第2話




 光があれば、影もあるもの……。




 水盤に蝋燭の火が落ちて、一瞬、部屋が暗くなった。


「……今のは……」


 水に顕われた、凶兆。

 音を立てて割れた鏡の欠片を暗がりに拾い上げる。

 完全に自分の術が打ち砕かれたことを示していた。

 運び込んだ呪具はこれで、全て破壊されたということだ。


(間違いなく、向こうには術師がついているのだ)


 それも、自分の技を遥かに凌ぐ力を持つ者が。

 最近身の回りにその気配が近づいている。

(ここにいては危険だ)

 慌てた手つきで新しい火を灯した。

 一刻も早くこの地を離れなければならない。 


 キシ……と軋んだ音に振り返り、男は驚いた顔をした。


 闇の中から現れた。


「と、董卓とうたく殿……」


「はは。どうした。驚いた顔をして。古蝋ころうよ」

 董卓は陽気な気配で、笑ってみせた。

「こ、これは失礼を。まさか、相国しょうこく殿が、このような汚い場所へお越しになるとは……」

「なあに。元々俺は涼州の辺境出身の商人だ。旅をしてる時は屋根のある所でなど、夜を明かせないことの方が多かった。これでも泥や埃には慣れているのだ」

「……はっ」

 董卓は恰幅のいい身体を、そこにあった椅子に下ろした。


「申し訳ありません!」


「ん?」

 術師は平伏した。

「此度の失態、……」

「ああ。そうであったな。

 そうかしこまらずとも良い。別にお前の責任を責めるために今日ここに来たわけではないのだからな。力を抜いていい」

 こめかみから汗が垂れる。

 董仲穎とうちゅうえいの残虐な性格と行動は、漢の国の全ての者が知るところである。

 失敗を幾度も許すとは思えない。

 だが、董卓は泰然と笑みを浮かべる。

「わたしも、何も鬼ではないのだ。

 簡単な仕事もこなさないゴミは一度で片付けるが、難しい任を任せた者には寛容も与える。

 そうでなければ、私自身が、今こうしてここにいないのだからな。

 私は人の寛容にこれでも感謝しているのだぞ。

 私は呪術のことはよく分からんが、その術は難しいことは分かる。

 そうでなくては――呪術で人を殺めることが容易ければ、これほど大勢に憎まれる私がこんなに無事でいられるわけがなかろうからな」


「は、ははっ!! 相国殿のご温情に、感謝いたします」


 古蝋は頭を上げないまま、一層深く首を垂れる。

「うむ。

 しかし……状況は芳しくはない。

 今日長安に報せが来てな。

 お前が刈り取るはずだった江東の花は、以前のままの美しさで今も建業に咲いているということだった。民の前に姿を現わし、身を案じていた呉の民をそれは安堵させたとか」

 自分の視た、景色と同じだ。

 古蝋は身震いをする。

「それだけではないのだ」

 董卓は椅子にゆったりと腰掛け、深く溜息をついた。

「麗しの周公瑾しゅうこうきんは、死の底から蘇ったばかりか……ついにあの蛮勇の子など身籠ったらしいという噂がある」

「……、」

「さてどうしたものか……。

 孫策に子がいないことは、孫呉の行く先を考えた時に私にとって非常に好ましいことであったのだが……。周瑜には奴の子が生めぬと思っていたのに、こういうことがあるから、人はおかしい」

「……。」

「知恵を授けてくれぬか。術師殿。

 私は相国として帝の側を離れられぬ。

 だが、孫呉はこのままではあの忌々しい長江という大河に抱かれて守られる赤子のように、すくすくと育って行ってしまう。

 私の自慢の呂布の神通力も、あの小僧には悲しいかな、通じぬでな。

 あのしぶとい江東の雑種は、唯一呂布の手をかいくぐって帰還したなどと、伝説のように語られて、孫呉は守護神に守られているなどと本気で思う馬鹿がいるのだよ」

「……はい……」


「馬鹿はいかん」


 董卓は取り出した扇で、自分をゆっくりと仰いだ。

「思い込んだら、とめどない。

 その為にも、必ず周瑜を始末しなければならなかった。

 呂布の手から逃れた男が、自分の妻さえ守り抜けず、死なせた。

 その暁には、最愛の父に続き、最愛の妻も失った孫伯符の為に、盛大に長安で弔いの儀でも催してやるつもりだったのだぞ。

 まるで孫策は死の神に取り憑かれているようだから、と言って、これ以上の不幸が起らぬように、祈祷などでもしてやろうと考え、美しい祭具まで用意していたというのにだ」

「……。」

 つらつらと喋っていた董卓は、フッ、と笑う。

「まあいい。愚痴をしても仕方がない。それに、高貴な死者を弔う祭具は、この先幾らでも他に使い道はあるだろうからな」

 

 ――この先幾らでも。


 董卓の浮かべた笑みは、蝋燭の火に照らされて浮かび上がり、凄みがあった。

「私はお前を一度信頼したのだ。機会は与える。

 この先どうするつもりだ?」

「亡き袁術殿の所からまた、周瑜に関する呪具を集めて、呪術を試みます。

 相国殿! 周瑜が口にした毒は、誰にでも解毒出来る類いのものではありませぬ!

