アフターストーリー
ちび
アフターストーリー
場内にブザーが鳴り響く。数瞬前まで場内を満たしていた歓声はぴたりと止んだ。相手コート側だけがやけに騒がしい。ぽつり、ぽつりと観客が座る。最高潮までボルテージの上がった会場は反対側に温度を奪われるように半分だけ急激に冷めていった。斉木遥は同時に自分の体が、頭が、心が冷めていくのを感じていた。茫然と立っていた桐生がぺた、と尻餅をつく。それを皮切りに時が止まったようだったコート内の空気が弛緩していく。高校最後のインターハイ。波木高校バレーボール部はトーナメント準々決勝で昨年度優勝校、港旭高校に敗北を喫した。
遥は自らに問いかける。勝ちたかったか。無論。勝てた戦いだった。悔しいか。それも無論。これまでの努力全てがここで終わった。何の成果も残さず。歴史を塗り替えたわけでもなく。ファインプレーを打ち出したわけでもなく。悔しくない訳はない。しかし。だったら、今何も感じていない俺は何なんだ。
挨拶――握手。コートから一歩出れば、もう戻って来れない。もう一度ここに立つことはない。おそらく、一生。掠めた思いが一歩目を踏み止まらせたが、無いと信じたかった未練を断ち切るようにすぐに足を踏み出す。これで、終わり。なんとも呆気なく。それでいて、静かな最後だった。
顧問の集合がかかり、部員たちが駆け足で円陣を作る。今までの努力を称える言葉、次に向けた向上心を促す言葉。ありきたりな、ドラマだったら感動シーンの風景。次がない三年生には残酷すぎる言葉たち。さして強豪でもない波木高校が準々決勝まで残れたのは単にエース、斉木遥がチームに居たからであり、後輩からしても今後の展望は暗すぎた。
解散の挨拶の直後、膝から崩れて泣いたのはミドルの鶴城で、貰い泣きして笑いながら鶴城を怒ったのはセッター速水。他の部員たちも一緒になって自分たちを称え合うのを傍目に、遥は黙って輪を外れた。
観客席の端に一人で座る。足を組んで後ろに伸び、手を目の上に翳して視界を遮った。数分して、隣に一人の女子――香取鈴架が座った。
「どう?悔しい?」
「負けた!」
目を瞑ったまま相手の存在を確認した遥は、質問に答えずに乱雑に言葉を投げた。
「知ってる。まぁ相手が日本一だもん、インハイ初出場の波木が勝てちゃ大番狂せも甚だしいってとこだよ」
対する鈴架は饒舌だ。
「いや、勝てた試合だったけどな。見てただろ」
コートでは既に次の試合の準備が始まっており、直にブザーが鳴るだろう。遥は無表情でコートを眺める。
「うーん、あそこのサーブミスは痛かったけどさ」
鈴架が首を傾げて言う。
「違うね。流れ変えたのは俺のドリだよ」
さも忌々しげに遥が吐く。
「あー……ね、反則取られちゃったもんね」
今の三年の代が始まった時から波木はダブルセッターのフォーメーションをとっている。どこに飛んだボールも遥が走ってトスを上げる。逆にもう一人のセッター速水が上げたトスは絶対に遥が打つ。どれだけ遠いボールでも遥は相手コートを見て一番いいアタッカーに最高打点のトスを上げるし、どんなに悪いトスでも相手コートの守備の穴に確実に落とす。それでなければブロックで弾く。この技量は高校生どころか、プロ選手のレベルに優に達しているだろう。遥がエラーをしたのはラスト五セット目の中盤。波木が十点、相手校の港旭が八点の局面だった。強いスパイクが後衛に回っていたアタッカー、清水の前で曲がり、何とか拾ったもののコート外に出た低いボールを遥がバックステップで追い、後ろに飛びながら低い位置のオーバーで対角のライト側に上げた。正にスーパープレーと会場は沸いたのだが、スパイクを打った後にダブルコンタクトを取られ、そこから流れが相手に向いたのだった。
「敗因はあれ!わざわざ強く出す必要もないのに意地張ってすみませんでした!俺が悪うございました!」
半ばやけになって遥は言葉を吐き捨てる。
「いや流れ云々の前にあんた自分が何点取ったかわかってる?」
鈴架は呆れたような口調で言う。確かにミスの数の何倍好プレーをしたかわからない。
「さぁー?負けたことには変わりないしー」
遥が吹いてみせると、鈴架は遥の顔を見遣った。
「全部自分のせいなんだ?負けたのは?」
棘のある言葉に一瞬遥は顔を強張らせるが、すぐに力を抜いて真顔になる。
「人に責任押し付けて良いことあんの?勿体無くない?その時間」
