11・大アルカナ〈0〉〝愚者(フール)〟正位置
事態の後始末は、篠原たちの手を離れた。そして彼らには、軽井沢の五つ星ホテルでの休暇が許されていた。
スキーシーズンとゴルフシーズンの狭間の今は、比較的宿泊客も少ない。新緑に囲まれた景観と温泉が、体の疲れと緊張をゆったりとほぐした。
その後は、各自自由に過ごしていた。
篠原はほぼ丸1日、個室で熟睡していた。
しかし……。
※
夜明け直前――
篠原は異常を察して目を覚ました。
両腕が、ベッドの支柱に繋がれていた。
しかも、手錠を使っている。足はロープで別の支柱に結ばれている。
女の声がした。
「不用心よね。こっそり部屋に入っても気づかないなんて」
朝比奈純礼だった。
ベッドの足元に、腰掛けている。しかも、全裸だ。
薄いカーテン越しの明かりの中に、豊かだが引き締まった体が幻想のように浮かび上がっている。
篠原は首だけを上げ、自分も全裸にされていたことを確認した。
足首を見て、思わず声がもれる。
「これはこれは……手慣れた結び方だ。SM趣味……ですか?」
純礼がクスリと笑う。
「そういうお客様も少なくないから。あなた、驚かないのね」
「充分驚いていますよ。僕が、こんなにあっさり拘束されるなんて」
「感情がこもっていない言葉」
「僕の言葉って、いつもこんな調子です。だから、人から嫌われます」
「わたしは好きよ」
「ありがとう……と言うべきなんでしょうか?」
「お好きに。まず、説明しとくわね。鍵は、簡単に開きました。あなたは眠っていました。なので、ちょっと注射を打ちました。それで、昏睡。あとはやりたい放題」
「でしょうね。さすがに脳が疲弊していましたから。温泉、浸かりすぎたようだし。でも、説明不足です」
「ごめんなさい。注射の中身は麻薬の一種で、薬師寺が手に入れたものを分けてもらいました。覚醒させる拮抗剤も」
「そこじゃありません。一流ホテルのカードキーを簡単に開けられたというのは、いかにもご都合主義では?」
純礼は動じない。
「だって、説明なんて不要でしょう?」
「なぜそう思うんですか?」
「あなたが薬師寺の死体の首筋を見たから。気づいたんでしょう?」
「僕が気づいたことに気づきましたか……さすがですね」
「だってわたし、5人の人格を持ってますから。しかもみんな、なにかしらのプロフェッショナル。注意力もスキルも、相乗効果で20人分ぐらいかしら」
「ハッカーのテクニックも完全に身に付いているなら、カードキーも無意味でしょうね」
「ほら、分かってるじゃない。いつ気づいたの?」
「それより、なぜあなたが裸なんですか? なぜ僕を裸にしたんですか?」
「それも分かっているんじゃなくて?」
「推論はあります」
「言ってみて」
「大前提。人格を奪う能力を持っていたのは、薬師寺ではなく、あなただということ」
「正解」
「しかしその能力の発動にはいくつかの条件があって、奪える人格にも段階がありそうです。最初は、単純な接近。あなたは他人の近くに寄り添うだけで、人が体外に発する電磁波のようなものを読み取れるようです」
「それも正解。以前も言ったけど、それってわたしたちが〝波動〟と呼ぶもの。オーラとか人体エネルギーが発する振動で、魂が高次元にある人ほど強い波動を放出している。ちょっと勘のいい人なら、だれでも感じることはできるものよ。わたしの場合は特に敏感で、近づくとわたしの波動と共振して内容が読める。それを自分の中に取り込むわけ」
「どんな人格も読み取れるんですか?」
「共振さえすれば。そして、取り込みは選択的にできる。日常の些事に振り回されているような無益な人も読めるけど、価値はないので無視します。占いを看板にして高次元の魂を探してきましたけど、当たりはそうそう引けないものよ。社会的地位と魂の高さが一致していることなんて、滅多にないから。大半のお役人みたいなゴミを集めたって、なんの足しにもならないしね」
「でもそれだけでは、相手が後天的に学んだスキルは充分に身に付かない?」
「またまた正解ね。どこまで見抜かれちゃってるのかな。くやしい」
しかし純礼は楽しそうだ。
篠原も緊張はしていない。
「あなたがたくさんヒントをくれたからですよ。で、次の段階が必要になるんですね。……たぶん性交渉でしょうか」
「そう考える理由は?」
「薬師寺はあなたの血液で変調を起こしました。ならば唾液や性液のような体液の交換でも、多くの情報を伝達できると考えても矛盾は生じない」
「正解。だからわたしは、これぞという殿方たちに抱かれてきたの。精子を受け取ると、スキルが染み込んでくるのよね。人格とスキルをセットにして、わたしの脳の中に作ってある〝引き出し〟に収めるわけ。必要な時にスキルを引き出して使うこともできるし、不要になれば捨てられる。体の組成だってある程度変えられるし、複数のスキルを同時に使うこともできる。オリンピック選手になるのは無理でも、運動会で1番を取るぐらいは簡単」
「だから、薬師寺もあれほど俊敏な動きが取れたわけですね。しかし、薬師寺自身には人格吸収の能力はないはずです。なのに、僕が見た報告書では体の組成も変わったと記録されていました」
純礼が身を乗り出す。笑っている。
「なぜだと思う?」
