ドアを開けた先に、光り輝く世界。

 あれから三日が経った、というのは感覚でしかない。

 時計がない場所で朝と夜の景色も分からない状況で、なんとなく三日だ、と思っただけだ。感覚というのは、大抵当たらないものだから、たぶん間違っている。いまだに僕は小便も糞便も漏らしていないし、何も食べていないし飲んでもいないのに、それなりに身体を這わせることができるので、意外と時間は経っていないのかもしれない。ふたたび意識を失ってからまだ、あの女には会っていない。僕はあの女の来ない間に、なんとか足に巻き付いた縄を解こうと、引っ張ったりしてみたが、全然取れない。だけど、いつまでもやっていれば、ほどくことができそうな気がする。なんであの女は足しか縛っていかなかったのだろうか。そこに余裕が透けて見えて、悔しい気持ちになる。


 こつ、

 こつ、

 こつ。

 あの一定のリズムの靴音がふたたびドアの向こうから聞こえる。ドアの向こうの世界がどうなっているのか、僕には想像もできない。ドアが開く。今回の女の様子は、化粧もして、髪も整えられて、さっきとは別人のようだ。


「よく頑張るね、そんなに」

 と僕の努力をあざ笑うかのように、女が言った。あれからどれくらい経った、と聞いてみる。三時間、と女の言葉が返ってくる。嘘だ。そんなの信じられない。いや、僕はなんで、この女の言葉を信じてるんだ。こいつはただの監禁犯で、そんな奴の言葉が真実とは限らない。じゃあ何が真実なんだ。目に見えるものだ。目に見えるもの以外、何も信じてはいけない。


「なんで、僕を閉じ込めたんだ。それくらい教えてくれ」

「そんなのそっちのほうが分かってるでしょ」

「分からない」

「嘘ばっかり。ねぇ、私が、あなたを、復讐以外の理由で監禁すると思う」


 たとえ頭の中では分かっていても、僕は否定し続けなければならない。この女が彼女の妹であるならば、それは復讐以外、考えられない。そんなの、僕が一番、分かっている。僕は彼女のことを思い出す。初めて静葉を見たのは、ショッピングモールのイベント会場だ。無名のアイドルグループが間に合わせの舞台で歌って踊る場所に何気なく立ち寄って、僕の隣で彼女たちの姿を観覧していたのが、静葉だった。どこかで見覚えがある、と気になってずっと考えていた僕は、終わり際、ようやく静葉が別の地元アイドルグループに所属するひとりだと気付いた。言うか迷って、「あの……、もしかして」と静葉に尋ねたのが、きっかけだった。


「変装したつもりだったんだけど、なぁ」と静葉は笑った。

「実は何度か、ライブを観たことがあって」と僕は答えた。

「ここにもいて、そっちにも来て。アイドルが好きなんだね」

「きょうはたまたま別の用事で来たら、やってたから、寄ってみただけで」と僕は言い訳するように答える。僕が本当に好んで行っていたのは、静葉のグループだけだったから。「そっちは?」

「んー、敵情視察、かな」と静葉が頬を指で掻いた。


 前から認知していたのだから、この言葉は厳密には正しくないのだが、僕は静葉にあの時、一目惚れしたのだ、と思う。それまでは別の子を推していたのに、以来、静葉の姿しか目に入らなくなった。ライブに行くと、静葉ばかり見ている。静葉と目が合うと、にこりとほほ笑みを向けてくれる。僕だけが特別扱いだ。僕も静葉が特別だし、静葉も僕を特別に想ってくれている。特別な相手の生活について知りたい、と思うのは自然なことだろう。この子がどんな風に起きて、何を食べて、家族とどんな話をして、どこへ出掛けて、友達はどんな子で。知りたくない奴がいるとしたら、それはただの嘘つきだ。嘘じゃなかったら、気取っているだけだ。


「もう私に付き纏わないで!」

 と言われた時、僕は静葉が何を言っているのか、さっぱり分からなかった。僕に駄目な部分があるならいくらでも直すよ、と伝えても、静葉は涙目になりながら、顔を真っ赤にして怒るだけで、なんだかよく分からない。一日ゆっくり考えてみて、僕は静葉が浮気をしているんだと思った。だから僕は静葉を問い詰めるために、家へと連れてきたのだ。静葉は僕がそうじゃないと言っても、「誘拐だ、監禁だ」って騒ぐので困ってしまった。僕がいまこの女にされているみたいに、何もない地下室に放り込まれて、何も食べさせてももらえない状況が監禁だ。僕はご飯も作ってあげたし、水も飲ませてあげた。確かに縛ったけど、ちゃんとイスにだって座らせてあげた。こんなのを監禁なんて呼ぶなんて、世の中の監禁に失礼すぎる。僕はもしかしたら静葉は浮気などしていないのではないか、と思った。もしかしたら静葉には悪いものが憑いているのかもしれない。僕は静葉を殴ることにした。静葉が正気に戻ってくれるように、祈りながら。僕は誰よりもきみを大切に想っている。だからきみを殴るんだ。愛しているからこそ、僕は。静葉の視界が、光を、真実を取り戻してくれることを願いながら。「お願い、殺さないで」と真っ赤に腫れ上がった顔の静葉が、僕を見上げる。


