第7話 邂逅

 厚い雲に覆われた夜だった。

 あざみヶ丘を照らすのは街灯のまばらな光だけで、地味な住宅地がますます地味に感じられる。

 俺はいつものように安全運転で保冷バンを走らせた。すれ違う車の数は少ない。

 カーブを右に曲がったところで、カーナビが指定した住所に着いたことを告げた。

 俺はお客様のお宅を見上げた。

 ケーキの箱を二段重ねにしたような、素っ気ない外観である。おそらく家主は優美なフォルムよりも、地震に強い構造を重視したのだろう。

 門柱に「貝塚」という表札が掲げられている。ここで間違いないようだ。

 俺はインターフォンを鳴らした。


「こんばんは、沢辺酒店の沢辺誠司と申します。ご注文の品をお届けに参りました」

「ご苦労様です」


 玄関のドアが開いた。

 現れたのは黒いパーカーを着た、背の高い男性だった。目深にフードを被っているので髪型と顔はよく分からない。かろうじて見える唇はきゅっと引き結ばれている。

 薄い唇とあごのラインが貝塚響也に似ているけれども、まさか有名なミュージシャンがあざみヶ丘みたいな庶民的な街に住んでるわけがないよな。

 俺はお客様に笑顔を向けた。


「重たいので、中まで運びますね」

「すみません……」


 保冷バンから一つ目のビールケースを運び出す。

 玄関ポーチに立った俺は、異変に気づいた。

 電話で10人分の酒を頼まれたけれども、三和土たたきには男物のサンダルしか置かれていなかった。ふつう、ゲストの靴は下駄箱に入れないよな。

 不審な点は他にもあった。

 家の中が静まり返っているのである。パーティーの途中で買い出しに行くパターンはあるだろうが、ゲストが全員出払ってしまうということはあまり考えられない。

 俺の胸の中で疑念が膨らんでいった。


「あの……ご友人はもうお帰りになったのですか? 靴が見当たらないようですが」

「……それは」

「まさか、お客様おひとりで、この大量の酒を飲むわけじゃないですよね?」


 確認すると、お客様は不服そうな声で言った。


「買った酒をどんな風に飲もうとも、僕の勝手だろ」

「まだ取引は成立してませんよ。俺はしがない酒屋ですが、楽しくない酒にはご協力できません」


 俺はさらに質問を投げかけていった。


「お客様はお電話で、真っ先にスピリタスが欲しいとおっしゃいましたよね? その割には日本酒やウイスキーの銘柄にこだわりがない。もしかして、度数が強い酒を飲んで酔い潰れるのが目的ですか?」

「そうだとしたら、なんなんだ。きみには関係ないだろう」


 ふだんは口下手な俺であるが、伝えるべきことはちゃんと言葉にしないといけない。お客様の苛立ちを感じながらも、俺はひるまなかった。


「俺は人を傷つけたくて酒屋をやっているわけじゃありません。うちの大事な酒を自傷行為の道具にされるわけにはいかないんですよ」

「もういい! コンビニに行く。帰ってくれ」


 直に対面して、生の声を聞いて分かった。怒ってはいるけれども、どこか甘く響く美声。この人はやっぱり……。

 

「貝塚響也さんですか?」


 お客様がフードを取った。

 肩にかかるウェーブヘア。すっと通った鼻筋に、左右のバランスが完璧なアーモンドアイ。

 俺の目の前にいるのは、貝塚響也その人だった。あまりの驚きに俺は固まった。

 貝塚響也が皮肉っぽく笑った。


「写真撮れば? そしてネットにアップしなよ。ひ弱なブロイラーっていうタグを付けてさ」

「そんなこと、するわけないじゃないですか! 俺は……あなたの大ファンです。デビュー当時からずっと応援してきました!」

「……本当に? じゃあ、『きざはし』歌える?」

「任せてください!」


 このまま外にいて歌ったら近所迷惑だろう。

 前に進んで、三和土たたきに足を踏み入れる。俺は玄関のドアを閉めた。貝塚響也は俺の一挙手一投足をじっと観察している。

 推しの視界に自分が映り込んでいるだなんて信じられない。人生って何が起こるか分からないな。

 ああ、落ち着かないぜ。

 他のファンに申し訳ない。すみません! 俺、キモオタなのに貝塚響也の視線を全身に浴びてます。

 でも、今ここで鬱陶しいぐらいにファン魂を披露しないと、貝塚響也はきっと心が折れてしまう。

 よーし。

 ファン代表として、いっちょステージに上がるとするか!


「待ってだなんて言わない、またきっと会えるから」


 俺はアカペラで歌い始めた。

『きざはし』は貝塚響也のデビューシングルのカップリング曲だ。伴奏はギターだけで、テーマは孤独である。雑誌のインタビューで貝塚響也は、友愛とも恋愛ともとれる歌詞にしたと語っていた。

 大事な人たちの顔を思い浮かべながら、俺は声を響かせた。

 貝塚響也、お願いだから聞いてくれ!

 俺が何回、あなたの曲を歌ったと思う? カラオケボックスで、あるいはアパートの狭いバスルームで『きざはし』を口ずさんでは、心の傷を癒したものだ。俺の人生はあなたの曲と共にある。


「きみと僕をつなぐ透明なきざはし」


 最後のフレーズは俺の声域では辛かったが、なんとか歌い上げた。

 貝塚響也は無表情である。

 そうだよな。素人の歌に感動するわけないか。俺が落ち込んでいると、貝塚響也が次なるリクエストを口にした。


「活動5周年記念アレンジの『蒼天ブレーカー』は? それから、EP『ステラカリタス』の初回限定盤のボーナストラック、『千年の午睡』。英語バージョンの『泣き虫野郎のビーンボール』も歌ってみて」

「貝塚さん。俺のオタクパワー、舐めないでください!」


 俺は言われた曲をぶっ続けで歌った。さすがに喉がかすれて、体力のゲージがもりもりと減っていく。


「……もうヘロヘロです。アンコールはちょっと待ってください」

「きみ……」

「やっぱり貝塚さんは天才ですね。誰かに歌を届けるのって、こんなに大変なことなんだ……。あなたはそれを鮮やかにやってのけるんだから、本当にすごいです……」

「……上がって。喉が渇いたでしょ」

「え? あの……、仕事中ですし。それに推しの家にお邪魔するとか、俺のオタクとしての美学に反するというか。他のファンのみなさんに申し訳ないです」

「推しとかファンとかそういうことは抜きで、人として接してほしい。せめて、数分間だけでもいいから」


 貝塚響也が深々と頭を下げる。

 えっ!?

 推しが俺にそんな仕草をするとか、考えられないんですけど!


「やめてください! 顔を上げてください!」

「きみが承諾するまでやめない。なんなら土下座をしようか?」

「ひぃっ! それだけは勘弁してください」

「じゃあ、上がって」


 ええい。

 こうなったら腹をくくるか。俺は素直にご厚意を受け入れることにした。

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エアレンデルで祝杯を 〜推しに求愛された地味で平凡な俺の話〜 古井重箱 @box3box3box3

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