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そのあとは、だいたい先ほどシロアリが語ってくれたとおりだった。何十年も彼女の一族が狙っていた家。その関係者であるわたしと知り合ったことで、他ならぬわたしに出会ってしまったことで、状況が大きく動いたのだ。父親と母親の顔が交互に思い浮かぶ。今ごろ、ここからすこし離れた場所にある仮住まいで、のんきに梅こぶ茶をすすりながらテレビを見ていることだろう。彼らはもちろん、その親世代、そのまた親世代のおかげで、この家はきずかれた。とはいえ、彼らの力だけではそれはなし得ない。解体業者、設計事務所、職人、大工、水道やガスや電気工事の業者など。さまざまな人が関わり、ここに頑丈な、誰の目にも見える建物ができあがっている。
お前ももう成人したわけだしさ。お金をどかっと使うようなこともあまりないだろうし。だから、今のうちにやっておこうと思って。お前が、楽できるように。いつだったか、そう父親はわたしに語って聞かせた。そうやって、後の世代後の世代に、という想いと共に、つむがれてきた歴史。その先端に、わたしは立っている。
「うーん、このへんはちょっとつるつるしてて足がひっかかりにくいな」
「あ、こっちならまだ足かけやすそうじゃないですかね」
「いいですね、参考にします」
それなのに、そんなわたしはどこの馬の骨ともわからない昆虫を新居に招き入れている。しかも、彼女が気に入りそうな壁を提案までしてしまっている。髪の毛をかきあげ両親や祖父母の顔を振り払いつつ、手をついたそれをなでさする。真っ白で平らな、それでいて表面へかすかに布地のようなおうとつがつけられたクロスの感触が、てのひらへ広がった。が、そこに触ったそばからぽろぽろと崩れていくような質感はない。
建て直す前も後も木造住宅なことに変わりはなかったが、前の家は内装の一部が砂壁でできていた。色のついた砂を塗装する面に塗って仕上げられた壁。そこに、わたしはよく爪で落書きをしていた。地上絵だ、ヒエログリフだとあいまいな知識で言い張っていたことをよく覚えている。おおかた当時読んでいた本に、そんなことが書かれていたのだろう。
聞きかじりの知識を頭の中で反芻しながら、わたしはひたすら砂の集合体をひっかきつづけた。そのたびに、崩れた砂がぱらぱらと落ちては足元にたまっていく。それを眺めるのがとても好きだった。子供の力では動かせも壊せもしないはずの家という存在に、自分の力によって明確な跡が残っていく感覚。とうぜん両親にはしこたま怒られたが、わたしは隙を見ては壁に爪を立て続けた。
が、今触れている真っ白なそれに、痕跡は残せそうにない。似たような傷は指でつけられそうではあったが、それはあのときわたしが描こうとしたものとは違う。すっかり成長しきってしまったわたしには、あれがヒエログリフでも地上絵でもなんでもなかったことがわかる。
リビングをかさかさと歩きながら、シロアリが家の状況をたしかめて感想を述べていく。それらはただのひとりごとだったり質問だったりして、わたしはそのつど受け流したり返答を返したりしながら、彼女の後をついてまわった。当たり前だが、建て直す前の家の面影はどこにもない。つい数ヶ月前まで毎日を過ごしていた場所なのに、まるで知らない土地、場所に来てしまったかのような気分になる。
いいの。家があるんだから、いつでも帰ってきていいの。またいっしょに暮らせるなんてすてきじゃないの。大学を出て意気揚々とひとり暮らしを始め、仕事を辞めて九ヶ月で出戻ったわたしに、母親はそんなことを言った。
「お父さんとふたりじゃ息がつまりそうでね、むしろよかった」
硬直する娘の横をすり抜け、いつもの生活の延長のように母は台所に消える。大福とお茶をお盆にのせて戻ってくると、ちゃぶ台の下へ足を突っ込みながら、彼女は怪訝そうな顔をした。
「なに、どうしたの。座ったら」
実家に戻ってきて最初の日だった。つい九ヶ月前まで当たり前のように使っていた座布団に座ることなく、わたしはただその場に立ちつくしていた。足の裏に、畳のおうとつの感触を強く感じる。それが反発のように思えてならなかった。あたりを取り囲む見慣れたリビングに、大きく変わったところは見受けられない。むしろ、この上ない安心感、どこまでも身を預けてしまいたくなるような感覚があった。が、そうすることは許されていない気がした。
