げんし

サトウ・レン

僕の見える世界は、真っ白な部屋。

 。

 ん、

 ここ?

 どこだ、

 確か僕は、

 なぐられて。

 なんだか目が、

 チカチカするな。

 あぁ、光のせいか。


 ぼんやりとした意識がすこしずつ明瞭になってきて、最初に頭に浮かんだのは、真っ白、という言葉だった。病室か、と見まがうほどに白い部屋の真ん中で、僕は倒れていたみたいだ。大丈夫だ。視界だけは、はっきりとしている。それが分かっただけでも、安心感がある。立ち上がろうとして、うまく起きることができなくて、そこでようやく自分の足が縛られていることに気付いた。どうやら監禁されているらしい。なんか映画の「SAW」を思い出すな、と。どうしようもなく深刻な状況のはずなのに、僕はわりとどうでもいいことを考えてしまった。いや、深刻な状況だからこそ、無意識にどうでもいいことを考えて、自分なりに気持ちを落ち着かせようとしていたのかもしれない。ただあっちは鎖だが、こっちは縄で両足を縛られて、つまり芋虫みたいな状態になっている。縄ならばどうにかなりそうな気もするのが、せめてもの救いだ。目は隠されていないので、辺りは見回すことはできる。部屋には僕ひとりだ。誰かと命のやりとりをする必要はないみたいで、ほっとする。


 僕はここに来る前、何をしていただろうか。記憶を辿ってみる。頭が混乱しているせいか、うまく思い出せない。


 とりあえず両手は縛られてないので、這うように部屋を動いてみる。と言っても、何もない部屋だ。どこかに自分の身を助けるようなものがあるとは思えないほど、何もない。ただの白い立方体の空間に、真っ白な光を落とす人工的な明かりとどこに繋がっているのかも分からないドアがひとつあるだけだ。時計もないから、時間も分からない。窓もないので、朝か夜か、大雑把な時間さえも分からない。

 なんだか息苦しい。

 ここに長時間いたら、そのうち死ぬ気がする、と思ったが、そもそも何も食べず何も飲まずの状況が続けば、どっちにしても死ぬのだから、これで死ぬ、あれで死ぬ、なんて考えるのも無駄だ。いまもかなりお腹は空いている。何時間くらい寝ていたのだろう。いや、もしかしたら何日とかかもしれない。お腹から変な音が出る。でも何日も寝ていたなら最低でも尿は流れ出ているような気はするから、まだ一日も経っていないはずだ。というか、そうであって欲しい。


 こつ、

 こつ、

 こつ。

 と、ゆったりと一定のテンポを刻む音が、ドアの向こう側から聞こえてくる。音の感じからして、上から下へ、と階段から誰かがおりてきているみたいだ。緊張で、僕の身体に思わず力が入る。


 ドアが開く。

 女だ。化粧もしておらず、長い髪はボサボサだ。起き抜けの雰囲気だ。容姿は美人の部類に入るだろう。そんな女が柔らかいまなざしで、僕を見ていた。まとった穏やかさが、逆に怖かった。圧を感じる。


 この女はいったい何者だろう、と思いつつ、見覚えはある。

「おはよう」

 と女が僕に笑いかける。


 その表情を見ながら、ここに来るまでの最後の記憶とそこにいたるまでの経緯がよみがえってくる。


 郊外のそれなりに大きなホームセンターで働く僕はその日の夜、警察署にいた。警察署にいた、というと、悪いことをしたみたいだが、僕は別に悪いことはしていない。悪いことをされたわけでもない。ただそそっかしい誰かがいただけだ。財布の落とし物がお店のトイレに置きっぱなしになっていた。濃紺のボロボロになった財布にお札は入っておらず、小銭が数枚入っていただけだった。全部で三百円にも満たないくらいだ。商品を買った帰りにしてもすくなすぎる金額のような気もするので、落とした誰かと拾った僕の間に、見つけた誰かがいて、そいつがお札を抜いていったのかもしれない。世の中には悪い奴がいっぱいいるから。僕は拾った財布を仕事終わり、帰り道にある警察署へと届けることにした。最寄りに交番があるので、落とし物を拾うと大抵のスタッフはそこに寄るのだが、僕は帰り道に警察署があるから、という理由で、そこに届け物をする機会が多かった。


 時間帯が真夜中だったこともあり、あとどこかに応援に出ているのかもしれない。建物に入って視認できた警察官の数はふたりしかいなくて、そこそこ広い建物がやけに寂しく感じられた。そして僕よりも前に、先客がいた。いや、警察に来る人間を、客、と呼んでいいのかは分からないのだが。薄手のシャツを着た髪の長い女性で、その横顔を見て、どきり、とした。一目惚れに高鳴る鼓動だとしたら、どんなに素敵だろう、とも思うが、残念ながら、そんな感情ではない。何か見てはいけないものを見てしまったような感覚だ。変な男に尾行されたんです、さっき、と彼女は僕が入ってきたのも構わず、まくし立てるように警察のひとに話し続けている。他のひとに聞かれてもいい話なのだろうか、と若い警察官がちらちらと僕を見ながら、ごめんなさい、もうすこしだけ待ってください、と目で合図する。僕の他人の物を扱うようにして持つ財布を見て、拾得物の届け出だと気付いている様子だ。僕はイスに座って、すこしの間、待つことにした。切れかけの蛍光灯によって明滅する人工的な光がやけに気になった。ぼんやりと待つ時間は嫌いではないが、警察署になんて、できれば長居はしたくない。待っている間、僕は古めかしい掲示板に貼られたポスターを眺めていた。世間を賑わせた事件から近隣で起こった悲惨な事件まで、情報提供を求めるための、懸賞金の額が記されたポスターが何枚も貼られている。僕はひとつのポスターに目をとめる。