 向こうにもかような術師がいると分かった以上は、今度こそ細心を計り、……そうです、出産に紛れて分からぬように殺すように」


「古蝋。動物を飼ったことがあるか?」


「えっ?」

「ないか。では、知らずとも仕方ない。動物というのはな、生存本能が人よりもずっと高く、どんな馬鹿でも、一度毒を飲まされれば、同じものは決して口にしなくなるものなのだ」

 男は董卓を見た。

「お前は私が折角機会をもう一度やると言っているのに、

 性懲りも無く、また同じ手で、能の無い手段を取ろうとしているのだな?」

 古蝋は立ち上がった。

「それはいかん……。

 それはいかんぞ、古蝋。

 これほどお前に金を注ぎ込み、存分な呪術と毒術をさせてやったというのに、お前は成長という恩義を私に返そうとしない」

「相国殿……、なにを、」

「わたしは何もせんよ。これでもこの地にやって来た時は、大物狩りと呼ばれたのだ。

 貴様のような小物を殺しても、一興にもならん。

 だが、生かしておいても貴様は邪魔だ。

 私の目障りにならぬよう、地の底に潜って、死んだようにしていればいいものを、こんなに煌々と明かりなどをつけて暮らしておるのだからな」

 後ずさった古蝋はどん、と背が壁にぶつかった。


 ――いや。違う。


 壁ではない。人だ。

 美しい女がいつの間にか、彼の後ろに立っていたのだ。

「所詮、虫けらに獣狩りは無理だったか……。

 最後に教えてやろう。

 此度のこと、私に驚きはない。私は占いや呪術というものを、元々全く信頼しておらんからな」

「で、ではなぜ、わたしを、」

「お前は自ら私の許に周公瑾を呪えるだけの呪具を持ち込み、私にやらせてくださいませ、と言った。私は来るものは拒まん。だが、一度この董卓の盤上の駒になったからには、死に時は私が決める。私を楽しませ、感嘆させ、気に入らせれば、駒でも最後まで生き残ることが出来よう。

 だが私の不興を買った者は、即座に死なせる。

 私の盤上に、目障りな駒はいらぬ。

 漢の国の相国の盤上だ。

 有能で、或いは美しく、そして常に何かを期待させる駒がそこに無いのは、罪だ」


 古蝋の驚き、見開かれた瞳に、針のような細い刃が深く突き刺さる。

 悲鳴を上げようとした瞬間には、彼の首は胴から離れていたため、ただごとん! とその落ちた音がしただけだった。

 遅れてぐらり、とよろめいた胴が、董卓の方へと倒れる。

 飛び散ろうとした血は、董卓の衣を汚す前に、美しい女衣によって遮られる。

 董卓は立ち上がり、悠然と地下から地上への階段を上がって行き、外の街に出た。


「最近どうも五月蝿いハエが洛陽と長安を飛び回っているからな。

 跡は残すな」


 そこにいた二人の影に告げ、董卓は歩き出す。

 路地を抜けるとそこには馬車が用意されていた。

 外からは古めかしいが、中は美しい装飾で整えられている。

 董卓が乗り込むと、そこにはすでに、ほっそりとした体つきで着飾った、女が佇んでいる。

 彼女は傍らに美しい手琴を抱えていた。

 董卓が乗り込むと、すぐに馬車は走り出した。

 しばらくは静かだったが、やがてなにか、石を砕くようなガッ、ガッ、という音が後ろから近付いてきた。



「俺の仕事がないではないか」



 馬車の外から、低い声が聞こえて来る。

「何故、呼び戻した」

「たまには長安に戻って来い。奉先。お前の日頃の戦功を、盛大に労ってやろう」

「――ふん。長安など! 退屈な街だ!」

 董卓は笑った。

「褒美をやると言っているのに、何故腹を立てる」

「あんたに褒美はもらった。この赤兎馬せきとばをな。

 この赤兎の前ではどんな宝玉も霞む。

 最近どいつもこいつも手ごたえがないぞ!!

 涼州騎馬隊など、赤兎の前では子供のようなものだ。

 手応えのある獲物をくれ!

 あんたの嫌いな曹操はまだ来ないのか! 袁紹は! 華北の実力者ではないのか!