「血液……いや、違いますね。たぶん、唾液を注入したから、でしょう。あなたは通常、血液の吸収時に相手に唾液を注ぎ込む。笠木さんは、蚊が人間の感覚を麻痺させて血液を吸い上げるようだ、と評していました」
「蚊と一緒なんて、心外。でも、間違ってはいない」
「その唾液によって能力の一部を分け与えたり、相手の意識をコントロールすることも可能なのではないですか? いわば、リモートコントロールできるデコイを作るようなものです」
純礼が興味深そうに身を乗り出す。
「なぜ、血液と唾液を分けて考えたの?」
「血液は臓器の一部、唾液には基本的に細胞は含まれませんから」
「それだけ?」
「薬師寺は、あなたの血液を数滴口に入れただけ悶絶死しました。アナフィラキシーのような例外的な反応でなかったのなら、血液を取り込んだのは初めてだということになります。しかし研究対象として最新医療機器で精査されても、多重人格を疑われたことはなかった。多重人格という〝現象〟は事実だったわけです。薬師寺にその能力を移転させる手段に血液を使っていないなら、媒介は唾液が最も疑わしい。そして性行為の最中なら、唾液の注入は容易にできます」
純礼はわざとらしく目を丸めて、小さな拍手をした。
「正解! さすが篠原さん。天才の呼び名はダテじゃないわね」
「こんな格好で褒められても、恥じ入るだけです。分からないこともたくさんありますし」
「たとえば、何?」
「性液にも細胞は含まれています。なのに血液とは違うんですか?」
「理由は分からない。でもやっぱり血液じゃないとダメなの。生殖細胞の減数分裂と関係があるとは思うのだけれど」
「あ、そこは気づきませんでした」
「わたしも長い間考えて、やっと思いついたことだから」
篠原は世間話のように続ける。
「僕を解放してもらえませんか?」
「ごめんなさいね。でも、このままでもう少し付き合って欲しいの」
「なぜですか?」
「とても嬉しいから」
「嬉しい?」
「だって、初めてだもの。わたしをこんなに正しく理解してくれた殿方は」
「解放しても話はできますよ?」
「いやよ。あなた、怖いもの」
「5人もの人格と能力を持ち、未来予知まで可能なあなたでも、怖いものがあるんですか?」
「あなたこそ、底が知れない」
「武器もないし、格闘術も並の警官以下ですよ?」
「でも、知恵がある。それが一番強力な武器ですから」
「全裸というのが落ち着かないんですが……」
「残念だけど、我慢してね。わたしは楽しんでいるので」
「では質問をいくつか許していただけますか?」
「どうぞ」
「まずは確認です。血液を摂取すると、何が得られるんですか? それは唾液や性液では得られないのですか?」
「記憶」
「やはりね……」
「あなた、最初から気づいていたものね」
「ただの直感でした」
「だから怖いの」
「城と刑部の血液はどうやって手に入れたんですか?」
「薬師寺は吸血の際に2人の意識を奪って、去った。その直後に、隠れていたわたしが吸血。目を覚ました2人には、薬師寺の記憶しか残らない。簡単なことよ」
「あなたになら、簡単なんでしょうね。だから、どんな相手も自由に操れた。占い師として国家の重要人物の懐に取り込み、ベッドの中で機密情報と相手を支配する権利を得る。その情報があれば占いの精度も高められるでしょうし、より高位の人物の信頼を得る足がかりにもできる――という仕組みでしょうか」
「相手を完全に支配することなんて無理。ただ、『こうして欲しい』という要求をいくつか植え込むだけ。薬師寺にもそうしただけ。そして薬師寺は、自分がわたしを操っているものだと信じ込んで得意げになっていただけ」
「恐れ入りました。そうやって事もなげに他人の全てを奪っていくあなたこそ、脅威そのものです」
「こんなことは多くの人がやってきた人身掌握術に過ぎないと思うのだけれど」
「まさか。他の誰にこんな離れ業ができるというんです?」
「俗説ではあるけれど、例えばユダヤ人。国を追われて迫害された彼らは、知識という〝奪うことができない財産〟に固執した。そして多くは、医師や弁護士や教師を目指しました。どうしてだと思って?」
篠原は話の展開に戸惑いながらも、素直に答えた。
「自らの居場所を確保するためでしょうね」
「問題はその職種。教師は教え子の考え方を左右できます。端的にいえば、洗脳。その意味では、新聞やテレビなんかのマスコミも同類ね。いわゆる大衆を煽動して都合がいいように動かすには、欠かせない装置だから。そしてそこにも、ユダヤ人がいっぱい」
「では、医師や弁護士は?」
「彼らは有力者の肉体や家庭、そして職務上の秘密を知ることができます。それらはすべて、人を操る道具にもなります。そこで得た知識は、最も重要な仕事である金融の世界を操作する手段にもできる。ユダヤ人同士が手を組めば、断片的な知識がコネクションの中で統合されて、世界の動きを読むことが可能になる。そして次には、世界の動きを作り出すことすらできるようになる」
「陰謀論ですね」
「その通り。世に言う、ディープステートという奴かしら。陰謀論ですから、信じるか信じないかはご勝手に。でも、ユダヤ人の休日にはウォール街が開店休業になるのは事実。歴史の節目でユダヤ系の人々が活躍してきたのも事実。日本が彼らの影響力を受けてきたことも事実」
「たとえそれが事実だとしても、僕には関わることすらできません。しかし、あなたは別だ。あなたはたった1人で同じことを成せるほど、巨大な力を持ってしまった。それが危険なんです」
