はく。

「実は――」

 と事情を語ったのは望月だった。

 サッカー部への入部を希望した望月は――案の定というべきか――女子には無理だろうと顧問に反対されたのだそうだ。粘ったが、どれだけ決意を示しても顧問は聞き入れてくれなかったという。そこで、俺と林田に口添えをしてほしいということだった。

「わかったよ」

 と俺は答えた。


 今でもクレッシダに――。


 戻りたくないわけではない。

 戻れないのだ。戻りたい気持ちはあるけれど。

 それに、いずれは

 でも、もうのだ。

 だって俺たちには、先があるから。






『ケルベロスに隙はない』――了

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ケルベロスに隙はない 泉小太郎 @toitoiho-

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