「ごめんね、その、わ、わたし」
「なにを謝ることがあるの。人間、いくらでもやり直せるんだから。すこしくらい休んだっていいじゃない」
わたしの謝罪を、母は毛布のような言葉と立ち振る舞いでふんわりと受け止めた。ほら、大福でも食べて。塩大福。その声にうながされ、ようやくわたしはその場に座り込むことができた。畳の感覚が足裏から消え、その代わりに座布団のやわらかさが尻を出迎える。塩大福を頬張ると、もったりと甘いあんこと塩味のついた餅がなだれ込むようにして舌の上に広がり、涙が出た。
「昔、あんた、甘いのにしょっぱいのが許せないからって塩大福食べなかったのよ」
母親にそう言われるが、わたしはそのことを思い出す事ができなかった。首をひねっていると、彼女はまた優しくて耳触りのいい言葉をかぶせてきた。それに体を預け、わたしは目元をぬぐって笑う。でも両親だって人間なのだ。わたしは知っている。父親が大病をしたとき。母親がわたしの引っ込み思案な気質を直さないと一生このままよ、と言い放ったとき。わたしが大学の休学や、仕事を辞めたいと思っていることを対面や電話で彼らに言い出したとき。その光景たちがぱっと脳に散る。これを考えているのは現在のわたしだ。いや、この座布団に座っているときのわたしだったかもしれない。どちらにせよ、わたしはそれらの記憶を何度もなぞりながら、目の前に広がる母親の顔を見ている。そこから、その下から、あるいはわたしがいる床の奥から、芋のつるのように別の記憶が引っ張り出されていく。思い出せる、一番古い記憶。両親に手を握られながら、幼稚園の門をくぐったこと。その次に思い出せる記憶。わたしが神様だったころにつくった、あらゆる創造物のこと。砂の城やブロックの町、チラシの体を持った生きもの、その他もろもろ。それなりに新しく、細部を鮮明に思い出せる記憶。つらい思いをしながら勉強や部活といった身のあることをして、自分のしたいことや持ち合わせている能力を探したり考えたりした日々のこと。その中で見た、神様ではなくなったわたしがつくれなくなってしまったもの、反対につくれるようになってしまったもののこと。ぜんぜんうまくできないのに、形だけでもやれますできますといった顔をしなくてはならない、そうしなきと許されなくなってしまったもののこと。記憶が、回想が、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。あらゆる思い出や過ぎ去った光景、もうどこにもないものたちが、時系列や順番もでたらめになりながら数珠つなぎになって頭の中で暴れ回る。
「あの、どうかしましたか」
気がつくとわたしはリビングのど真ん中で立ちつくしていた。あの、二階も見たいのですが。彼女が優しく語りかけてくる。それにうなずきながら、わたしはシロアリが口にした言葉を反芻する。どうか、しましたか。いや、どうもしていないのだ。あのときからずっと、わたしは立ち止まり続けている。仕事も見つかっていないし、かといって社会人より潤沢にあるはずの時間を有効に活用することもしていない。それなのに、こうしてふらふらと外出し、親が建てた、これから自分も住まわせてもらう予定の新居にシロアリを招いている。家を食べるという害虫を、そういうものだと知っていながら。
「いえ、なんでも」
微笑みながら、先ほど思い出した無数の記憶を振り払うようにリビングを後にする。背後は振り返らない。かさかさと彼女が後をついてくる気配だけを感じていた。
「なんか顔色が悪いですよ」
「大丈夫です。気にしないでください」
「はあ。でも」
「ちょっといろいろ考えごとしてただけです。ほら、実家がこうもなんの面影も残さず新しくなってると、なんかこう、センチメンタルな気分になるというか」
「あ、ああ、わかりますよ。本当にいい家ですもん。ここも、前の家も。本当に、すばらしいところだと思います。唯一無二だ」
「そう、ですか」