「愛しているよ、静葉」

 僕は、静葉を抱きしめた。きっと静葉は正気を取り戻してくれた。だから僕たちはうまくいく……はずだったのに。静葉は自身を縛る枷から逃れて、僕の部屋から出て行ってしまった。僕が寝ている間に。起きて、それを知って、僕は怒りで震えた。解かれた縛りは地面に落ちて、まるでそれが僕をあざ笑うかのように。やっぱり静葉はいまおかしくなっている。僕が助けてあげないといけない。僕は静葉の家はちゃんと把握している。静葉の家へと向かう。大豪邸だ。二階の窓から静葉らしき姿が見える。逃げる場所も思い付かず、自宅に帰るところが浅はかだ。やはり聡明なはずの静葉を誰かがおかしくさせたのだ。この家が静葉をおかしくさせたのだ。静葉の両親が静葉をおかしくさせたのだ。静葉を生んでくれたことには感謝しているが、静葉をあんなふうに育てたことには憎しみしかない。ここまでやっても元の静葉に戻ってくれないのならば、僕が静葉を葬ってあげなければならない。それがお互いに愛しあった者としての務めだ。僕は家に火を放った。これが世間を騒がせた事件の顛末だ。


 妹は知ってしまったのだろう、犯人が誰かを。

 いくら僕が正しくても、この女は信じてはくれないだろう。黙ってしまった僕を見ながら、ふん、と馬鹿にするように鼻を鳴らして、また女が消えていく。今度は意識を失わなかった。しかし縄は全然ほどけない。どんな結び方したんだよ、あの女。解けない自信があったから、僕の手は自由なままだったのか……。それにしても、あの時、静葉はどうやってほどいたんだろう。イスの角でもうまく使ったのだろうか。


 疲れた。すこし休むことにする。時間を潰せるものは何もない。音さえもない。本来なら耳障りなはずの静寂の中で時計の針が動く、かちっ、という音さえも恋しくなってくる。ぼんやりと真っ白な壁を見ているだけ。無性にその白さが腹立たしくなってくる。壁を殴ってみる。何度も殴ってると、拳から少量の血が出る。足りない、と思った。いっそ大量の血が出てくれば、血文字で、壁を汚せるのに。


 どのくらいの時間が経ったかは分からない。また同じ靴音のリズムとともに、あの女が現れた。


「さっき会ってから、どれくらい経った?」と僕は聞く。

「まだ二時間くらいかな。様子を見にきた。どう調子は」と馬鹿にしたような口調だ。

「二日くらい経った気分だよ」

「なら、そうかもね」

「なぁ、頼みがあるんだ」

「自由にはしてあげないよ」

「そんなことは頼まないさ。どうせ頼んだって叶えてくれないだろうからな。マジックを貸してくれないか。一本でいいから」

「マジック?」

「太い油性ペンだよ」

「何に使うつもり?」

「ただの暇つぶしさ」


「ふぅん」すこし悩んだ素振りをした後、女は部屋から出て行った。そして戻ってくると、僕に向かって、マジックを放り投げた。その態度も不快だが、我慢する。「これで良い?」

「部屋を汚してもいいか」

「律儀だね。好きにすれば」


 女は出て行く。何しに来たのか、よく分からない。僕に復讐したいなら、とっとと殺せばいいのに。生殺しは悪趣味だ。僕はマジックのキャップを開けて、壁に這い寄る。真っ白な光景に黒を混ぜていく。どこまでも黒く。


 生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生きる生――――。


 もう真っ白じゃない。ほんのすこしだけ心が落ち着く。我ながら、大変綺麗な字だ。その後も、僕は書き続けた。『生きる』と。疲れて、眠ってしまうまで。


 目が覚めると、僕は美しい陽光に照らされていた。人工的ではない、ずっと求めていた光だ。生への渇望が、僕を外へと導いてくれたのだろうか、と思っていると、


「あぁ、ようやく起きた? てっきり、死んだのか、と」なんてあの女の声が頭上から降ってきた。夢を見ていたのか。あの女越しに、僕が強く書き綴った『生きる』という文字が見える。

