幕間

幕間:アリアの一番幸せな日 ―あるいは数式の中の至福―

 セイントナンバー王国での冒険を終えたアリアは、ようやく自分だけの時間を取り戻していた。旅路の途中、一行は小さな森の中で休憩を取ることにした。アリアは馬車から降り、大きな樫の木の下に腰を下ろした。柔らかな陽光が木漏れ日となって、彼女の膝の上に広げられた羊皮紙を優しく照らしている。


 アリアの翠の瞳は、目の前の数式に釘付けになっていた。その表情には、これまで見たことのないような幸福感が溢れていた。唇の端には微かな笑みが浮かび、時折小さな興奮の吐息が漏れる。彼女の指先が、羊皮紙の上を軽やかに舞うように動き、次々と新たな数式を紡ぎ出していく。


「これこそが、私の求めていたものだったのね」


 アリアは小さく呟いた。その声には、深い満足感が滲んでいた。彼女の周りには、幾つもの書物が積み上げられ、木の幹には複雑な図表が貼られている。その全てが、彼女の研究テーマである「無限次元ヒルベルト空間における非可換幾何学の応用」に関するものだった。


 アリアは、ペンを持つ手を止め、深く息を吐いた。その瞬間、彼女の全身がリラックスするのを感じる。これまでの冒険で味わったことのない、穏やかな興奮が彼女の心を満たしていた。それは、純粋な知的好奇心が満たされていく喜びだった。


 ティモシーが、アリアの元に駆け寄ってきた。


「先生、お茶を淹れましたよ。少し休憩しませんか?」


 しかし、アリアは全く反応を示さず、数式に没頭したままだった。ティモシーは、少し困惑しながらも、優しい笑みを浮かべた。「先生が幸せそうで何よりです」と呟き、そっとアリアの傍らにお茶を置いた。


 マギウスも、アリアの様子を見に来た。


「おい、アリア。そろそろ夕食の準備をしないと……」


 彼女の声も、アリアの耳には届かなかった。マギウスは、肩をすくめながらも、満足げな表情を浮かべた。


「まったく、あの顔を見ていると邪魔する気にもなれんな」


 アリアは再び計算に没頭し、ペンを走らせる。その仕草には、まるで恋人との再会を果たしたかのような優しさがあった。彼女は、目の前の数式を愛おしそうに見つめ、また新たな計算を始める。


 時折、彼女は思わず声を上げることもあった。


「まさか! この定理が、こんな形で応用できるなんて!」


 その声には、子供のような無邪気な喜びが満ちていた。アリアの頬は興奮で紅潮し、目は好奇心に輝いていた。彼女の周りには、魔力のようなものが漂っているようにも見えた。それは、純粋な知的探究がもたらす特別な雰囲気だった。


 ティモシーとマギウスは、少し離れた場所からアリアを見守っていた。


「先生、本当に幸せそうですね」


 ティモシーが感慨深げに言った。

 マギウスは頷いた。


「ああ、あの表情を見ていると、私たちが彼女を冒険に連れ出すのは、少し申し訳ない気分になるな」

「でも、先生はきっと、私たちとの冒険も楽しんでくれていると思います」


 ティモシーは微笑んだ。


「そうだな。だからこそ、こういう時間を大切にしてやらなければならない」


 マギウスは深く頷いた。


 時間の経過も忘れ、アリアは研究に没頭し続けた。彼女にとって、この時間こそが最高の贅沢だった。世界を救う冒険も、王国の危機を解決することも、確かに大きな達成感をもたらした。しかし、この静かな研究の時間こそ、アリアの魂を最も満たすものだった。


 夕暮れが近づき、そろそろ今日のキャンプを設営する頃、アリアはようやく顔を上げた。彼女の表情には、疲労の色は微塵も見られず、むしろ充実感に満ちていた。


「明日も、また新しい発見があるわ」


 アリアは、期待に胸を膨らませながら、そっと羊皮紙を閉じた。彼女の心には、明日への希望と、数学への果てしない愛が満ちていた。アリアは、幸せな溜息をつきながら、周りを見渡した。


「あら、もう夕方? ごめんなさい、みんな。私、すっかり夢中になっていたわ」


 ティモシーとマギウスは、優しく微笑んだ。


「気にしないでください、先生。先生が幸せそうで、私たちも嬉しいです」


 ティモシーが言った。

 マギウスも頷いた。


「そうだ。たまにはこういう時間も必要だろう。さあ、夕食の準備をしよう」


 アリアは感謝の笑みを浮かべ、仲間たちと共に夕食の準備を始めた。彼女の心には、数学への愛と、仲間たちへの感謝の気持ちが溢れていた。この瞬間、アリアは心の底から幸せだった。彼女の人生は、今、まさに理想の形で進んでいるのだ。


(了)

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エルフの里の数式使い ~転生したら研究三昧の生活ができました!~ 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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