3

 そこには、わたしが慣れ親しんだ、昔の家のリビングが広がっていた。冬にはこたつになるちゃぶ台。端にすこしひびがはいったガラス戸つきの食器棚。かなり前からぶらさげられたままの吊り下げタイプの虫除け。薄型テレビと、それを支えるテレビ台。チョコやせんべいといった菓子がおさめられたガラスびん。年季の入った座布団。それらに囲まれた中心で、小学生にあがりたてくらいの背格好をしたわたしが、机上に置かれたケーキのろうそくを吹き消している。いちごのショートケーキ。白と赤に彩られたわたしの好物の表面を、かすかな風が吹き抜けていく。見えるはずのないものが、鮮明に網膜の上ですべる。きゃいきゃいとはしゃいでいる幼いわたしの横を、シロアリが何事もない様子で通り過ぎた。


「もう●歳か、すぐに大きくなるなあ」

「そうね、すぐに大人になっちゃうね」

「うん! わたし、早く大人になりたい!」

「じゃあどんな大人になりたいの」


 現実のわたしへ背を向けた両親が、幼いわたしに問い掛ける。うーん、えーっとねえ。ケーキに視線を向けていたわたしが、芝居がかった様子で腕を組み、ゆっくりと顔をあげる。わたしは思わず目をそらしてしまう。あわてて視線を元に戻すが、ほんの一瞬のうちにその幸福な一幕は幻のように消えてしまった。あとには、新築ののっぺりとしたリビングだけが残された。


「今のは、ご家族ですか」

 は。呆けた声がのどからこみ上げる。声のほうを向くと、シロアリがリビングの真ん中よりすこし端に寄ったところ、ちょうど食器棚があったあたりに立っていた。

「なんか、声が聞こえた気がしたんですよ。あと姿も見えた気が。皆さんでケーキを囲んでらっしゃいましたよね」

 今さら。そんな言葉が口をつきそうになり、すんでのところで思いとどまる。そんなわたしをよそに、目の前の昆虫はああだこうだと言葉を並べ立て始める。すばらしいとかすてきとか、かけがえがないだとか。はずんだ調子に彩られたその声は、この上なく軽い。まるで羽虫のようだ。腕のあたりが急速にかゆくなってきて、服の上からそこに爪を立てる。が、本当はなによりも重く、身の詰まった言葉のようにも思えていた。


 ありふれた言い回したちが、つぎつぎとわたしの体へ巻きついてくる。が、それを引きちぎることは許されない。もしそうしてしまったら、わたしはこちらを見る誰かの中で、微笑ましい目を向けてもいい存在にされてしまう。それだけならいい。わたしはその裏にあるもののことも知っている。でもそんな目をする誰かはどこにいる。いや、たしかにいる。ここにいる。こちらを見ている。今に始まったことではない。ずっと、彼らはそうしている。


「もう、いいですよね。そろそろお願いします。約束、ですよね」

 そうこうしているうちに、本当に身動きがとれなくなっていく。爪を立てたままの腕をなんとか動かし、なおも続いている昆虫の言葉を手で制す。大丈夫です、ありがとうございます、本当にもう、やめてください。こちらが招いたお客さんなのにとも思うが、どうしてもいらだちが声に載ってしまう。それを知ってか知らずか、興奮しきりだった彼女は触角をしゅっと下げて声のトーンを落とした。


「わかりました、本当にいいんですね」

 間髪入れずにわたしはうなずく。もうなんでもいいから、さっさとこの家を崩してください。食べて食べて食べまくって、穴ぼこだらけのすかすかの木片に戻してください。初めて会ったとき、この家の前でシロアリから受け、快諾した申し出。渡りに船だったと思ったそれ。そのことを心の中で唱えながら、胸の前で手を合わせる。視線の先で、シロアリが体をぶるぶるとふるわせていく。体勢を低くし、牙をかちかちと打ち鳴らし、触角をせわしなく動かし始める。ばらばらだったその動きは、やがてひとつのリズムを刻み出す。リビングの窓から差し込む日の光が、すこしだけ陰ったような気がした。頭の芯を痛めつけるつんとした木材と塗料のにおいを吸い込みながら、そのときを待つ。