「わたし、世界を支配したいなんて思っていないけど」
「それを疑っているんです。なにしろ、有力者の心を操る能力と知識を持っているんですから」
「そんな大袈裟なものじゃありません」
「事実、薬師寺氏は操られました」
「薬師寺さんには、『自分は多重人格者だ』と信じ込ませて、わたしの能力の一部を転移しただけ。政府の高官や経済人には、わたしが血を吸ったことを忘れるように〝お願い〟しただけ。それ以上のことはしないし、できません」
「それが信じられれば、僕ももっと平穏に暮らせるでしょうけど」
「わたし、少し特殊なだけ。化け物じゃない」
「少し? それは容認できません」
「だったらどうするの? わたしを殺す?」
篠原は真剣に答えた。
「可能であれば、そうすべきだと思います」
「でも、わたしは殺されないように色々と手を打ってます」
「たとえば、どんな?」
「あなたなら、何種類ぐらいの手段を思いつくかしら?」
「死が確認されたら公開される文書を弁護士に預けるとか、心臓が止まったら首相官邸を爆破する仕掛けを隠しておくとか……最低でも10種類ぐらいは準備しておくでしょうね」
純礼がこらえ切れずに小さく噴き出す。
「素敵なギャグね」
「でも、今のあなたなら不可能じゃない」
「その通り。わたし、それに加えてあなたにはない能力も持っています。知り合いもたくさんいるし、弱みもたくさん知ってる。できる準備は……あなたの3倍ぐらいかな」
「あなたが死ねば、日本の屋台骨がぐらつくということですか?」
「訂正します。わたしの知り合いって、世界中にいるの。ネクストチップスのCEOを格付けするなら、〝中の上〟程度かしら。その上の方々も、何人か占ったことがあります」
「本当ですか?」
「信じられない?」
「余計に、殺しておくべきかなと思います」
「そんな格好なのに、正直ね。まるで、解剖されるのを待ってるカエルみたいよ。今殺されそうなのは、あなた」
「返す言葉はありません。で、僕を殺しますか?」
「とんでもない。今まで自分では犯罪に関わらなかったのに、そんなことをしたら何もかもぶち壊し」
「でも、すでに多くの人の血を吸っています。それは犯罪ではないと?」
「やだ、あんなのはただの性的お遊びじゃない。お相手様もたっぷり楽しんで、しかも満足してる。わたし、テクニックには自信があるから」
「それでも意図的な傷害行為です」
「吸われた本人が気にもしてないのに? 吸血痕も、キスマーク程度にしか見えないように気を使ったのよ」
「なるほど……性行為は、吸血のカムフラージュにも最適だったということですね」
「楽しいし」
「だったら僕の血も吸いますか」
「もちろん、そのつもりだったの。だからこんなことまでしたのに……。でも、無理」
「なぜ?」
「なぜでも」
篠原は純礼が本質を隠そうとしていると感じ、あえて話題を移した。
「ネクストチップスとは、どういう関係ですか?」
「どう思う?」
「彼らを操って、日本を売り飛ばそうという策略でしょうか」
純礼の表情に、わずかな不快感が浮かぶ。
「それも心外。わたしは日本を愛しています。ただ、軍隊が動くのを間近で見たかっただけ。実際にCEOと交渉したのは薬師寺。まあ、わたしの能力を提供するということが条件だったけど。でも、わたしが黒幕だということは絶対に知られていません。こんなまどろっこしいお芝居を続けた一番の理由は、薬師寺が能力者だと信じ込ませるためでしたから」
「僕らが薬師寺氏を処分すれば、あなたは自由になって好き放題に企みを操れる……ということでしたか」
「企みだなんて、人聞きが悪い」
「だったら、何がしたいんですか?」
「それは秘密」
「秘密だから企みなんじゃないですか」
部屋の明るさが増してきていた。
純礼が篠原の目を覗き込む。口調が真剣に変わる。
「まさか、こんなにあっさり見抜かれるとは思ってませんでした。あなたこそ、化け物なんじゃない?」
篠原はまっすぐ見返す。
「それこそ心外です」
「でも、日本を愛していることに嘘はありません」
「信じていいですか?」
「わたしの言葉を信じていただけるのなら」
「では、なぜ軍隊が必要なんですか?」
「実験……かしら」
「本質的な答えではありませんね」
「せっかちね」
「軍隊に何をやらせたいんですか?」
「だからそれ、まだ秘密ですから」
「困った人だな……。仕方ない、では、本題に移りましょうか」
「今までのは、前戯?」
「僕個人の関心事は別ですから」
「何?」
「僕を拘束して、どうする気なんですか?」
「やっぱりそれが知りたいのね……」
「当然です」
「最初は、あなたの才能も奪おうと思っていたんだけど……」
「なぜ、〝無理〟なんですか?」
「怖いから……」
「超能力があるのに、僕の何が怖いんだか……」
「薬師寺の、あんな姿を見たもの」
篠原も、薬師寺の〝異常な死〟の原因を考え続けていた。
「彼の脳はおそらく、コップの水が溢れる寸前のような状態にあったのだと思います。才能豊かな文人でも、脳の構造は常人と大きくは違わないでしょう。そこに、あなたの全人格や記憶が流れ込んできた。そして、許容できる容量を超えて、溢れ出してしまった。その結果が、あの爆発的な老化の進行なんだと思います」