 十年ほど前に起こった一家三人を放火で殺害した事件だ。父親は弁護士、母親は画家。そして娘は地方で活動するアイドルグループのひとりだった。母親がそれなりに画家として名の知れた人物で、この事件は必要以上に、大きく話題となった。有名な小説家の表紙を手掛けていたりもして、僕にとってはその印象が強い。当時、煽情的にこの事件をワイドショーが報じていたのを覚えている。母親がある新宗教の信者で広告塔になっていて、その絡みで殺されたのではないか、という話はうんざりするほど聞いた。確か女子大生だった妹がいて、同じ県内にいながら親元を離れてひとり暮らしをしていたため、難を逃れた、みたいな話があったはずだ。ちらりと僕は警察に勢いよく話している女性の顔を見る。もう十年近く経っているうえに、僕はそこまで記憶力が良いわけでもないので自信はないが、どこか『似ている』気がした。


 彼女が帰っていく、すれ違いざま、何かをつぶやかれた。何を言われたのかうまく聞き取ることはできなかったのに、「久し振り」と言われた気がする。僕に、彼女の記憶はない。誰かと勘違いしているのだろうか。それとも僕が覚えていないだけで、本当に過去に会ったことがあるのだろうか。


 いいや、変なことを考えるのはやめよう、と思った。別に今後もう会うこともない相手だ。僕は届け物の財布を警察のひとに渡す。中身を確認しながらその若い警察官がちいさくため息をつく。疲れを吐き出すように。大変でしたね、変なひとに絡まれて、と僕は話を振ってみる。どんな話だったのか教えてくださいよ、と暗に添えて。この生真面目な警察官は、何も教えてくれなかった。当然、と言えば、当然だ。警察官としては立派な態度で、僕としては大変つまらない態度だ。書類の控えをもらって建物を出る。ふぅ、とひとつ息を吐く。緊張感を吐き出すように。やっぱり警察署なんて場所は好きになれない。


「こんばんは」

 と背後から声を掛けられたのは、車のドアハンドルに手を掛けた時だった。振り返ると、さっきの女だ。


「えっと」

「良い車ですね。高そう」

「いや、どこにでもある普通の車ですよ」これは本当のことで、僕は何も嘘をついていない。

「あの……、私のこと、覚えてますか?」

 と彼女が言う。あなたみたいな綺麗なひとと一度会ったら忘れませんよ、と気取った台詞を言ってみたい気持ちに駆られたが、あんなにヒステリックな態度を取っていた女性だ。何を言われるか分かったものではない。いまの口調が落ち着いているのも、さっきまでとのギャップがあって、余計に怖い。


「いや、初めて会ったと思うのですが」

「ふむ、そうですか。では、思い出してもらわないと」

 と、そこで僕の頭に激痛が走り、世界が真っ暗になった。どのくらい暗闇は続いていたのだろうか。はっきりとしない。そして気が付いた僕は、真っ白な何もない部屋で、足を縛られていた。だけどすこしだけ違和感がある。僕はその間に一度、起きていて、何かをしていたか、されていたかのような記憶だ。あれは意識を失っている間に見た、夢のようなものだったのだろうか。


「ここは、……どこだ」と僕は目の前の女に聞く。警察署で出会った女性だ。まだ脳はしっかりと働いていないが、それは間違いない。

「私の家」

「閉じ込めて、僕をどうする気だ」


 お互いの言葉に丁寧さはなくなっている。そんなものは必要ないだろう。加害者と被害者の関係に。


「監禁された認識はあるんだね」

「逆にこんな状態で、それ以外の何を考えろ、って言うんだ。こんな真っ白で、窓もない、牢獄みたいな部屋で」


 真っ白なものを見ると、汚したくなる。その白さに耐えられなくなるのだ。幼い頃から、僕にはずっとそんな思いがあった。僕がじっと女を見ていると、ふふ、と女が笑った。


「そんなにこの部屋、白いかな。あなたは昔から見えているものが見えなかったり、見えないものが見えたり、自分の都合の良いように世界を書き換えたりする。その性格を羨ましく思う時もあるけどね」


 昔から……?

 どういうことだ。僕はこの女と一度も関わりはない。


 この女はおそらく、放火事件で家族を失った不幸な、そして偶然にも死から逃れた幸運な女でもある。確証はないが、確信はしている。僕とこの女に面識はなかったはずだ。この女の姉ならば知っている。僕とこの女の姉はかつて知り合いで、彼女が死んだ日、僕はいつまでも止まることのない滂沱の涙を流し続けた。


 ダレダ、

 オマエハ、


 突然、脳内に声が響く。僕の中に住む僕が怯えたように。そして頭のあたりにいままで感じたことのないような痛みを覚えて、僕は手のひらで自分の目を覆う。そんなことしたって何の意味もないのに、そうせずにはいられなかった。


 ホントウニ、

 イタイノハ、

 ドコダ、


「あーあ」

 と呆れたような声が最後に聞こえて、僕はまた意識を失った。

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