「この落書き、汚すぎて、何書いてあるのか分からないんだけど」


 何を言っているんだ、この女は。頭がおかしくなったのか、姉妹揃って。誰がどう見たって、『生きる』じゃないか。いや、もうそんなことどうでもいい。くだらない会話にも飽きてきた。


「復讐したいなら、さっさと殺せよ。お前の姉さんを殺したことを恨んでるんだろ」

「何を言ってるの?」

「何、って……」


 僕は普通のことしか言っていない。


「あなたが殺したのは、私の妹じゃない。あぁ、やっぱりあなたは、見えているものが見えなかったり、見えないものが見えたり、都合よく世界を改変する。私は死んでいないし、私は家族を殺したあなたを恨んでいたし、あなたは行方不明になった私からの復讐に、内心では怯えていた。違う?」


 あの日、静葉を追って、豪邸を見上げた時、窓越しに見えたのは、本当に静葉だっただろうか。いや、静葉に決まっている。


 だってニュースで、と僕が呟くと……、


「ニュースもワイドショーもちゃんと報じていた。妹は殺されたし、私は行方不明になった、と。週刊誌の中には、私を疑う記事もあった。私は生きるために、潜伏しなければいけなかったくらいなのに。整形もしたし、海外に住んでいた時期もある。それだけあなたが怖かったから。私はいつかあなたへの復讐を考えていて、準備してきた。ある時期から、ずっとあなたを監視していた」

「そのために、十年も……」


 静葉が笑う。あぁ僕はもうこの声が静葉にしか思えなくなってきている。「本当に十年も経っているのかな?」


 僕はその言葉を無視して、続ける。


「警察署で、タイミング良く会うなんて、できるわけが」

「警察署? 何、また変な妄想?」


 あそこは本当に警察署だったのだろうか。財布は、本当にホームセンターのトイレで見つかったものだったのか。僕は本当にホームセンターの店員だったのか。違う。僕は間違っていない。他人を監禁するような奴の言葉を、なんで信じなきゃいけないんだ。嘘つきは向こうだ。この女は、静葉なんかじゃない。


「違う。お前は静葉じゃない。どれだけの時間が経とうと、僕が静葉を見間違えることなんて絶対にない。あってはならないんだ」

「あぁ、また、だね。見えないものが見えた気になって、可哀想に。あなたに私が見えるわけないでしょ。だって、あなたの目玉はもうないんだから」


 目玉?


 ふいに記憶がよみがえる。激痛とともに真っ暗になった後、何かされていたような感覚を抱いた。あの時の記憶だ。何かを抉り取られる強烈な痛み。何かを奪われる恐怖。あれは、僕の目玉が。いや、違う、って、だから。そんなわけがない。だって、いまだって僕はちゃんと女の顔が見えているし、僕の足を縛る縄も見えている。真っ白な部屋も見えているし、何よりも自分で綴った『生きる』の文字が見えている。これだけ見えていて、見えていないわけがない。


「そんなわけがない! 僕は確かに、そこに『生きる』と記した。大量に。綺麗な字で。僕には間違いなく見える。ほら、いま僕は目玉に触れている。目玉があるから、僕は書けたんだ。目を瞑って、暗闇の中で、こんなに綺麗な字が書けるわけがない。ないものを、あるように感じるなんて、そんなことあるはず」

「幻肢って言葉もあるからね。あぁ、幻を視るほうの幻視もあるか。ただの勘違い。あなたのそこは空洞」


 違う。

 違う。

 違う。

 だって、

 だって、

 だって、


 そんな言葉しか出てこない。そもそもなんで両方の目玉を抉り取られた奴が病院にも行かず、普通に相手と会話してるんだよ。そんな不条理な世界、あってたまるか。僕か相手、どちらかが正しいのだとしたら、それは僕のほうに決まっている。だって僕の見える世界は、僕のものだから。


 目の前の女がまだ何かしゃべっている。

 でも、もうどうでもいいや。


 僕は立ち上がって、歩く。僕を縛るものは何もない。誰からも拘束されることのない世界に、僕はいる。ドアを開ける。階段がある。ゆっくりと一歩ずつ確かな足取りでのぼっていく。数えながら。十三段。のぼりおえると、またドアがある。光が隙間から漏れている。自然な、どこまでも自然な光だ。開けると、眩しすぎるほどの愛おしい光が僕を照らす。一歩一歩、光へ、と向かって。僕は歩き続け

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げんし サトウ・レン @ryose

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