「同感。怖いでしょう?」
「あなたの容量もその程度なのですか?」
「分からない。分からないから怖い。たぶん、薬師寺や刑部程度の人格ならまだ数10人は入ると思う。そんな気がするというだけ、だけれど。でも、あなたの肌に触れてみて感じた。あなたは特別」
「どう特別なんですか?」
「脳の容量が大きすぎる。常人の数10倍、かしら」
「やっぱり化け物扱いしたいんですか? 僕はそんな怪物じみた人間じゃありません」
「ご謙遜を」
「MRIは撮ったことがありますが、目立った違いはありませんでした」
「だったらきっと、脳細胞のつながり方が特殊なんだと思う。あなたほど力を身につけられるならぜひ欲しいけど、たぶんわたしが爆発してしまう。構造が普通じゃない脳を混ぜたら、わたしの脳とコンフリクトを起こして狂いそうだし。そんな賭け、危険すぎる」
「褒められたと考えておきます。でもすでに、少しは吸収したんでしょう?」
「怖くなって離れたの。これ以上は近づけない。あなた、化け物よね……」
「またそれだ……。あなたにだけは言われたくありません」
純礼は剥き出しの篠原の性器にそっと触れた。
「欲しかったんだけどな……」
「触っても平気なんですか」
「この誘惑には勝てない……」
「持っていかないでくださいよ」
「でも、これ以上は無理そう」そして純礼は性器を離し、どこから取り出したのか金属製の牙を篠原の目の前に差し出した。「余裕ね。でも、だからこの牙も用済み。記念に、あなたにあげる。わたしのこと、忘れないでね」
そして牙を、篠原の胸にそっと置く。
「吸血鬼もどきの正体、ですね」
「セックスの最中に血を吸うには、便利だから。両手が空くし、自然だし」
「もう人格の吸収はしないということですか?」
「行為中に使う牙は他にもあるから、心配しないで。でも、それなりの証拠は残ってしまう。だからここぞという時以外は使わない」
「僕に言い訳する必要はないと思います」
「ところで、わたしも教えて欲しいことがあるの。いつからわたしが怪しいって気づいていたの?」
篠原は隠し事をする気はなかった。
「日銀の襲撃の時から、不自然だとは思っていました」
「最初からじゃない! どうして⁉」
「薬師寺氏はあなたを生きたまま捕らえたいはずなのに、いきなり強力な殺傷兵器のクレイモアを持ち出してきましたから。特戦群とさえゴム弾で戦っていたのに、です。朝比奈さんを殺さないという確信がなければ、できないことでしょう?」
「頑丈な車に乗っていたから、とは考えないの?」
「遊撃車であっても、あの罠の中心に入ったらおそらく無傷ではいられません。ブレーキをかけさせたのは、あなたです」
「バレちゃった……」
「しかもピンポイントで、ここしかないというタイミングで襲われましたしね」
「なぜだと思って?」
「あなたは発信機か盗聴器を持っていたんじゃないですか? というか、スマホのアカウントを渡しておくだけでGPSで居場所は追えるし、音声も盗めますよね」
「そこまで見抜かれていただなんて、がっかり」
「自慢はできません。気付いたのは、不審な状況がいくつも重なった後ですから。しかも、確信できたのは今日になってから――いや、日付はもう変わっていますね」
「でも、なぜわたしがそんなことをした、と?」
「本当のところは今でも理解できません。できるのは、類推だけ」
「言ってみて」
「一般人に被害は与えたくなかったんじゃないんですか? 最初に大きな破壊活動を見せつければ、警察も及び腰になる。どこに隠れるにせよ、民間人に被害が及ばない場所を選ぶ。そこでなら、好き放題できる――というところでしょうか?」
「それ、正解の1つね」
「他にも理由はある、と?」
「吸血すれば、政治家でも官僚でもスキルや記憶は盗める。でも、記憶を奪ったところで、日本がどれほど彼らに動かされているか、実際のところは分からない。どんな時に、どんな組織が、どんなふうに動かされるのか……それを正確に知るには、実際に事件を起こして見極めるしかなかったの。内部情報の収集のためなんだから、内部にいるのが一番。だから、保護される側に回って観察していたわけ」
「それ、何のために?」
「お茶目な好奇心――と言ったら信じて?」
「まさか」
「いつの日か、きっと役に立つはずだから。それに、理由はもう1つ。わたしの関心事じゃないけど、『自衛隊の秘密研究所に行くだろう』って薬師寺が言ってきたから」
「薬師寺氏は意識的にあなたと共謀していたんですね?」
「本人は、わたしを手下にしているつもりでいたけれど」
「特戦群の介入を予測していたんですか?」
「っていうか、薬師寺が軽井沢の軍人たちから頼まれたんですって。『日本の量子研究は一部では突出しているから、奪う必要もあるだろう。ネクストチップスの仕事を続けるなら、特戦群と戦うことになるかもしれない。だから通常の訓練では見せない真の実力を知りたい』って。わたしは別に騒ぎを大きくする気はなかったけれど、PMCを動かすにはCEOの依頼は断れない。だから、『計画はそっちで勝手に立ててね』って、言っただけ。そしたらあんな派手な襲撃を起こされちゃった」
「日銀前の破壊活動は、自衛隊を引き込むための布石だったんですね」
「わたしのアイデアじゃないけど」
「しかし、研究所のハッキングの入り口になった通信機は、あなたが仕掛けたんでしょう?」
