have been,

 独り暮らしの住まいから二時間ほど電車に揺られると、郊外のアパートに着く。

 コンクリートの怪談を四段登り、右に二部屋歩く。

 薄汚れた『都築』の表札を指で拭って、都築はチャイムを二度押した。

 実家のチャイムは壊れていて、一度押しただけでは絶対に通電しない。

 弱々しい足音が響いた。ややあって扉が開く。

 奥から出て来たのは、皺の目立つ中年の女性だった。

 疲れが線として深く刻みつけられたような、卑獪な顔立ちをしている。

 女性は都築を見た途端、顔色を変えた。捨て忘れていたゴミに気づいたような表情だった。

 久しぶりに再会した母の姿に、都築は何を言うべきかわからなかった。

『喜べよ。感動の再会だぞ』

 タイだけが退屈な冗談を言った。


 結局、両親と会ってどうするべきなのか都築は何も聞かされていなかった。

 タイは『良いから実家に帰れ』と都築に言うばかりで、詳しいことは何一つ教えてくれなかった。

 都築と母親はニスが禿げた長机に二人で向かい合っていた。五年ぶりに帰ってきた実家は人が暮らしているのにも関わらずどこか黴臭い。シンクには油汚れと食べ物のかすの粘着質な汚れがこびり付いている。キッチンにそのまま据え付けられている二槽式の洗濯機は、取り込み口が茶色く煤けていた。

 中古の薄型テレビの周縁には、男性アイドルの写真の切り抜きが丁寧に貼られている。


「何しに来たの。なんなの。あんた」


 おもむろに母親が口を開いた。

 都築は何も言えず、ただ彼女のささくれた爪のあたりを見ていた。


「わからない」


 都築はそう答えるしかなかった。


「何もわからなくなって、うちに帰ってきた。喋るネクタイに絡まれて、死ねって言われたから、母さんに会いに来てた」

「意味わからない。気持ちが悪い。ここはあんたの家じゃない」


 舌打ちの音が聞こえた。愚鈍な都築には、それが母親から発されたものだと理解するのに、また少し時間がかかった。


「そう言う所、お父さんにそっくり」


 そう言われて、都築は父の姿が家に見えないことに気付いた。

 仕事に行ったのだろうか。それにしては、部屋の中に父の痕跡が見えない。


「お父さんは?」

「死んだよ」


 死んだ?


「死んだって、死んだってこと?」

「それ以外何があるわけ。首吊ったの。何考えてたか知らないけど。弱っちい」


 言われてみると、父のものは部屋のなかに一つもなかった。

 都築が何も知らされていないことを考えると、母が全ての手続きを粛々と進めたのだろう。ひょっとしたら葬式や通夜もなかったかもしれない。結局のところ、都築の人生はいつもそうだ。取り返しのつかないことは全て都築が全容を知る前に過ぎて行って、後には思い出すための手掛かりもない。

 一本遅れの電車に慌てて乗り込むと、いつも誰もいなかった。

 だが、都築の父はそうではない。

 彼は都築を成人するまで育て切ってくれた。

 じぶんが馬鹿にされるのも、底辺で生きるのもかまわない。

 それは都築自身の能力が不足していたことによる結果だからだ。

 けれど父を馬鹿にされるのは、何かが道理に合わないと思った。 


「お父さんは僕を育ててくれた。毎日頑張って働いてくれたよ。弱かったかも知れないけど、ずるい人じゃなかった」

「あんた知らないの?」


 母親が掠れた笑いを漏らした。


「あんたを育てたのは、あたしの浮気相手に貸して貰ってた金。お父さんは仕事に行く振りしてずっと公園で時間を潰してた。自分で解決する度胸も自殺する決断力もなかったの。あんたたち、ほんとそっくりよ」