 なめらかで、それでいて硬さも感じられる甲殻。するどい牙、はりのある足、すこしの乱れもなく規則的に寄り集まった複眼、産毛に包まれてうごめく腹。そのどれもが、だいぶ橙色が濃くなった日光を反射して、黒々と、光った。


 胸の前で組み合わせていたてのひらをほどく。その瞬間、シロアリの後ろにある玄関の扉がいきおいよく開いた。その向こうには、彼女より一回り小さいアリたちが大勢いた。頭から脚の先までその姿はそっくりで、牙や腹、そこに生えた細かな産毛はもちろん、すべてを飲み込むような漆黒の体色までもが判で押したかのように同じだった。


「なんで気がつかなかったんですか。時間はたくさんありましたよ」


 鏡がないため、自分が今どんな顔をしているのかはわからない。でも、目の前の昆虫の反応を見るに、それはわたしの心情を推し量るには充分だったらしい。牙を打ち鳴らし、彼女は笑い声を漏らす。だましたのか。そう口にする気も起きなかった。あるのはただ、先ほど感じたものとは比べものにならないほど大きくふくれて手足にぶら下がった徒労感だけだった。私はシロアリですよ。彼女はあっけらかんとした様子で口にする。その体はもう震えていない。橙色を限界まで含んだ窓からの光が、明度を落としていく。部屋の温度が、すこしずつ遠ざかっていく。


 そこで、なにかが爆ぜるような、よく乾いた枯れ枝を踏みつけているようなぱちぱちとした音が外から断続的に聞こえてきた。それが外に詰めかけている彼女の仲間たち、他のアリの身じろぎや牙を打ち鳴らす音だということに気づくのに、そう時間はかからなかった。家の窓に黒いものがつぎつぎと張り付いていく。それはわずかな光をばりばりと食い潰し、部屋に少し早い夜を呼び寄せる。

「で、でも、家は。家は、ちゃんと、壊して」

 ガラスにぎゅっと押しつけられたアリたちが、わたしのかぼそい声を嘲笑するかのように震える。かちかち。かちかち。硬質な音と、日光がさえぎられたことにより生じた暗闇の中で膝をつく。シロアリを名乗っていた彼女が、うなだれているわたしへ、すこしずつにじりよってくる。顔の近くに、牙とその間にある、たわしのような形状をした口吻が迫ってくる。べたべたとした甘ったるいにおいがそこから香り、鼻をつく。


「大丈夫ですよ。別に悪いようにはしませんから。さっき言ったじゃないですか。ここはすばらしいところだって。かけがえのないものだって。一朝一夕には、築きあげることのできないものだって。だから、お手伝いさせてくださいよ」

 その瞬間、玄関で待機していたアリが、いっせいに家の中へなだれ込んできた。止める間もなく、彼女たちは壁や階段をのぼったりドアや収納の扉を開けたりして、家の隅々まで広がっていった。あらかたその展開が終わると、彼女たちは腹を下にして天井へぶら下がる者と、その尻へ順繰りにかじりつく者とに大まかに二分された。部屋にただよう甘いにおいが、すこしずつ主張を強めていく。それは、天井にくっついたアリの徐々にふくれていく腹から放たれていた。どうやら、尻にかじりつくアリたちがその中へ蜜を流し込んでいるらしい。窓をふさいでいたアリが減ったことで、部屋に注ぐ日の光が元の勢いを取り戻す。天井にぶらさがる黄金色をしたガラスびんのような腹がゆらゆらと揺れ、光を乱反射してわたしや他のアリを照らしていく。