「それも知ってたのね?」
「被保護者が、自分を捕まえにくる敵を呼び込むとは思いませんからね」
「あの装置、薬師寺から渡されたの。軍隊までが動き出したのが面白くて、ついやりすぎちゃったかも。でも、証拠を消したりしなかったのはせめてものお詫び。シナバーちゃんにはすまなかったけど」
「結果的には好都合でしたけどね。おかげでシナバーさんも充分に力を発揮してくれました」
「で、あなたはそれ以後ずっとわたしを監視していたの?」
「スッキリしない感覚がずっと付きまとっていましたからね。ですが、最終的に確信を持てたのは薬師寺の首を確認した時です。吸血痕がありましたから。本人も気づかないまま、ずっと隠していたんでしょう。それもきっと、あなたの意識操作の結果です。5つの人格の中で吸血痕がないのは、あなただけです」
「他の場所にあるかもしれないのに?」
「4人すべて首筋ですよ。あなただけ例外というのは考えにくい」
「だって、女だもの」そして、少し足を開いて股間に手を這わせる。「ここ、とか」
篠原は厳しい目つきを崩さない。
「ご冗談を。人格は5人。4人に吸血痕があるなら、残りが能力者です。分かりきった事じゃないですか」
「やっぱり、誤魔化せないのね」
「僕が気づいたことにあなたが気づいたことには、気づいていました」
「だったらどうしてこんなに無防備だったの?」
「好奇心……ですかね。我ながら狂ってると思いますよ。ただ、全ては仮説の域を出ませんでした。仮説を立ててしまうと、どうしても実験で確かめたくなってしまう。研究者の悪癖です」
「命をかけてまで?」
「だってあなたは、正真正銘の超自然現象です。量子の振る舞いに右往左往してきた身としては、オカルトが科学とどう整合するか見届けないわけにはいかないんです。丸裸にされるのは予想外でしたけど」
「殺されるとは思わなかったの?」
「僕を殺す意味はあるだろうか、とは考えました。僕がここで死んであなたが消えれば、自分が本当の〝怪物〟だと自白するようなものです。そんなことをして、何か得があるとも思えませんでした」
「わたしと同じ結論ね。でも、消えるとは限らないわよ?」
「僕は混乱に乗じて、あなたを処分するように命じられていました。占い師としてだけですら、あなたはもはや災害レベルの存在です。高官の中には同盟国の秘密情報を握る立場の者もいるらしいので。彼ら自身も、あなたにどんな情報を抜かれたのかは分かっていません。あるいはその情報が他国に渡れば、世界の形を歪ませるかもしれない。こんな騒ぎが起きた今では、皆、それを恐れています」
「やっぱり『殺せ』って命令されていたのね……」
「自分が狙われていることにも気づいているんでしょう?」
純礼がため息をもらす。
「だから、被害者を装ったまま4人を処分して、こっそり姿を消そうとしたのに……なのに事態が、こんなに大袈裟になってしまった」
「そういう可能性も高いとは思っていました」
「そこまで読んでいたのね。なぜ殺さなかったの?」
「あなたの能力は底知れませんから。僕にだって、怖いことはあります。それに、僕の仮説を直接確認する機会が欲しかったので」
「疑問は解けた?」
「まだ残っています」
「他にもあるの?」
「なぜ薬師寺氏の人格が必要だったのか、ということです」
「なぜ……って?」
「テロリスト、ハッカー、戦略家は、現代の戦争に欠かせないという理屈は分かります。では、小説家の役割はなんでしょう?」
純礼は、心底驚いたというように目を丸くした。
「分かりませんか? わたしは、一番大事な能力で、何がなんでも欲しいと思っていたんですけど」
「残念ですが。ぜひご教授いただきたい」
「小説家の仕事は、たくさんの人の心を操ること。時に怒らせ、時に酔わせ、時に泣かせる……そうやって感情を武器につければ、無数の人々を自由に動かせる。アジテーターには欠かせない才能でしょう? 実際、ネクストチップスをここまで引き摺り込めたのは、彼がCEOの心を揺さぶったから。中の上とはいえ、CEOほどの人物になると戦略や詐欺だけでは動かせませんから」
「なるほど……盲点でした。理系の人間は、やはり人の心には弱いですね」
「あなたでも苦手があると分かって、安心したわ」
「僕は化け物じゃありませんから。でもそれって、あなたにはアジテーターの能力が必要不可欠だということですよね」
「あら。誘導尋問だったのね」
「ヒットラーのような演説を目論んでいるのでしょうか?」
「それが必要なら」
「なんのために必要なんですか? あなたの究極の目的はなんなんですか?」
「あなたを殺して、本当の力を得ることだったんだけど……」
「それは、究極ではありません。僕を奪った先に、何をしようとしていたんですか?」
「味方してくれる?」
「目的が分からなければ、答えようがありません」
「〝お巡りさん〟に打ち明けられるようなことじゃないの」
「でしょうね……」
「できれば、黙ってわたしを行かせて欲しいんですけど」
「〝お巡りさん〟としては、捕まえるべきなでしょうけど……」
「恥ずかしい姿で?」
「ですよね」
「あなたは、わたしの敵?」
「目的によります。今の情報しかないのなら、ここまでの騒ぎを起こした張本人を放置することは難しいです」
「堂々巡りみたい」