 遠くで子供の笑い声が聞こえた。学校帰りの小学生のものかも知れない。

 ひょっとしたらどこかで誰かが、都築と父を嘲笑っているのかも知れない。

 何も始められず、だからといって終わらせることもできない、事実だけを残して消えて行く命のことを。


 都築は何も言わずに席を立って、空き箱のように寒々しい部屋を出た。

 元々、帰る所はどこにもなかった。


                 ○


 コンクリートの踊り場で都築は体育座りしていた。単純にどこに行くべきかわからなかったからだ。へたり込む都築の耳元で、タイはこともなげに言った。


『お前の父親は終わらせたんじゃない。ただ壊れただけだ。自由意志による確固たる死と、病理の果ての脳内物質異常による事故では全く意味合いが違う。後者はもはや苦痛を感じることすら不可能だ。脳が委縮し、思考が放埓になる。それは俺たちの定義する苦痛とは違う。それは本来なかったはずの・・・・・・・ものだからだ。適切な治療が行われれば寛解も可能だし、俺たちが収奪するべきものじゃない。偽札を奪い取って富豪になったと吹聴する馬鹿はいないだろ』


 都築にはタイの言っていることの半分以上はわからなかったが、それでも何となく慰められているような気がした。


「ありがとう。タイに会ってから、少しだけ元気になれた気がするよ」

「そんなザマでか? 冗談はよせ」


 タイは都築の首元をきゅっとしめた。

 踊り場を鎧う鉄柵の向こうには、青空が広がっている。


「お前は最初から詰んでたんだよ。どれだけ頑張っても幸せになれるわけがないよな。今お前が自分の意志で死を選べば、皆が幸せになる。後のことは全部俺たちが正常に運行させてやる」


 きっと、タイの言葉に嘘はない。

 自分がこのまま生きていても幸せにはなれないことも、

 自分の人生には価値がないことも、最初からわかっていた気がする。

 考えても仕方がないから、目を背けていただけだ。

 都築にはそれを知ったところで、どうにかする能力はない。

 だから都築は立ち上がって、

 階段を降り始めた。


「どこに行くんだ?」

「仕事を探してみる」


 錆びて固い手すりの感覚を握りしめながら、都築は一歩ずつ段差を踏みしめる。


「この世の中は僕よりずっと頭の良い人が動かしているんだから、僕なんかでも死なずに生きていけるくらいには上手く出来ているはずだ」

「待て。そんなことをしても、お前は幸せにはなれないぞ。不幸になるために生きるのか?」

「タイなら逆にわかるはずだよね。僕は全部に失敗し続けて来た」


 歩道に出ると、木陰に出た。日差しはまだ眩しいが、陽は傾いており、汗が噴き出すような暑さはもう過ぎ去っていた。


「母さんにああ言われてわかったよ。僕は本当に何も出来ないんだなと思った。自分の命の終わりを自分で決めるなんて、僕には無理だ」

「何て哀れな奴だ」

「いや」


 都築はネクタイを解いた。


「僕の命に責任を持ってくれたのは、タイが初めてだった。そういう奴に会えただけでも、哀れじゃないよ」


 何せ、自分ですら自分の命に責任を持つことはできなかった。

 タイが自分の人生を憐れんでくれたことも、ここまで連れて来てくれたことも、都築には人並みに嬉しかった。


 都築が死ぬときには、誰も都築のことを覚えていない。

 透明な人間になって、ただ存在の輪郭だけがささやかな記録に残るだろう。

 いつか、それすらも忘れ去られる。あまり遠い出来事ではないはずだ。

 彼らのような存在がいる以上、死すらも終わりではない。

 始めることも終わらせることも出来ずに、苦痛に満ちた人生は続いていく。

 都築にはそれだけが恐ろしかった。

 けれど、全部自分のせいだと思う。これから長く続く苦痛の中で。

 それだけが確かなこととして、臍の尾のように都築の首元へ紐帯している。


「ネクタイが人を殺すって言葉の意味、やっと解ったよ」


 都築はタイを手すりに結び付けて笑った。


「きみを首に結んでる間だけは、ちゃんとしようと思えた」


 タイはもう何も言わなかった。

 最初から何も喋っていなかったのかも知れない。

 けれど、都築にあんな頭の良いことを考え付くことができるだろうか?

 彼が本当にいるといいと都築は思った。初めて出来た友人なのだから。

 一緒に昼ご飯を食べて、電車の中で喋って、命に関わる話をした。

 誰が何と言おうと、タイは都築の最初で最後の友だちだった。

 彼はもういない。

 自分の人生を変える最後の機会を失った。

 その気配が、冷や水のように都築の背筋を這いあがってくる。


 都築はむちゃくちゃに叫んで、木陰を飛び出した。

 人生は続く。進むべき場所も戻るべき場所も、もうどこにもなかった。









  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

have been losing, カムリ @KOUKING

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