駄作

長月龍誠

駄作

「ここは、どこだ……」


 部屋に閉じ込められた男はそう呟いた。窓もない、明かりもない。何も見えない暗い部屋に、ぽつんと一人、男は立っていた。


 不安や恐怖、その前に男はこの状況を把握できていなかった。


 なぜこんなところにいるのか。ここに来るまで何をしていたか必死に思い出そうとしたが、何も思い出せることはなかった。それどころか、自分の名前、年齢、出身地など、自分のことについても何も思い出せなかった。それは男にとっても不思議なことだった。


 唯一わかったことと言えば、自分の性別。それは股間を触ったときに突起物があったからだ。簡単なことだ。




 男は自分のことについて考えるのを諦め、ひとまずこの場所を把握することに専念した。依然としてまだ男は冷静だった。


 暗くて何も見えないこの部屋では、視覚の情報は頼りにならない。聴覚も嗅覚も味覚もダメ。頼りになるのは触覚だけだ。


 「ちょろいな」と男は笑みを浮かべて言った。


 なぜなら、男は自由に動き回れたからだ。


 もし縛られたり、足が切られたりしていたなら絶望していただろう。しかし不幸中の幸いか、男は自由に動き回れた。


 ドアでも探して、鍵がかかっていようとも蹴り飛ばしてしまえばいいだけだと考えていた。




 男は前に腕を伸ばして、ゆっくり一歩一歩、足を進めた。まずは壁を見つけ出し、それから壁に沿って歩き、ドアを見つけようという作戦だった。


 けれど壁を見つけることはできなかった。


 どうやら、この部屋は広いらしい。男は1時間ほど歩いたが、一向に壁は現れなかった。


 もしかしたら、部屋ではないのか。では一体ここはどこなのか。ふつふつと疑問が湧き、非現実的なことまで頭に浮かび、男は震えて歩けなくなった。


 ここでやっと、男に不安と恐怖が生まれたのだ。


 誰かに足を引っ張られたかのように尻餅をつき、目の前に怪物がいるかのように心臓が高鳴った。妄想が妄想を呼んで、その連鎖は男をどん底に落とした。


 本当は何も起きていない。けれど男は妄想だけで死を覚悟した。


 死を目前にした人間は、生存本能から生きるための行動に出る。


 男は立ち上がって、叫びながら逃げるように走り回った。腕を振り回し、一直線に走った。


「ドアはどこだよ! 早くここから出せよ!」


 しかし、ドアどころか壁すら到達することはできなかった。




 いつの間にか、男は倒れて気絶していた。


 天を見上げ、心臓に手を置き、まずは自分が落ち着くのを待った。ゆっくりと深呼吸をして、無駄な妄想をすることはやめ、現時点でわかっていることを整理した。


 この部屋はまず、思っていたよりも遥かに広いということだ。暗いことから、勝手に狭い部屋かと思っていたが、一時間も歩いて壁に到達できないのだから相当な広さだと予想できる。


 もしくは、部屋ですらないのかもしれない。しかし部屋でないのなら、この暗さをどうやって実現させているのか。外だとしたら月明かりがあるだろうし、床も平坦なのはおかしいだろう。この可能性は薄い。


 どちらにせよ、まずは動かないと何も始まらないと男は考えた。


 けれど、男は動こうとしなかった。なぜなら、ここから脱出する意味がないからだ。


 男には記憶がない。自分に関しての情報が頭に一つもないのだ。それで外に出て何をするのだろうか。何かをしたいわけでもない。


 脱出のために動くのは無意味なことに感じた。


 男はそのまま眠りについたのだった。



 

 これではつまらない、僕だってそんなことはわかっている。僕も男には、脱出する意味を見つけ、脱出方法を見つけ出し、困難を乗り越えて脱出してほしいと考えているさ。


 だから僕は男に一つ与えることにした。




 男は目覚めるのに時間がかかった。それは長い夢を見ていたからだ。


 頬に涙が伝っていた。きっと夢に出てきた女のせいだろう。口元のほくろが印象的な女だ。しかしそれ以上のことを男は思い出せなかった。ただ一つわかることは、その女が男にとって大切な存在ということだ。