こう言って軽く溜息をつく遥は誰よりもストイックだ。自分に厳しく、他人に優しく。それを限界まで具現化したのが斉木遥という人間である。
「ごめん、意地悪かった。まぁほんと、みんなよく頑張ったよね、今日」
鈴架の適度に軽い言葉に、遥も表情を緩めて応じる。
「うん。まじ凄いよ、インハイ初出場で準々決勝とか結構快挙だよね」
そうは言ったものの遥は始まったばかりの試合を凝視しており、全く話に身が入っていない。
「そーだよー、校長が泣いちゃう」
「どーでもいいです」
「あたしも泣いちゃう」
「嘘吐くなよ」
ほんとに泣いてたんだけどね、と呟いた口は容易に読み取れたが、鈴架自身は聞こえてないと思っているらしい。
「落ち込んでる?」
鈴架が軽口に綯い交ぜて聞く。
「いや、あー、うん、ちょっと」
不意打ちに言葉を詰まらせ、素直な言葉が滑り出る。
「そうだよなぁー、ま、ドンマイ」
鈴架は呆気なくにやっと笑って見せた。
「え、うん」
明らかに困惑しているエースの目を見て愉快そうに笑いながら、鈴架は立ち上がった。
「さぁーて、帰りますかね!女子は予選敗退だし!遥と違って推薦も何もないあたしは勉強しなきゃだし?」
鈴架は上目遣いで遥を伺う。遥は鈴架をじろっと睨んだ。
「へーそうですか、俺も帰るかな」
そう言って遥は何の感情も表に出さずに立ち上がった。鈴架としたらカマをかけたのに動じない遥が多少面白くなく、唇を突き出して眉を上げる。
「でっかぁ。身長いくつよ」
「百九十一」
「ひぃー、学年最高とはいえたっかいね、こりゃあたしの首も痛くなるわけだ」
「そんなに喋ってねぇよ、俺のせいにすんなー」
「はぁい」
歩幅の大きい遥は余裕で鈴架を置いていき、鈴架の方も追いつく気はなく後ろから手を振っていた。
試合の後に毎度鈴架がくっついてきて、一頻り喋って帰るのはいつしかお約束になっていた。遥としてもチームの前で鈴架に話しかけられるのは色々と面倒なので諦めて試合後は外すようになった。そもそもチームメイトが自分を褒め称える空間が好きではなかったので好都合ではあった。
一人で電車に乗り込むと、スマホを開く。待ち受けには機械的な文字。
「絶対優勝」
この待ち受けを設定したのは、遥が母に言われた言葉が関係していた。
「もし今度のインターハイで優勝できなかったらバレーボールは辞めなさい。勝てないことをし続ける程無駄なことはないわ」
嫌な思い出を振り払うように頭を振る。忘れたところで決まったことは変わるわけではないが。
一足遅れて間に合わなかった友達からの応援のメッセージに既読をつけてはありがとうと返した。比較的仲の良い友達には「ごめーん負けたー」と添える。
それ以降の返信は無視した。
以前なら電車で大会の振り返りをして次回に向けた対策を練ってチームメイトへの労いをしてミスした仲間のメンタルコンディションを整えて、とすべきことに溢れていた。しかしもうそれすらできない。今更遥はバレーボールがないことへの怖さに気づき、試合から二時間ほどのブランクを空けてやっと負けの二文字の重さを思い知った。愕然、という言葉が頭に浮かんだ。
自分が唯一できたバレーボールを奪われた今、遥には何も残っていなかった。茫然としたまま家へ帰り、母に挨拶した後自室へ入る。癖でストレッチをし始めて、すぐにそれすら必要ないと気がついた。笑いが零れる。同時に、薄く涙が伝った。
笑顔が壊れた表情のまま、涙だけがみるみるうちに溢れた。
どうしようこのままだと俺、
勘づいた瞬間、崩れた。遥は嗚咽を漏らす前に枕に頭を突っ込むと、声を上げて泣いた。
「お母様へ。インターハイでは負けてしまってすみませんでした。俺のミスで負けたと言っても過言ではないです。お母様は前にインハイで負けたらバレーを辞めなさいと言いました。だけど、俺は辞めたくありません。負けることを続けるのは無駄だと言っていましたが、そうではないと思います。負けるから強くなるし、次に向かって頑張れるのではないでしょうか。俺にはバレーしかありません。バレー以外で勝てることは何もありません。だけど、バレーなら勝てるんです。今回は負けたけど、もう負けません。もっと頑張って、どんな相手でも絶対に勝てるようになります。だから、どうか、バレーを続けさせてください。よろしくお願いします。 斉木遥」
インターハイの翌日、遥は部屋で手紙を書いていた。机の脇のごみ箱は没になった便箋が大量に詰め込まれている。
「あるあるかっての」
