八月十五日、晴れ
カワセミ
八月十五日、晴れ
スープを口に運びながら朝刊をめくっていたところ、キッチンの出窓から急に陽が差してきた事に気付いて首を向けた。その拍子にシンクの辺りの床に水溜りがあるのが目に入ってハッとする。
立ち上がりかけて、義母は一昨年亡くなったと思い出す。それにここは義実家でもない。よく見れば、先程沸かした麦茶をコップに注いだ際、入れた氷を一つ落としたと思い出す。私は雑巾を持ってきて溶けたその水気を拭き取った。
立ち上がってカフェカーテンの隙間から外を見る。どうやら天気予報通りに今日は雨上がりの晴れらしい。蒸し暑くなるだろう。
上の世代は次々と去り、残された夫と二人、今日は半島の先端までスタンプラリーよろしく順路を巡っての墓守りをする。日焼け止めをこれでもかと塗りたくってUVカット仕様のパーカーを着ていくのがいいだろう。
夫は私よりも十歳年長で、彼より六つ年の離れた義姉は遠方だ。義母は三十四歳で夫を産んだ人で、上に兄姉が九人いたそうだ。長兄の墓所は一族と隣接して単独で建てられていて墓石も相当に古い。表に「 居士」と未だに朱色で刻まれ、脇にレイテ沖と詳細が記されている。
十一年前に夫と結婚して、初めて義両親と共に墓参に同行した時はさすがに驚いた。まだ平成の世で、私も既に三十路を過ぎていたが、それでも、かの戦争の名残を身に接して感じる事はあまりない。私が中学の時に亡くなった実母方の祖父が唯一、十代の終わりに結核で片肺を無くしていたために徴兵を免れたと昔語りに聞いたのが、唯一であったと記憶する。
食事を再開しようとテーブルに戻ると、居間に接続した四畳半の和室で二度寝を始めていた夫の脚だけが見える。揃って行儀よくつま先が天井を向いている光景にちょっと笑ってしまった。
「……んー、どうかした?」
「あ、起きてたんだ」
「もう起きる。今何時?」
「八時十五分。まだ寝てたら? もう日差しが強いから、いつ行っても同じでしょ」
起き出してきた夫に氷を入れた麦茶を注いで差し出すと一気に煽った。
「はは。親父がいた頃は、『墓参りは午前中じゃないと縁起が悪い』って気にしてたよな」
「まあ、お義父さんももう許してくれるよ」
「ん。ふわ〜〜〜〜ぁあ、どんだけ寝ても眠いわ」
夫は大きく欠伸をしてテーブルに突っ伏した。
義母を見送ってから、夫はかねてよりの誘いを受けて転職した。『今の会社はもう近い将来すら見通しが悪い。最後の勤め先と思って』――同業他社の近しさで激務の会社とは聞いていたが、実情は噂を遥かに凌駕していた。
入社以降、帰宅が午前に及ぶ事がしばしばで驚いた。私の若い頃はまだそんな風潮もあったが、この令和の昨今、いみじくも全国規模の企業でそんな労務体制を見過ごすものか。36協定はどうなっているのだろう? 内部統制委員会とかないのか?『ブラック企業』という、私にしてみれば新奇な用語が、初めて身に添って感じられてヒヤリとした。
幸い私の務める会社は零細寄りの中小企業だが、割とのんびりした体制だ。それはそれでいつ倒産や精算、あるいは人員整理の危機に晒される可能性がない訳ではないが、今現在の夫の状況を思えば、仕事と私生活を無理なく両立できる環境はただありがたい。
これまでもずっと綱渡り状態だった。夫婦共に仕事を辞める事なく義両親を送るに至った道のりはヒヤヒヤの連続だったし、今後十年の内くらいには、今度は私の実両親の諸問題と取り組む時期になるだろう。今はその谷間の期間と思えば、落ち着かなさと現実の棚上げとの間で感情が行き来する。
「……厳しいねぇ」
「ん……何が?」
「ううん、なんでも」
思わず漏れた言葉だが、言い直すような内容でもない。
夫の転職が今後上手く軌道に乗る保証はない。しかし、ライフステージは目まぐるしく移り変わっていき、常に次を考えて備えていかなければ振り落とされてしまうだろう。
「しんどいねぇ」
「え、どうした?!」
立て続けのネガティブワードに夫がガバっと身を起こす。気遣わしげな、訝しげな眼差し。人柄だけは太鼓判なのは義母の遺伝だと思っている。
「大丈夫?