 その女に会ってみたい。たったそれだけの好奇心で、男はここから脱出しようと決めたのだった。




 男はまず壁があるかどうかを確認するため、真っ直ぐ歩くことにした。


 歩くことに男は苦しみを感じなかった。むしろ歩いていないと気が狂いそうなほどだった。


 このような暗闇ではできることが限られてくる。歩いてドアを目指すことが唯一の娯楽だった。




 1週間。


 男は歩き続けた。歩いて寝て、起きて歩いて、その繰り返し。


 そこで男が見つけられたものは、1つも無かった。


 男は確かに真っ直ぐ歩いた。けれどドアはもちろん、壁すら見つけられなかった。


 何か物が落ちているかもしれない、そう思ってたまに床を探ったり、逆立ちで歩いてみたりしたが、塵一つ落ちてはいなかった。


 でも男の心は決して折れていなかった。この一週間で、妄想を上手く使うことを覚えたからだ。


 妄想をしすぎて気絶した苦い思い出があるが、そこから暗闇では妄想が現実のように感じることを知った。


 つまり楽しい妄想をすればそれが現実となってくれるわけだ。


 特に「ほくろの女」という最高の妄想材料を手に入れた男は、退屈なときは常に彼女のことを考えていた。さらに悪い妄想が暴走しそうなとき、彼女のことを考えれば落ち着くことができた。


 「ほくろの女」は男の目標となり、ときには心の支えとなっていた。


 そのせいか男は、彼女との縁の存在を疑うことはなかった。




 男の言う「ほくろの女」。これは本当に存在するのか。


 答えはノーだ。


 これは僕が思い付きでつくった架空の女。もちろん男も、架空の男だが。


 

 

 1ヶ月、3ヶ月、1年……気がつけば10年間、男は歩いていた。


 ついに男は、妄想に歯止めが利かなくなっていた。


 妄想をしすぎたのかもしれない。妄想は雪崩のように頭に流れ込み、それを「ほくろの女」でせき止めようとしても、彼女もまた暴走してしまう。


 男が見ている世界はカオスそのものだった。


 そのせいで思考は上手くまとまらない。脱出どころではなかった。しかし男は歩き続けた。


 男は苦しかった。けれどこの苦しみから解放されるには、ここから脱出するしかなかった。歩くしかない。


「歩くしかない」


 気絶してもまた起きて歩く。


 一点を見つめ、男はただ歩き続けた。




 男の言う「脱出」。本当に外に出るためのドアはあるのか。


 答えはノーだ。


 男を暗闇に閉じ込めてみる。そんなちょっとした遊び心で僕はこれを書いてみたのだ。




 1939年目。


 男が起き上がることはなくなっていた。


 頭を抱えてうずくまっている。妄想がこみ上げてきそうになったとき、男は叫び、自分を殴り、なんとか落ち着こうとした。

 

 男はただ妄想への抵抗しかできなくなっていた。なるべく何も考えないようにした。


 苦痛、恐怖、不安なんて感情は、とっくのとうに失っていた。男はまるで壊れた機械のようになっていたのだ。





 2億5090万1年目。


 それは想像を絶するほどの時の長さ。男は手足の感覚を失っていた。自分が生きているのかさえわからない、そんな状態だった。


 いつものように男はうずくまっていた。そのとき、男の頭の中を1つの閃きが駆け抜けた。それは稲妻が夜を切り裂くような衝撃だった。


 そのことを男は信じたくなかった。けれどそうとしか考えられないほどのアイデアだった。


「おい、誰か俺を妄想しているのか?」


 男は震えながら立ち上がった。


「そうなんだろ。ほくろの女は実在しない。俺が勝手に作り上げてしまった架空の女。そして俺も架空の男なのではないか?」


 男はぶつぶつと喋り出した。


「そもそもここはどこなのだろうと思った。現実か、夢か、地獄か。俺は生きているのか、死んでいるのか。

 俺には記憶がない。だから俺にとってはここが現実で、生きる世界になった。

 脱出なんて途中で考えることはやめた。それよりも、ここはどこなのだろうと考えた。

 どこまでも続く世界、明かりがない世界。そんな世界、少なくとも普通の世界ではない。ここはファンタジーなんだ。

 そこでだ。俺にとってのファンタジーはなんなのか考えた。それが妄想だったんだ。

 俺はただ、誰かの妄想の世界の住人だったんだ」


 途端に男は、天を見上げ叫んだ。


「そうなんだろ、お前。誰か見てるんだろ。わかってんだよ。どうにかしろよ。俺がどれだけ苦しかったかわからねえだろ。わからせてやるよ。呪い殺してやる。呪い殺してやる。呪い殺してやる。呪い殺してやる。呪い殺し




 手の勢いで、僕はコーヒーをこぼした。そのコーヒーがパソコンの本体にかかって、ショートしたとき僕の手は止まってくれた。


 何が起きていたのだろうか。


 わからない。勝手に手が動いていた。


 僕は額の汗を手で拭い、イスに深く腰掛けた。


 窓から見える夜空を見て、ふと男のことを考えて手が震えた。息が荒くなって、イスを握りしめた。


 信じたくなかった。


 自分も男のように、文字だけの存在でしかないことに。


 書くのをやめないでくれ。


 僕は

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駄作 長月龍誠 @Tomat905

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