「これであなたから、敵、と認定されたのでしょうか?」
「少なくとも、障害にはなるかも。だってあなた、相手がいくら強くても全然怯まないんですから」
「薬師寺氏はラスボスではありませんでしたから」
「ご謙遜を。わたし、ずっとあなたを見ていたのよ。それで、わたしの方は敵認定されたの?」
「悪事を企んでいるのですか?」
「善悪は、立場によって変わるもの。見方によって揺らぐもの」
「しかし、常識という尺度があります。警察は、常識の範疇を逸脱できません」
「常識だって変わるもの……というより、もしも警察そのものが常識を踏みにじっていたら?」
「警察と戦うつもりなのですか?」
「それはまだ、秘密。でも、戦わずの済むなら、その方が嬉しい。でもそうなったら、わたしを倒しにくる?」
「行かねばならないかもしれません。しかし、あなたにはすでに5人もの特殊能力が宿っています。僕は圧倒的に分が悪い」
「それでも立ち向かってくるのが、たぶんあなただと思うの。そんなあなたに着いていくお人好しもたくさんいるし」
「褒められたのか、小馬鹿にされたのか……」
そして純礼は傍のカードを取って、1枚引いた。そしてカードに語りかける。
「あら、そうなの? だったら、殺すのはやっぱり考え直さないとね」
篠原は首を上げた。
「何が出たんですか」
「今でもわたしの占いを信じる?」
「今だからこそ、信じています。あなたの占いはずっと精査していましたから」
「イカサマだと思ったことはないの? だってわたし、この騒動の黒幕なのよ」
「精査していたんですって。イカサマだとしたら、見破れませんでした。何を尋ねたんですか?」
「あなたがこの先、障害になるかどうか」
「で、結果は?」
「タロットの宣託は、ナンバー0の大アルカナ、フール。愚者、ね。愚かだけど、革新を引き起こす者。無限の可能性を秘めた開拓者。硬直した世界にヒビを入れる破壊者にもなり得る」
「まるで考えなしのワイルドカードじゃないですか」
「実際、トランプのジョーカーの原型とも言われています」
「で、僕をどうするんでしょう?」
「これだけじゃ分からない。だからといって、時間をかけて掘り下げたところで、きっと結論は変わらない。あなたはそういう人のようです」
「で、結局僕をどうしたいんですか?」
「どうもしない。あなたは、あなたのままで生かします。というより、どうにもできない。能力をコピーすることすらできないんだから」
「なぜ生かすんですか?」
「それが宇宙の意志だから。わたしの手に負える魂ではないことは思い知った。あなたを吸収できるほど、私の脳には空きスペースがない。でも、運命の輪が動き出せば、また力を合わせる時が来るかもしれない。それが、カードの知らせ。そして、わたしの予感」
「僕にはあり得ない未来だと思えますが?」
「あなた、予知能力があるの?」
「ありませんよ、そんな大それたもの」
「でしたら、自分を過信しないことね。時は移ろい、状況も変わるもの。人はそれに翻弄されるだけ。あなたもまた、宇宙のパーツの1つ。今信じていることが、明日も信じられるとは限らない」
「それは……反論はできませんね」
「今、時代は大きく変わろうとしているんです。西洋占星術でいう〝風の時代〟に入りましたから」
「風の時代……って、なんですか?」
「惑星の運行で規定される宇宙の決まり――のようなものでしょうか。これまでの約200年間は〝土の時代〟で、産業革命以後の重商経済と思想対立が覇権を競う物質的な世界でした。2020年末にそれが過ぎ去り、今は私たちの目前に手探りのフロンティアが広がっているんです」
「確かに、大量消費の文明は行き詰まっていますが……」
「風の時代は、軽やかです。目に見えないもの――情報や知識が価値を持ち、理性とコミュニケーションが重んじられるようになるはずです。いいえ、宇宙は、人類がそのように進歩することを望んでいるのです」
篠原はその言葉に、純礼の真意を垣間見た気がした。そして、確かめずにはいられなかった。
「もしも人類が宇宙の意志に反したら……?」
「その時何が起きるか、わたしごときに汲み取ることはできません。でも、おそらくは世界的な大惨事が襲いかかるでしょう」
「その時あなたは、何をしますか?」
篠原の質問の真意は、『何をする気ですか?』だった。
篠原の意図は伝わったようだ。
「あなたこそ、風の時代にどんな世の中を作りたいですか?」
「その質問は、僕には大きすぎます」
純礼は穏やかな笑みを浮かべた。
「謙虚だこと。でも、あなたは謙虚じゃいけない。これほどの力を秘めているんですから。宇宙から与えられた魂なら、使命を果たさなければ」
「今は警察官の使命を果たすだけで精一杯です」
「それでも、きっといつかは気づくはず。あなたの魂が求めるものは、わたしと似ているみたいだから」
「僕は好奇心に振り回されている猫のようなものです。魂が何を求めているのか、そんなことは分かりません」
「自分を誤魔化す必要はないのよ」
「誤魔化しているわけでは……。あなたは、何に抗おうというのですか?」
「犯罪は社会が決めるもの。正邪は宇宙が決めるもの。この2つが一致しないことだって、あるんじゃないかしら? わたしはその時に、何をすべきかを決めます。あなたはその時、何を基準に判断を下すの?」
「僕があなたに寝返る、と?」
