お皿洗い
壱原 一
お皿洗いをしていました。
キッチンのシンクで、夕飯を済ませた後の調理器具や食器を洗っていました。
我が家はカウンターキッチンです。シンクの正面にカウンターテーブルが作り付けられています。カウンターテーブルの向こうにリビングが続いています。
料理の間も家族の様子を見守れて、リビングの窓からお庭の景色を眺められます。安心で、開放的な作りです。
けれどお客様がいらした時に、リビングからキッチンが丸見えだと良くない事があります。
それでカウンターの上部に、チェーン式のロールスクリーンを渡してあります。
お客様がいらした時は、スクリーンの側部に垂れている、数珠の連なったような紐の輪の片方を引きます。
するとスクリーンがからからと下りてきて、リビングとキッチンの境を隔てて、目隠しをしてくれます。
いつでもきちんと掃除とお片付けをしていれば、キッチンを隠す必要なんてないのにと思いますか。
そうですか。
ロールスクリーンを下ろして、お皿洗いをしていました。夜も遅かったので、リビングの照明を消していました。キッチンの照明だけを点けていました。
ロールスクリーンは、淡く優しい色合いの、ほうっと心が和むような緑色です。
綺麗な色だなあと思いながらお皿洗いをしていると、カウンターの柱とロールスクリーンの間から、□がひょっこりと顔を覗かせました。
上機嫌です。いたずらっ子の見本のような笑みを浮かべています。人を揶揄う楽しみに両頬をきゅっと持ち上げて、無邪気に悪だくみをしている顔です。
瞳をきらきら輝かせ、持ち上がった頬の分だけ目を細め、抑えきれない高揚に弧を描いた唇がふるふると震えています。
実際、□は良い齢をして、人を驚かせるのが好きです。
しかも暗がりからわっと声を掛けて、相手をひゃあっと跳び上がらせる類の驚かせ方を好みます。
相手が無防備に驚愕する姿や、その後に□を認めて安堵する様子に、ささやかな支配欲や自己肯定感が満たされるのでしょう。
困った大人ですが、やる事と言えばわっと驚かすくらいです。また腐っても大人ですから、相手に受け入れてもらえそうな余裕のある時機を巧妙に見計らってきます。
それで誰しもが呆れながらついつい許してしまいます。その時も何かするつもりだなと直ぐに分かりました。
ただその時に見た□の笑顔はなんだか不快でした。
だから無視してお皿洗いを続けました。
すると□がキッチンへ回ってきて、機嫌を取るように手元を覗き込んできました。
洗い終えた調理器具や食器が水切り籠に溜まっています。けれど□は構ってもらえるのを待つように、お手伝いをする素振りすら見せません。
一言いってやろうと□を見ると、そこには誰もいません。照明を消したリビングからの暗がりがあるばかりです。
視線を感じて振り向くと、カウンターの柱とロールスクリーンの間から、まだ笑顔が覗いています。
知らない人でした。
全然しらない人です。
知らない人の顔です。
顔の位置だって変です。
カウンターテーブルがあるので、身を乗り出しているならもっと低い位置から仰向きです。テーブルに乗っているならもっと高い位置から俯きです。
ぴったりとこちらを向いて、顔だけを覗かせて笑っているのは変です。顔だけがテーブルの上で宙を浮いていなければ変です。
変だなあと思った時、玄関で大きな音がしました。玄関の扉が思い切り開かれた音です。
玄関の扉が急に外側へ開かれて、屋内から屋外へ空気が抜けたと思います。陰圧に引かれたリビングの扉が揺れました。
開かれた玄関から1人分の足音が駆けてきました。人が走っているかのように空気が動きました。
足音はカウンターテーブルで止まりました。ロールスクリーンが波打って、びらんと捲れ上がり、目を閉じました。
絶対に絶対に見てはいけないと思いました。
どこから連れてきてしまったのか、全く覚えがありません。
顔だけ連れてきてしまって、体が追い付いたと思います。
お客様がいらしていたので、ロールスクリーンを下ろしていました。
皆さま□を悼んで、しめやかに送って下さいました。1人きりの遺族を慰め、温かく励まして下さいました。
もしかして、送る途中のどこかからついて来たのでしょうか。呼び寄せられたのでしょうか。そんなことってありますか。
□に見えたのは何故でしょう。□の真似をしたのでしょうか。
どうして□だと思ってしまったのでしょう。
家族になりたかったのでしょうか。
もしかして、なったのでしょうか。
どう思いますか。
そうですか。
その後どうなったのか、全く覚えがありません。
お皿洗いをしています。
ロールスクリーンは下ろさないことにしました。
終.
お皿洗い 壱原 一 @Hajime1HARA
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