『――
ニカッと笑った義母の顔を今でも思い出せる。姑が四十四歳も年嵩であるのを最初は戸惑ったが、すぐに気にならなくなった。物事に良し悪しはあれど、年齢差の開きと嫁姑問題は反比例するというのが、私の経験則となった。驚くほど小柄な人だったが、終わりの頃は本当に小さかった。
「大丈夫。ね、お墓参りのお花どうしよっか」
「あー、多分、墓地への道すがらの農協が今日開いてると思うけど、でも、親父達と伯母さんの所はいつもお寺さんで生けてるし、本家の所も多分誰かお参りしてるだろうからなぁ。いらないかもな」
「おっさまへのお菓子だけ忘れないようにしないとね」
「そうだ、買っといてくれたんだね」
「ん。玄関に置いてある。◯屋の水羊羹にしたよ。ゼリーの方がよかったかなぁ」
「あー、いいんじゃない。おっさま好きだって言ってたもんね」
「お義父さんもね」
「ありがと、助かるよ。今日店どこも混んでそうだしなー」
義両親と、夫を可愛がってくれた義伯母はどちらもそれぞれ永代供養なので、管理はお寺に担って貰って何だかんだ世話要らずだ。
義伯母には子どもがいなかったそうだが、私達にも子どもはいない。そもそも昨今は、子どもがいてもいなくても継がせる重荷を気にして墓を建てなかったり、独身であればなおさら墓仕舞いを検討する友人も多いと聞く。
この先に、実両親を送り、順当に行けば更に先に夫を送って、私は最後に自分の始末をするのだろう。きっとそれが一番難しい。墓所に赴く時はいつも、誰でも最後は必ず死ぬという理を否が応にも突きつけられる。
それと同時に、私が生きている間だけが世界の存在時間なのだと奇妙な感慨をも抱かせる。多分それは、私が子を産まなかった事も影響しているのだろう。しかし、多くの人が皆、どれだけ人生をソフトランディングさせられるかに腐心して、戦々恐々として、あくせくするのも確かだろう。――私も。
「ねえ、
「――何でしょう」
「自分の身の内側によーく耳を澄ませて下さい」
「ん? はい。ん?」
「差し出がましいとは思うけど。本当に体か心が不調になりそうな予感が少しでもあったら、残念だけど今の仕事は続けられないと思う」
「あー。んー、まあ……」
「冗談じゃなく。私が頑張って働けばとりあえず二人生きていけるし」
「そだね。まあ、気持ちはありがとう」
「それが嫌なら、自分で仕事の環境を整えるしかないよ。キャパオーバーならできませんってノーを掲げるのさ。天は自ら助くる者を助く!」
「はは、そうだね」
「私は、良介さんと死ぬまで楽しく過ごしたいんだよ」
義母の兄の夏の苛烈な日差しに晒されて、乾き、朽ちた墓石を思い起こす。
それを全うした人も、それが叶わなかった人も、連綿と繋がれた先端に今私と夫はいる。そこに少しの意味合いでも見出すならば、私達の背には過たず幸福を求める義務が負わされている筈だ。
「ありがと」
うんと若い頃、私は自分が世界の全ての問題を解決できるものだと信じていた。今の私には、自分の目が届く範囲の物事と人々に手を差し伸べるのが精々だ。けれど、もうここにはいない人にまでもそれを伸ばす事ができるのは、若い頃の自分に対して自慢できる唯一だと言えなくもない。
夫は困ったような顔をしている。こんなオジサンを可愛く思うのも、きっともう世界でたった一人私だけだろう。
「……急いで支度するから早めに行こうか。今なら親父達のとこ一番にお参りして、伯父さんのお墓は正午のサイレンに間に合いそうだ。帰りにお義父さん達に土産も買って行きたいね。お義父さん、こないだの酒、気に入ってくれたじゃない? お義母さんの好きなあのお菓子も季節限定のが出てるんじゃないかなぁ。それと――」
外でセミがけたたましく鳴き始める。祈りの吹鳴にも似て。
今日は本当にいい天気だ。
【終】
八月十五日、晴れ カワセミ @kawasemi_kawasemi
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