「そうですよ。祖父母さまの代から、二代に渡って暮らしている場所なんですよね? なんかうまく言えないけど、それって貴重というか、かけがえのないものですよ。ええ、ぜったいそうです。一朝一夕に築き上げられるものではないです」
どこまでも沈み込んでいくかのようなやわらかさを持った声色で、彼女はつぶやく。廊下を抜け、わたしたちは階段を登り始める。壁に埋め込まれたはめ殺しの窓からは、隣家の放置された庭が見下ろせた。草だらけの土と、風雨にさらされ朽ちたプランター。昔は季節の花で鮮やかに彩られていたのだが、今となっては見る影もない。ほったらかしにすれば、どんなものだってああなってしまう。朽ちて崩れて枯れはてて、面影すらもなくなってしまう。わざわざ壊そうとしなくても、ああなってしまう。
階段をのぼりきると、わたしたちは二階へと足を踏み入れた。ここにも、昔の家の雰囲気や空気はまったく残っていない。部屋の構成こそ大きく変わってはいないものの、やはりどこか知らない場所、他人の家に居座っているかのような違和感がつきまとう。
「あの」
「はい?」
「その、シロアリさんは、生まれたときのことって覚えてますか」
「え。いやあ、ぜんぜん。○○さんはどうなんですか」
「あ、まあ、覚えて、ないです」
「ですよね」
この世に生を受けたとき。血や羊水などにまみれながら、看護師だか母親だかの手の中で泣きわめいたとき。その光景が覚えているわけもないのにとつぜん想像され、気がつくとわたしは彼女に問い掛けていた。ぬるく湿った、暗い場所。そこから引きずり出されて感じた、母親や医師や看護師の体温や視線。まぶしい頭上の照明。薬品と血と体液のこもったにおい。それらにまみれていたときから、わたしは地続きだったのだろうか。だから、ぎゃあぎゃあと泣きわめいたのだろうか。かゆみを覚え、目元を指でこする。そこに水分を感じることはない。
質問に対しての怪訝そうなそぶりを一瞬見せたあと、シロアリは部屋をつぎつぎと回っていった。両親の寝室。それぞれの仕事部屋。お風呂場。トイレ。新設されたウォークインクローゼット。足の置きやすさやはいのぼりやすさといった観点から、彼女はつぎつぎと壁や床に評定を下していく。それをわたしは黙って聞いている。
「さっきからずっと触ってますけど、それ、なにかあるんですか」
背後から声をかけられ、わたしは触れていた木材からそっと手を離す。きれいな木目が浮かぶ、立派な柱がそこにはあった。二階に足を踏み入れた段階で、ことあるごとにわたしはそれに手を伸ばし、べたべたと触っていた。
「あ、いや。特になにかあるわけじゃ」
そう言いながら、なめらかな表面へもう一度指をはわせていく。先ほどの壁と同じく、そこにも、わたしが本当に触れたい質感はない。が、それは先ほどの砂壁のようなものではない。すらっとして固い、まるでナイフでえぐったかのごとくはっきりと線状に刻まれたものだった。シロアリのことをちらちら見ながら、わたしはあるはずのないそれを探し続ける。そのさまを、壁の見分を終えたシロアリがじっと見つめてくる。
みてみておとうさんおかあさん、わたし、去年よりもこんなに大きくなったよ。あら、ほんとだ。おお、このペースだとお父さんやお母さんよりももっと大きくなるかもしれないなあ。えー、ほんと? そしたらふたりとも肩車してあげるねえ。柱を触り続けるわたしの耳元に、幻聴が流れ着く。かつてあったこの家の大黒柱には、刃物による線の彫り込みと油性ペンによって書かれた日付のふたつによって、わたしの成長の軌跡が残されていた。が、建て替えによって新調された柱に、とうぜんその印は残っていなかった。その記録はもちろん、経年劣化も微細な傷や腐食も、なにもかもが消えてしまった。残ったのはこののっぺりとした、きれいで真新しい木材だけだ。
来年には。数ヶ月後には。一週間後には。明日には。少しずつ増え、そのたびに刻まれた位置が高くなっていく柱の傷と日付を眺めながら、過去のわたしはいずれやってくる『大きくなった自分』のことを夢想していた。頭の中で思い浮かべるそのわたしはなぜか強い光を背に立っており、顔や体の細部を確認することはできなかった。が、それでもわたしは彼女の姿を垣間見るたび、興奮と期待で胸を躍らせていた。早く、ああなりたい。そう思って毎日足をじたばたさせていた。