 が、家の広さにも限界がある。際限なくなだれ込んでくる黒い昆虫は、ついにわたしが座り込んでいる場所にも迫ってきた。足の間、腕、背中、顔。あらゆる部位に黒い昆虫の体が触れ、ついには浮き上がるかのようにわたしの体は持ち上げられてしまった。視界が黒々とした虫の体にさえぎられ、わたしはふたたび光を見失う。哺乳類のようなぬくもりがない、きんと冷え切った甲殻。鋭角になっている脚の関節部分。その先端にある刃物のような形状をした爪。固いブラシや剣山のようなコシのある産毛。蜜や内臓が詰まった、やわらかく弾力のある腹部。それらはアトランダムにわたしの体を包んでは離れていき、かすかな余韻を皮膚の上へ残していく。不安定に揺れながら、わたしは思い出している。かさかさ。かさかさ。黒い壁がうごめく感触と、こもったにおい。ぷちっ。なにかが弾ける音がそれにまざる。ぬるい液体のようなものが手に広がった。濃い輪郭をした甘いにおいが、すぐそばにあるのがわかる。


「もう、いいや。帰ろう、おかあさん」

 寄せては返す海水から手を離し、わたしはかたわらにいた母親にそう宣言する。顔をあげると、風になぶられる髪を押さえながらこちらをのぞき込んでいる彼女と目が合った。夏の砂浜。そこへ容赦なく照りつける日差しのせいで、その姿には濃い影がかかっている。


「え、でもまだ途中じゃない。お城だけじゃなくって、城下町もつくるんだって言ってたじゃない。まだつくってても大丈夫だよ。お母さん、○○がつくったお城と城下町、見たいなあ」

 おとうさーん! まだ、時間あるよねー! 顔をあげ、母親はすこし離れた波打ち際をふらふらと歩いている父親に向かって叫ぶ。それを受けて彼はゆっくりと振り返り、両腕で丸の形のサインを作る。その横を、はしゃいだ様子の男女がかけぬけていく。

「ほら、だから大丈夫よ。気の済むまで作って」

「ううん、いいの。もう、あきちゃったの」

 あんなに楽しそうだったのに、もういいの? 母の声が、砂で建造されたつくりかけの城と町に落ちる。たしかに、つくっているときは楽しくてしょうがなかった。そこへ血液のように通っているであろう人々の生活や往来、生まれる活気、その片隅で発生する物語を想像するのも楽しかった。それを完全な状態で見たいと思い、作業にも熱が入っていた。でも、今やその強烈な衝動は最初からなかったもののように消えてしまっていた。生み出したものへの喜びも、希望も、完成させた先にあったはずのものも、すべてがすべて、想像することができなくなってしまっていた。


 そのかわり、わたしの頭の中はドラゴンの想像でいっぱいになっていた。この砂浜を出てすこし離れたところにある駐車場。そこに停められた車の中へ置いてきた、チラシや牛乳パックをセロテープで細長くまとめたもののことをわたしは考える。それがドラゴンだった。四六時中雷が鳴りやまないエメラルドの谷に住み、たどり着いた勇者や魔法使いに試練を与えて追い返す。が、谷に住まう他の魔物のことを気にかけ、なにかあれば全力で守るような、優しい一面もある。得意技は、体内を駆け巡る雷の力を凝縮させた……。考え出したそばから、想像がとめどなくあふれていく。城のことが、ますますどうでもよくなる。


 もう車に戻ると母に告げ、わたしは立ち上がる。きずいたものを踏みつけて壊すようなことはさすがにせず、そのままそれを放り出してわたしは歩き出そうとする。

「あ、ちょっと待って」

 背後にいた母親が足を止め、肩から提げたバックからカメラを取り出し、城の写真を撮り始める。

「べつに写真なんていいのに」

「ううん。せっかくだから、残しておきたいの。それに、ほっといたら波にさらわれて消えちゃうでしょ。なんか、悲しいじゃない」

「うん。まあ、そうかもだけど」


 父親が、こちらめがけて勢いよく駆け寄ってくる。そのまま、がっしりとしたその腰にわたしは抱きつく。

「おとうさーん、くるまもどりたーい」

「おー、もうお城はいいのか」

「うん。それよりドラゴンがいいの。ドラゴン」

「ドラゴン? ああ、あの車にいるやつか。わかった」

「それにしても、本当に暑いね。ねえ、どっかでアイス食べていかない」

「お、お母さんいいこと言うな。高速乗ったらどっかのサービスエリアで食おう」

「やったあ」

 ふたりと手を繋ぎながら、わたしは駐車場のほうへ歩き出していく。砂浜の出口に近づくにつれ、足元の砂には見る間に大きい石や貝殻の破片や空き缶などが混じり始めた。もっと進むと砂は徐々に消え失せ、舗装された道と、それと同じ材質の階段が現れた。