「今はまだ、気づいていないかも……いいえ、気づいているのに、気づかないふりをしているだけなのかも。でも必ず、覚醒の時は訪れます。次元上昇です。その時はきっと、同志になれると思うの。わたしは、その時を待つべきなのかもしれない」
「で、あなたの目的って……結局なんなのでしょう?」
「時が来れば……いいえ、その時はきっときます。わたしは、待てますから」そう言った純礼は、穏やかにほほえんで立ち上がる。「しばらく姿を消します。でも、探さないでね。これ以上死人を出したくなかったら」
「その前に、毛布ぐらいはかけてもらえませんか? 仲間たちに全裸姿を見られるのは、いかにも情けないですから」
そして純礼はケラケラと声を出して笑い、篠原に毛布をかぶせると服を着て部屋を出ていった。
※
クローゼットに隠れていた笠木が、銃を脇のホルスターに納めながら出てくる。
「恐ろしくぶっ飛んだ話でしたね」
篠原はぐったりと目をつぶっている。だが、明らかに楽しげに笑っていた。
「緊張しました……でも、エキサイティングでした」
笠木もまた、心ここに在らずという様子で惚けている。縛られた篠原の姿も目に入っていないようだった。
「彼女が超能力者だということが納得できました」
「僕がまだ研究者だったら、なんとしても研究対象にしたいものです。まるで、マクロ状態の量子的存在が目の前に生きているみたいでした」
「それ、なんのことかよく分かりませんが……」
「僕にも分からないです。だから調べたくなるんですが、調べ始めたらきっと戻って来れないでしょうね」
「どこに?」
「常識の世界に」
「それで研究をやめたんでしたね」
「せっかく意志を振り絞ってやめたのに、逃げ込んだ場所でこんな現象に遭遇するなんてね……」
「こうして生きていられるんだから、正しい決断ができたということでしょう」
「サイコロに感謝です。それにしても、1時間以上も、よく気づかれずにいられましたね」
「それも特戦群の実力ですから。あなたこそ、命を委ねて怖くなかったんですか?」
「直感に従ったまでです」
「いつ飛び出そうかと、緊張しっぱなしでした。2度もしくじったら、特戦群の名折れですから」
「お願いしたこととはいえ、よく我慢してくれました。こうでもしないと真実を引き出せないような気がしていたもので」
「必ずやってくるという確信があったんですか?」
「半々、ですかね。外れていたら、どう謝ろうかと悩んでいました」
「謝る必要はありませんよ。すでに色々と、得難い情報をいただいていますから」
「とはいえ、我慢を強いてしまいました」
「それは業務に含まれていますので、お気遣いなく。しかし、彼女をこのまま行かせていいんでしょうか? あれだけの自白があったのに。高山さんが録音もしていますよ」
「ですが、全ては朝比奈さんの自白に過ぎません。しかも、正統な手続きを踏んでもいない。限りなく濃い疑いはあっても、オカルトで公判を維持することはできません。たぶん、彼女自身もそれを知った上で来たんでしょう。そもそも彼女は、法律の埒外の存在ですから。力づくで拘束したところで、それ以上の力で逃げられるのがオチです。朝比奈さんが身につけた能力は極めて高度で危険です。その時はきっと、警察だけではなく民間人にも多大な犠牲が出るでしょう」
「証拠を残さない処理法はあります。任せていただけるなら」
「僕にはそんな判断を下す権限はありません」
「殺せと命じられていたのでは?」
「明確な言葉で指示されたわけではないので。もしも朝比奈さんを殺して後々問題化すれば、『現場の先走りだ』と言って僕が処分されます。トカゲの尻尾です。そんなのは不快ですから」
しかし笠木は真剣だ。
「権限はなくとも、あなたは正しい判断が下せる知性をお持ちだ。行政の高官などよりはるかに信頼できます」
「僕に判断を委ねると?」
「警察の上層部や政治家が信頼しきれないのは、自衛隊以上だと思いますが?」
「ですが朝比奈さんは、ここまであなた方のチームを翻弄した張本人ですよ。たった1人で軍隊並みの実力を備えています。たとえさっきあなたが飛び出してきたとしても、朝比奈さんは逃げ切ったと思います。そしてこの美しいホテルは、廃墟にされていたかもしれません」
「武器もなしに?」
「武器がないと確信できますか? 彼女はテロリストでもあります。予知能力があるんですから、あらかじめ隠しておくこともできるのでは? 一見無防備な全裸になれたのは、襲われても勝てると確信していたからなのかもしれません」
「確かに……被害を出さずに消去できる自信は、自分にもありませんね」
「さっきの会話も、録音されていることを知った上での発言だったかもしれません」
笠木が小さく息を呑む。
「まさか……日本政府を脅迫した……と?」
「下手に手出しができない状況にはなりました。まあ、様子を見ましょう。派手な事件は起きましたが、彼女自身が手を下したわけではありませんから。それに……本当の目的はなんなのか、今でも分からない。興味があるんです」
「それこそ、テロだったらどうするんですか?」
「それはないでしょう。テロ程度の事件なら、とっくに起こせてますから」
「説得力がありませんね」
「まあ、直感ですので。ただ、僕は自分の直感を信頼しています」
「そうであることを期待します」
「で、いつになったら枷を外していただけるんでしょう?」
