終・ケルベロスに隙はない

 放課後。

 図書室へ向かうべく、廊下を歩いていると、


「水沢先輩」


 聞き覚えのあるテノールに後ろから呼び止められた。振り返ると、案の定、築垣の姿があった。築垣は後ろで手を組んで小走りで近づいてくると、俺の横に並んだ。

 歩きながら話しかけてくる。

「もう、足は治ったのですね」

「まあな」

 あれから二週間が過ぎている。捻挫は軽症だったため、すでに松葉杖は手放していた。今は普通に歩くことができるし、走ることもできる。サッカーの技だって繰り出すことができる。

 ただ、技を繰り出す機会が、今はない。部活への出席を一ヶ月にわたって禁じられているからだ。

 勝ち取ったレギュラーの座も剥奪されている。

 当然の処分だと思う。レギュラーにかかる責任を放り出すために、事故を装って自ら怪我を負ったのだ。加えて他人を加害者にしてしまいかねない状況をつくったのだから罰も受けるというものだ。むしろ退部にならずに出席停止で許されているのだから処分としては軽いのかもしれない。

 いずれにせよ――俺自身のことはともかく――巻き込んでしまった林田にかかっていた疑いがすっかり晴れたことに安心していた。

 そしてその林田は、一度は俺が勝ち取って剥奪されたレギュラーの枠に復帰している。

 何もかも――。

 俺は横目に、築垣を見る。

 俺が階段から落ちた理由を正直に話せたのはこの自称探偵が看破してくれたからだ。絵画八つ裂き事件の犯人が林田ではないことも、絵画八つ裂き事件の経緯いきさつが判明したのも、何もかも、築垣が推理を巡らせてくれたおかげだ。

 あの後――俺がみずから階段から落ちたことを打ち明けた後――築垣は校長のところへ行って、自身が突き止めた事実を話したのだそうだ。

 それで、校長は納得した。教育委員会には、俺の不注意として知らされたようだ。

 それもこれも、何もかもすべて――築垣のおかげだ。

 頭一つ分俺よりも背の高い、才色兼備の後輩の、色の白い横顔が凛として見えた。

「どうしたんですか」

 急に築垣が俺のほうを見た。それで初めて、築垣に見惚みとれていたことに気づいた。

「いや、なんでもない」

 慌てて正面を向く。

「それより水沢先輩、これらどこへ行くんですか」

「図書室だよ」

「図書室へ、何をしに行くんですか」

 築垣は問いを重ねる。宿題さ、と俺は答えた。

「今までは、部活で遅くまで練習していたからな。放課後になってすぐに帰ることにはなんとなく物足りなさを感じたんだよ。だから、その物足りなさを、宿題を終わらせることで埋めることにしたんだ」

 だから今日も物足りなさを埋めに行くんだよと言った。そうですかと築垣は笑みを見せる。

「それはいいですね。ところで――」

 久しぶりに見せた笑みを築垣は引っ込め、真剣な面持ちで言った。

「忍川先輩と詩織先輩はどうしているのでしょう」

「ああ、あの二人はこっぴどく怒られたらしいよ」

 聴いた話によれば、二人ともそれぞれに事情を聞かれた挙げ句、両親と担任と猿渡と、校長の鴨志田の五人を交えての、実に六者面談で、ほぼ丸一日をかけて説教を受けたという。

 絵を切り裂いたことそのものよりも、林田に罪を着せようとしたことをとがめられたのだそうだ。

 それは大変でしたでしょうね、と築垣は拳を口許に当てて物憂ものうげな顔をした。

「僕が下手に暴いたせいかもしれません」

「罪悪感でも感じているのか?」

「罪悪感というか――」

 うまく言えません、と築垣にしては曖昧な返事をした。

「でも、六者面談なんて、この世の出来事とは思えません。そんな目に遭うと分かっていたら、違ったやり方もあったかもしれないと思うと――」

 築垣は苦しげに唇を噛んだ。

「気にしなくてもいいと思うよ。それだけのことをやったのは事実なんだ。どうやろうと、同じ目に遭っていたはずさ」

「そうでしょうか」

「だと思うよ。何より、きみが事実を暴いていくれたから、林田は冤罪から救われたんだ。その功績の方が大きい」

「そう言ってもらえると助かりますが――」

 築垣は長い睫毛まつげを伏せる。

 慰めたつもりだったが、効果はなかったのかもしれない。黙ってしばらく歩く。

 そして廊下に曲がり角に差し掛かったときだ。


「あ」


 築垣が声をあげて一歩飛び退いた。向こうから歩いてきた別の生徒とぶつかってしまったのだ。

 築垣は飛び退いただけで済んだが、相手はその場に尻餅をついてしまっている。

「大丈夫か」

 手を伸ばして気がついた。

「きみは――」

 一年生の、瀧本とかいう女子だ。病人を思わせる白い顔と、カチューシャで髪を後ろに押さえつけて額を丸出しにしている姿はもう見慣れている。

「ごめんなさい」

 瀧本の後ろで、別の女子が頭をさげた。やや日に焼けていて、髪を垂らしている。花尾とかいう名前だっただろうか。いつも瀧本と一緒にいる印象だ。

 尾花は瀧本を助け起こしつつ、俺と築垣に向かって交互に何度も何度も頭をさげる。

「僕は大丈夫だから」

「そんなに謝らなくてもいいよ」

 俺と築垣はほぼ同時にそう言った。

 最後に、やっと立ちあがった瀧本も、俺と築垣に頭を下げて謝った。いいと言っているのに、まだ申し訳なさを感じているようだ。

 そんな二人の気をまぎらわせてあげようと思ったのか、築垣は急に明るい口調で尋ねた。

「そういえば瀧本さん、忍川先輩に例のプレゼントは渡せたかい」

「それが――」

 瀧本は下を向き、消え入りそうな声でまだです言った。

「そう。せっかく作ったのに、それは惜しいね」

 築垣が同情を寄せる。ところが予想に反して瀧本は、

「惜しくありません」

 やけに明るい声でそう言った。

「ほう、意外な答えだね」

 築垣は目も口も丸くしてそう言った。

 俺も、驚いた。惜しくないという答えに驚いたのはもちろん、いつも尾花の背中に隠れていた瀧本が、自らの口できっぱりと発言したこともまた意外だった。

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