影踏む恋
栞子
影踏む恋
「蒼志郎様、肖像画が届きました」
丁寧なノックを重ね慇懃に入室した執事の
「そうか。では飾る前に此処に」
それに対していつも通りの指示を出す。「承知いたしました」と恭しく頭を下げて荻原が退室してややもせず、清潔な白い布にくるまれた肖像画が自室に運ばれた。
「紐は
「結構だ。下がってよい」
「はい」
定期的にこのやりとりを繰り返しているが、執事は毎回主のお伺いをたて勤勉なことこのうえない。
乱暴に繙いて中身を早急に確認したい衝動が湧くが、万が一があってはいけない。何一つ損ねないようゆっくりとほどいて布を取り外す。
姿を見せたのは妙齢の少女――――五条家の末子にして私の婚約者である
九歳年下の蓮見子殿は、宮城家の跡取りである私の生まれながらの許嫁だ。爵位こそ宮城家の方が上だが、向こうは有名な武家の流れを汲む由緒正しき家柄で、成り上がりと呼ばれる我が家に箔をつけようと決まった婚姻だった。
私が既に婚姻の適齢期を迎えているのに対し彼女はまだ幼いため来るべきその時まで、顔を合わせつつお互いの肖像画を贈り合い交流を重ねていた。そうやって物心ついた時から私は若木のようにすくすくと成長する蓮見子殿の姿を追っていた。
今私が掲げて見つめる先には、十二になったばかりの彼女が真っ直ぐ背筋を伸ばし腰かけていた。
うねる流水のようにカーヴした黒髪。星のきらめきをギュッと凝縮した存在感のある黒目。葉をつけない蓮のように細くすらりと伸びた腕。
そして何よりの魅力が朝露をたずさえた淡いピンクのモダン・ローズのような、今すぐかじりつきたい芳しい白桃のようなフレッシュピンクの頬。顔は少し逸らされているから今回は特によく見える。画家はどうやらこの角度が好きなのか得意なのか、贈られた絵はこの構図が多かった。
澄んだ黒い目が少し伏せられているのは将来を決めた相手に対する含羞からか。まるで目と目が合うだけで困ってしまったと言わんばかりのいじらしさに絵といえ思わず胸が高鳴る。反面桃脣はゆるやかなカーヴを描き淡い期待を抱かせる。この滑らかな白皙の頬を彩るのが恋ではなくて一体なんであろうか。
新しい彼女といちばんに会うのは己だと決めている。だからああして人払いをして毎度向き合っているのだ。この麗容をほこる御令嬢と結婚できる幸福を噛み締めながら。
何枚も肖像画を贈り、また受け取り、やがて蓮見子は宮城家に嫁いだ。しかし待ち望んだ花嫁は、式を終え我が家に越しひとつ屋根の下で暮らし始めてからもずっと無表情だった。
蓮見子は私に対して従順で、それはその出自にふさわしい奥ゆかしさなのだと当初は納得していた。しかし段々、従順というより覇気がないといったほうが正しい様相を呈してきた。
私が何を言っても諾うだけ。なんのかんのと口出ししないのは美徳だが、こちらから意見をうかがっても「それでいいと思います」ばかり。肌は色白を通り越して不健康で、あの黒曜石のごとく輝かんばかりの瞳も家の中では洞のようだった。
額縁の中の貴女は、こんなにも微笑みかけてくれるのに。
さびしい現実を忘れるよう蓮見子の絵が何枚も飾られた私室で、動かぬ彼女に理由を問いかけるのが日課になりつつあった。
「旦那様、お時間です」
ドアの向こうで荻原が約束の時刻だと告げてくる。
「今行こう」
客室に向かえば画家は既に準備を終えていた。
「待たせたね。今日はよろしく」
今日、私と蓮見子は遅まきながら結婚を祝う絵を描いてもらう予定となっていた。
「こちらこそよろしくお願いします」
そう言って黒髪の男は立ち上がり頭を下げる。今回依頼したのは宮城家お抱えの画家・西ではない。もともとはいつものように一族を描き続けた馴染み深い西に頼む手筈だった。西とは私も長い付き合いで、蓮見子宛ての肖像画は全て彼の手による。幼少期に大人を前にしてジッとしようとするあまり緊張していたのが今や懐かしい。その当時の絵の私は、蓮見子と違ってさぞかし顔がしゃちほこばっていることだろう。
依頼の旨を蓮見子に話した時、彼女は誰に頼むのかを尋ね私は虚を衝かれた。いつものようにはいと返されて終わりだと思っていたからだ。何が蓮見子の興味をかったのか分からないまま、当家お抱えの西であると教える。
「五条家がお世話になった画家にお願いできませんか」
蓮見子が家に来てからしばらく経つが、これが初めての意見だった。そうなれば無論叶えてやりたい。そういった経緯で宮城家の門を通ったのが、この白木という青年だった。
白木は西に比べて随分年若いが、蓮見子の肖像画――――つまり私室の壁に並ぶあの数々の絵を手掛けた張本人で腕は確かなようだった。
「では、始めさせていただきます。先は長いのでどうぞおくつろぎください」
呼ばれた蓮見子が用意された椅子に腰を下ろし私がその斜め後ろに立つのを確認し、白木はカンバスに向かった。絵は完成した暁には広間に飾るのでそれなりに大きい。
「白木さん」
蓮見子が、まるで今しかないかのように切羽詰まった硬い声で画面に視線を落としていた画家を呼んだ。二人の視線がかち合う。
「きれいに描いてくださいね、いつもみたいに」
「……ええ、もちろんです」
その短いやりとりこそいつもどおり、長い付き合いの証なのだろう。
「蓮見子、顔をもう少し右に向けないか」
「あ……はい」
後ろから蓮見子の顔が真正面を見据えていないことに気付き注意する。促されすいと小さく顔を動かした瞬間、はたと閃いた。
――――この角度。
見つめ合うのを拒まないものの少しためらったように傾いた顔は、肖像画の蓮見子と一緒だった。よくよく確かめれば、心配していた肌の色は少し色を取り戻し目はぱっちりと開き鮮やかだった。
残酷にも知ってしまう。愛情と恥じらいが綯交ぜになったあの表情は、未来の夫に捧げたものではない。あの頬をフレッシュピンクに彩ったのは私ではなくその色を精密に再現したこの画家だったのだと。
やがて絵画は見事な筆致で完成し、飾られた蓮見子は今までで一番美しかった。
以降も何度か二人並んで描いてもらうことはあったが、依頼先として蓮見子があの画家の名を口に出すことはしなかった。
影踏む恋 栞子 @sizuka0716
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