 何故俺がこんなに暴れているのに奴は黙っている」

「そう慌てるな。全く、血気盛んな奴だ」

 女が琴をそっと奏で始める。

「暇潰しなら、いい相手がいるぞ」

「なんだ」

「お前も知っているだろう。孫伯符」

「しらん」

「ハッハッハ! 江東連合を率いていた男だ」

「江東連合……?」

「覚えておらんか。漢寿でお前とぶつかって全滅した……」

「知らん。俺とぶつかった奴らは皆全滅してる」

「そうだったな。だが、一人逃した奴がいるだろう」

 そこで、呂布はふと思い出したようだった。

「ああ、追って来いなどと俺に向かって咆えて、崖から河に飛び込んだ小僧が一人いたな。

 あいつか」

「南に逃れて、この私の目障りになって来ておる」

「赤兎は水だけは嫌いでな。溺れて死んだかと思っていたが、生きていたのか。雑魚の分際で。

 そうだ。思い出して来たぞ。あの小僧はこの俺に『誇りがあるなら兵卒など殺して楽しんでいるな』などと言いやがったんだ」

「雑魚かもしれんが、あれはいい水場で泳いでいる。俺は奴の泳ぐ水場が欲しい。

<長江>という名のな。

 奉先ほうせん。俺が涼州の出だと知っているだろう。

 俺は温かい所に憧れがある」


冀州きしゅうに飽きたか」


「飽きた!」

 董卓は笑った。

「俺も若くはない。これからは南の温かい土地で、日を浴びながら、美味いものを食い、女を食い、明るく暮らすのもいい」

「南か。赤兎はどうだ。温かい所は好きか」

 愛馬に話す時だけ、呂布の声は穏やかさを帯びた。

 馬が大きく嘶く。

 まるで本当に呂布の呼びかけに答えたようだ。

「そうか。好きか」

「南に行くには長江を越えねばならん」

「越えればいいではないか」

「あの大河を押さえている者がいる」

「そうか。それがそいつか」

 呂布が笑みを含んだ。

「<江東の虎>と呼ばれた父を持つ蛮勇だ。まだ小僧だがな」


「――よし。赤兎! なら暇潰しに虎狩りに行くか」


「ハッハッハ!! まったく、恐れを知らん、怪物だな、おまえは」

「先に行く。潼関に俺の部隊がいる」

「私はこのまま洛陽に向かい、いと気高き帝のご尊顔でも拝しておくぞ。最近挨拶をしていないから、この董卓の顔をお忘れかも知れぬからな。お前も……」

「興味ない!」

 董卓は馬車の布を捲り、顔を出した。

「孫策の首はお前にやろう。だが、奴の側に周瑜という女がいる。一度洛陽で見かけたが、思わずその場で略奪したくなるほどの美しい女だった。しかも飾られた花ではなく、あれは戦場に出て来て人を襲うそうだぞ。面白い。さぞやこの私を楽しませてくれるだろう。

 いいか。あれは長安に連れ帰って、私のものにする。うっかりと殺すなよ」

 呂布は鼻を鳴らした。


「女など」


 冷たく一度董卓を見遣った。

「枯れるだけの花ではないか」

 合図も無く、赤兎馬が走り出した。

 すぐに前方の闇の中へ、一騎、姿が消えていく。

「女は枯れるだけの花か」

 董卓は腕を組み、可笑しそうに笑った。

「あいつはお前を一度も見なかったな。どうやらお前の色香も、奴には全く効かないらしいぞ」

 琴を弾いている手を、女が止めた。

「だが少なくとも……向こうにはお前と同じ、<六道術ろくどうじゅつ>の使い手がいることは確かだ。

 お前も奉先同様、楽師生活など飽き飽きしているだろう? 貂蝉ちょうせん

 久しぶりに狩り場に放ってやる」


「孫伯符……」


 美しい声が、歌うようにその名を口ずさむ。

「そうだ。獲物の名を、よく覚えておけ。

 そして周公瑾。

 周瑜は俺がもらうが、腹に宿った孫家の子倅のガキは生かしておく必要はない。

 お前の自慢の美しい闇の剣――見せてもらうぞ。

 お前は天帝を始末する為に拾ったが、まぁ帝の御相手をする前のいい腹ごなしにはなるだろう。

 先にお前が孫策を狩ったら、奉先はどんな顔をするだろうな?

 あいつは最近、調子に乗っている。お前が奴の高々とした鼻を手折ってやれ」


 貂蝉は指先でそっと手琴の弦を撫でる。

 弦に触れた彼女の指先が、赤く濡れている。

 董卓は明るい月を見上げ、楽しげに嗤った。



<終>

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