シロアリの視線を受けつつたっぷりと時間をかけ、わたしは柱から手を引きはがした。ぴたりと停止していたシロアリの触角がふたたび動き始め、彼女はくるりとこちらへ背を向ける。その姿を追い越し、二階にある最後の部屋へ彼女を案内しようとする。廊下に差し込む日の光に、朱色が差し始めていることにわたしは気づく。急がなくてはならない。どうして。同時にふたつの考えが頭をよぎる。後者に明確な答えをたたきつけることはできない。それでも、焦りはたしかにわたしの体を焦がしていった。目の前にあらわれたドアノブを握る。深呼吸をし、それを回して後ろに引く。
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目の前に、リビングよりもやや狭い、四角い空間が現れる。そこはわたしの部屋だった。床も壁も、窓やエアコンまでもが新しく取り替えられていたが、とにかくわたしの部屋だった。両親にも、事前に間取り図を見せられながらそう説明されていた。が、目の前に広がるそれはどうしても無関係な『箱』としか思えなかった。自室にあった家具を頭の中で配置してみたり、建て直す前となんら変わっていない窓の外の景色を眺めてみたりしてもそれは同様だった。サッシに手をつきながら、後ろを振り返る。殺風景な箱の中心で、黒い昆虫がわたしをじっと見ていた。
「こ、ここが、わたしの部屋です」
彼女はもちろん、自分にも言い聞かせるかのごとく宣言する。目の前の六本脚はそのままの体勢でじっとしている。依然として『箱』という感覚は消えない。が、それが違和感でも嫌悪感でもないことにわたしは思い当たる。これは、徒労感だ。この地上で生きる限りどこまでも追いかけてくる、重力のようなけだるさだ。ここで、わたしは暮らしていかなくてはならないのだ。前の家と、ようやく体が慣れてきた仮住まいと、同じように。
「へえ。前と比べて広さはどうですか」
「ま、まあ、多少は広くなったりしたんじゃないですかね。すみません、ちょっとよくわからないです」
シロアリが壁際に近づき、触角や足を使って部屋を見定めていく。それを眺めていても、今までのように記憶のふたが開くことはない。自室を与えられ、両親といっしょに寝ることがなくなったのは小学五年生のときのことだったが、その日のことをわたしはまったく覚えていない。そういうことがあった、という事実だけを記憶している。
「あの、ここでどんな日々を過ごしたんですか。あ、もちろん建て直す前の家でのことですよ」
「うーん、そうですね。あ、そういえば……」
でも、きっとそれは嘘だった。思い込みだった。シロアリの質問に、わたしはこの上なく明瞭な答えを返していく。覚えていないはずなのに、口を開いたそばから思い出が言葉となってほとばしっていく。が、言い終わった直後にそれは幻のように消えてしまう。思い出すこともできない。それなのに、シロアリからの質問があるとわたしはまたすらすらと話し始めてしまう。
霧のように輪郭が消える昔話をするたび、この真新しい家はわたしの視界の中で昔の家に取ってかわった。その最中は手に取れそうなほど細部がリアルに立ち上がるのに、口を閉じるとそれはあとかたもなく消え失せる。目の前には、たくさんの人が時間とお金と労力をかけてきずきあげた、たしかなものだけが残る。体にのしかかるけだるさが重みを増していく。シロアリも父も母も、平等に感じているはずのもの。その中で、彼らは生きている。仕組みは、同じはずだった。
「すみません、もう一度リビングを見てもいいですか。やっぱり、もう一回見ておきたくって」
わたしの思い出話の連鎖がおさまったタイミングで、シロアリはそう申し出てきた。べらべらとしゃべり続けた反動か、わたしは口を動かせず押し黙ってしまった。その一瞬の沈黙を了承と受け取ったのか、シロアリは軽やかな足取りで階段を下っていった。ひんやりとした階段と廊下の床板を踏みしめ、一拍遅れてわたしはふたたびリビングへ降りていく。
「○○、誕生日おめでとう!」
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