笠木がようやく〝奇妙な状態〟に気づく。
「すぐ高山さんが来るでしょう」
そして笠木はスマホで連絡すると、コンバットナイフで篠原の足の縄を切り始める。
高山が部屋に来たのは、数分後だった。
部屋に入った高山は、明らかに面白がっている。
「朝比奈純礼が出ていったのを確認しました。総監への報告にちょっと手間取ってしまって……彼女への対応は、今、上が検討を始めています」
「朝比奈さんが真の黒幕であったことも知らせたんでしょう?」
「一応は」
「一応?」
「自白があったことは伝えました。録音データも送りました。だからこそ、混乱しているんでしょう。彼女に関わったお偉方がどれだけいるのか……それすらはっきり把握できていないようです。彼らがどんな弱みを握られているかとなると、調べる方法すらないでしょう。ですので、どう処理すべきかも、すぐには結論が出せないみたいです」
「新事実に慌てふためいている、ってことですね」
「俺もどうしていいものか、さっぱり分かりません」
「『なぜ殺さなかった』と責められませんでしたか?」
「まさか。口に出せることじゃないでしょう。俺だって、あなたがそんな命令を受けてただなんて、さっきまで知りませんでしたから」
「命令じゃありません。〝言外の要請〟という、お役人が得意な責任逃れの方便です」
「先走って処分していたら、もっと悲惨な結果を招いたかもしれませんしね」
「いつ爆発するか分からない爆弾ですから、さっさと他人に預けてしまうに限ります」
「ま、警察もお役所ですからね。〝責任のたらい回し〟は得意中の得意というか……。この先も時間をかけて稟議を繰り返して、コンセンサスを得てから朝比奈純礼の監視体制を構築する――って方向になるんでしょう。慌てて殺そうとしたって、失敗すれば事態を悪化させるだけですし。どんな隠し球を持ってるか分からないし、未来予知までできる相手なんですから……」
「朝比奈さんの能力、信じられましたか?」
「ここまで見せつけられたんじゃね……」
「本当のところ、僕にもどう対処すべきか思いつけません」
「それ、心配しなくていいと思いますよ。今後は、俺らはこの件から外されそうですから」
「こんな体たらくですから、やむを得ません。早く手錠を外して欲しいんですが」
高山がにやつく。
「もったいないな……」
「何がですか?」
「いや……あなたみたいな天才がこうもあっさり手球に取られるなんて……2度とみられないでしょうから」
「写真なんて取らないでくださいよ」
高山は、クリップを引き伸ばしたような短い針金を手錠に差し込んだ。
「それって、欲望を抑えるのに苦労しますよね……」
「毛布も取らないように」
高山が真顔に戻る。
「ちなみに、ゴルフ場の地下から大量の武器が発見されました。拳銃やら小銃やら手榴弾やら……全て中国製だということです」
「どう処理するんですか?」
「公には、お得意のガス爆発、ですかね。ただし、充分な物的証拠は押さえました。中国側に証拠を突きつけて、企業買収や土地取引の規制強化を強行するんでしょう。これまで立ち入れなかった〝治外法権地域〟への立入検査も要求できます。やる気さえ出せば使える切り札が警察の手に入ったということです」
「なかなかお手柄ですね」
「篠原さんの暴走のおかげで、ね」
「暴走はひどい言いようですね。一応は計算づくだったんですけど。倫理観が強過ぎてちょっとやり過ぎた――ぐらいに止めておいてください」
「でもこれ、評価高いですよ」
「でしたら、僕も降格されずに済むでしょうか?」
「たぶんね。とはいえ、これで良かったんですかね……?」
「何が?」
「危険な超能力者を野放しにして……」
「他にどうしろと?」
「俺は納得してますが、もしもこの先、彼女がテロ行為に走るようなことになれば責任を取らなくちゃなりません」
「民間人に害を及ぼすことはないでしょう」
「それも直感ですか?」
「理論的な帰結でもあります。事実、これだけの騒動を起こしながら被害を受けた民間人は皆無です。自分自身を危険に晒しながら、です。物的被害は相当ですが、そんなものは金で片づきます。慎重にコントロールしなければ、なかなかできることではありません。警察や自衛隊にも死人はいないでしょう?」
「研究所の前所長は?」
「あれはネクストチップスの暴走でしょう。朝比奈さん自身が驚いていましたから。朝比奈さんの本質は人殺しなんかではありませんよ」
「でも、あなたにさえ正体が掴めないんでしょう?」
「朝比奈さんが悪魔なのか天使なのか……はっきりするのはもうすこし先になるんだと思います」
笠木が言った。
「誰にとっての悪魔か、誰にとっての天使なのか……」
「それもまた、未知数です。善悪なんて、立場によって変わるものです。確かなのは、彼女がそのどちらにもなりうるということです。少なくとも、朝比奈さんは僕を敵とは認識していなかった。それは、どこか共通するものを感じたからでしょう。僕は今のところ、自分の直感に従って見守るだけです」
しかし篠原の脳裏には、「時を待つ」という純礼の言葉が消えずに渦巻いていた。
――了
【理系警視2】多重人格、咆哮。 岡 辰郎 @cathands
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