 そこでわたしは後ろを振り返る。強烈な日差しのせいでどこか白っぽくなった風景の中、やけに真っ青な海の水と、表情や姿形がはっきりと照らされた人々が見える。その中心に、わたしが建造しようとした城がある。とがった屋根、立派な庭園、きらびやかな装飾。それはすべて想像の中だけのもので、現実の城はただの灰色の砂粒の塊だった。しかもつくり途中のため、この上なくぶかっこうな形をしている。が、改めてそれを見つめても、わたしの心にはさざ波すら立たない。


 それが今にも、現実に押し寄せてくる波に削り取られようとしている。わたしは、当時のわたしは、ただそれをじっと眺めていた。ドラゴンとアイスのことで頭をいっぱいにしながら。

「どうしたの、早く行こうよ」

 両親がわたしを急かす。それにうなずきを返し、石造りの段に足をかける。そういえば、このとき以外に砂の城をつくろうとしたことはあったっけ。完成させたことはあったっけ。『今のわたし』はそう思った。が、思い出すことはできない。神だったわたしの頭の中はドラゴンでいっぱいになっている。もう一度、後ろを振り返ってみようとする。できない。そのすべはもう失われている。わたしはもう、そこにはいない。



   ●


 そこでわたしは目を開く。頬に床板の冷たさを感じる。どうやら、リビングの床に横になって倒れているらしい。こちらを取り囲んでいたアリの大群は、脚の一本すらも見当たらない。あのうごめく暗闇は、もうどこにもない。どうやら気を失っている間に日が落ちてしまったらしい。濃い黒色をした夜の気配が、窓の外からリビングの中へこぼれて広がっている。背中に床の硬さを感じながら、ゆっくりと体を起こす。甘ったるい蜜のにおいや、手にかかったはずの液体の感触も消えている。あるのは、あの頭をしめつけてくる新築のにおいだけだ。


 家はここにある。かじられたり崩されたりもしていない。約束を反故にされた。そのことが頭の中でくるくると点滅するが、わたしの心はおだやかだった。が、それは死体と同じような静けさだった。どうでもいい、と思うことも面倒くさい。

 手近な壁に手をつき、わたしは指先に力を込める。クロスに爪が食い込み、ぐにゃんとそれがたわんでいく。でも、それは砂のような手触りとはほど遠い。崩れることも、はがれたそれが山となって積もっていくことも、もちろんない。わたしは笑いを漏らす。

 もう、ここにいてもしょうがない。帰らなくては。わたしはそう思う。が、足取りは自分でも驚くほど重い。体の節々になにかがぶら下がっているかのようだ。それに加え、窓から寄せては引いてくる黒々とした夜の闇も厄介だった。質量のない、ただのもやでしかないはずのそれに足元が覆い隠され、歩みがさらにゆっくりとしたものにさせられていく。すこし前、夕暮れから夜に変わっていく公園で立ちつくしていたときのことが頭をよぎる。わたしは自分のことのようにおそろしくて、立ちつくして、近づいて、いろいろな話を聞かされた。日をまたぎ、招き入れ、家じゅうを見回った。話し合った。一緒に、そうしていたはずだった。


 わたしはまた思い出し始める。思考が、記憶が、今ここにないものを鮮明に立ち上げていく。わたしはかつて神だった。その名残をひとりきり、真っ暗な四角い部屋で披露する。今はまだ、今はもう、パッケージでしかないもの。来週には、ここで新しい生活が始まる。そして積み上がってしまう。わたしの前で、その上で、ただひたすらに。








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おおなみ、こなみ 大滝のぐれ @Itigootoufu427

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