独りごちるが虚しいだけだ。遥なりに丁寧な文字で結んだ手紙を俯瞰してみて、深く溜息を吐く。そして吐いた分吸った。前に「溜息吐いたらその分吸えばただの深呼吸になるんだよ」と鈴架に得意げに教えられたのだ。屁理屈にしか思えないが願掛け程度でやってみた次第である。
結局最後に書いた手紙を採用し、二つに丁寧に折って封筒にしまった。
遥はサンダルを突っ掛けて外に出た。そのままポストを開けると、チラシに紛れて封筒が入っていた。宛先は斉木遥。迷わず封筒を開けて中の紙を開く。
「……は!?」
抱えていたチラシ類が床に散らばるのも気にせず、食い入るように文面を見つめる。遥は、高校生の選抜合宿に推薦されていた。
「遥!何をしているのですか!」
遥の母、舞子が帰ってくる時間と丁度ぶつかってしまっていた。
「あっおっお母様、おかえりなさい、あーチラシはすぐに片付けます、申し訳ありません」
選抜合宿に気を取られ上の空で返事をしながらチラシを拾い集める。
「そのような粗相を今後しないように。それより、バレーボールを辞める話はどうなったのですか。今日は試合に行っていないようですけど」
舞子が遥をきつく睨み付ける。遥は肩を窄めて、しかし押され負けないようにと足を踏ん張って答える。
「それについて後で話をしたいのですが、空いている時間はありますか」
「では、今日の午後六時に」
「ありがとうございます」
遥は深々と頭を下げて顔を隠した。
遥の父、孝は代々受け継ぐ大企業の社長で、舞子は書道の大家、二人の息子の遥は所謂ご令息、お坊ちゃんだった。大きなお屋敷に住む男の子というレッテルはいつまで経っても剥がれず、金持ちの息子だと囃されたりもした。受験した私立の中学校でバレーボールと出会った。それまで勉強ばかりで運動は怪我をするからと避けさせられてきたからこそ、バレーと出会った時の衝撃は大きかった。先輩たちの動きが輝いて見えた。家に帰って早くに買い与えられていたPCを開き、日本で一番上手いバレーを見た。もう引けなかった。勉強はやめた。母に教えられた華道も茶道も書道も辞めたし、父にやれと言われた英語もプログラミングも株も辞めた。毎日毎日走って、毎日毎日ボールを触って、毎日毎日動画を見て、毎日毎日バレーを勉強した。三年間、やり続けて、そしてバレーが強い高校に推薦を貰った。それが港旭高校だった。中高一貫に入ったのに高校を変えるとは何事だと父に叱られた。バレーボールを続けて何になると母に泣かれた。ついに学校は辞められなかった。推薦を断る電話を入れた時、相手校の先生はとても残念がった。悔しくて泣いたのはそれが初めてだった。
回想から意識を引き戻す。せっかく掴んだ二度目のチャンス。これを逃したら次はない。勝てないことじゃないと、証明したかった。
五時五十分になり、遥は手紙と推薦通知を持って階段を降りた。居間には既に座布団に正座をした母が居た。
今度こそ。勝つ。
自分に刻んで、母に向き直った。
「さぁ勝負の第五セット、ミドルブロッカー島崎に代えてオリンピック初出場、大学三年生の斉木が投入されます、と、なんと!日本はダブルセッターで行くようです、どう思いますか、解説の藤森さん!」
「いやぁ、これは楽しみな展開ですね。ボク実は斉木くんが高校生の時から知ってるんですよ」
「ほんとですか、斉木選手はどのような選手でしたか?」
「彼はね、ほんとに努力の人。周りが凄く見れる。そして、すごくボールの扱いが上手いですね。打つと思ったらトスを上げたり、ツーアタックもできるし。攻守共にとても有能な選手だと思います」
「それは楽しみですね!サーブは日本、都筑からです!」
鈴架は観客席から固唾を飲んで日本コートを見守った。大丈夫、遥はやる時やれる奴だ、と自分に言い聞かせる。鈴架の緊張など知りもしない遥は、笑顔でコートに現れた。都筑選手のサーブが綺麗にレシーブされて、トスが上がって、スパイクが。決まったと思った瞬間、ボールは上がっていた。追っているのは……遥。低い弾道を描くボールを、あろうことかオーバーで捉え、対角のライトへ。ブロックがついているわけもなく、綺麗なスパイクが決まった。
遥の咆哮が聞こえる。
そう、これは。日本の最強エース、斉木遥の始まりの物語だ。
アフターストーリー ちび @hinataro-
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