10・〝カップの9〟逆位置

 篠原が命じる。

「攻撃開始です」

 口火を切ったのは特攻車だった。

 ゴルフ場正門からクラブハウスへ向かう湾曲した登り坂を、一気に駆け上がる。

 しかし通路の両側には、多重の罠が仕掛けられていた。

 道路を包むように生い茂った巨木に、多くのクレイモア地雷が仕掛けられていた。まるでナイアガラ花火のように、特攻車の進行に同調して点火されていく。特攻車の側面に小さな、しかし無数の鉄球が叩きつけられる。

 絶え間ない爆発音が新緑の森に吸収されていった。

 防弾処理を施した特攻車の側面がたちまち傷つき、窓ガラスが一瞬で曇り、車体が揺さぶられる。

 クラブハウスまでのおよそ300メートルの間に、ボディのステルス塗料が剥げ、凸凹に変わっていく。そして、エントランスに突入する寸前、数発の小型ロケット砲を撃ち込まれた。

 特攻車のフロントガラスはひび割れ、エンジンも止まった。

 ロケット砲を発射したのは、エントランス前に整列していた5台の〝超小型〟の戦車だった。大型犬ほどのボリュームしかなさそうな戦車は、遠目にはリモコンの玩具のようにしか見えない。

 だが、そこからもたらされた破壊力は想像を超えていた。

 その姿は特攻車に複数配備されたカメラで捉えられ、敷地の外で待機する遊撃車のタブレットからも確認できた。直接目視はできない位置にあるので、頼りは車載カメラだけだ。

 しかし特攻車のカメラはすでに機能を消失し、画面にはノイズしか映っていない。

 それでも笠木は、タブレットから目が離せずにいた。

「なんだ、こいつ……PMCの新兵器か?」

 篠原は不安そうだ。

「特攻車は無事でしょうか⁉」

 笠木は呆然とつぶやく。

「カメラはやられました……室内まで焼かれたら、自動運転は無理かも……しかし、車内の武器庫までは被害が及ばない設計になっています。誘爆とかすると、被害が拡大しますから……」

 ミニ戦車のパワーに圧倒されているようだった。

 データはリアルタイムでシナバーの元へも送られている。

 カメラが破壊される寸前の映像を記憶していた篠原は、シナバーに尋ねた。

「シナバーさん、そっちに〝あれ〟の情報はありますか⁉」

 笠木も返事に聞き耳を立てている。

 オモチャのようなミニ戦車から撃ち出されたロケット弾が最新素材の特攻車を破壊できるとは、にわかに信じられなかったのだ。

 シナバーが叫ぶ。

『無人戦車! 悔しいけど、見逃していました』

「あなたでも⁉」

『操作系が独立してるようで……今、データを照合しています……ウソ! あれ、中国製です! 最近人民解放軍が配備したという陸上型ドローン!』

 篠原は動揺しなかった。

「武装は分かりますか⁉」

『正確なデータはないみたいだけど……無反動ロケット砲が2連、200発ぐらいの機銃弾カートリッジを装備しているようです』

 おそらく薬師寺は、その〝戦車〟を警備室から操作している。ドローンの総数が分からなければ、攻略法も絞りづらい。

「厄介ですね」

『あまり特殊なOSだとハッキングに時間がかかるかも……って、あれ? 中身はまんまネクストチップス製みたい!』

「中国製なのに⁉ どこの情報ですか?」

『アメリカの民間サイト』

「信頼できるんですか⁉」

『ペンタゴンが裏から情報提供しているみたい』

「了解。対処法は任せました。上空からの映像は見られますか?」

『クラブハウス裏を偵察に行ったドローンを玄関に回します』

「よろしく」

『特攻車の中は大丈夫ですか⁉』

「こっちは、通信が切れました。そちらは?」

『受信できません。やられたのがアンテナだけならいいんですが……』

「室内もそこそこ破壊されたようです。遠隔操縦はもう無理でしょう。ドローン戦車の操作は奪えそうですか?」

『今、試しています……でも、警備カメラを遮断しても動けるってことは、別系統の視覚センサーを持ってるはずです。それを潰せれば――ああ、でも、入り口が見つからない! クローズドシステム……これ、城の仕掛けです!』

 シナバーの言葉が終わる前に、先行して森の中に潜んでいた笠木の部下が動いた。

 ドローン戦車の前に、不意に黒い霧が湧き上がる。彼らが煙幕弾を投じてドローンの視界を物理的に封じたのだ。

 おそらく、デコイとなる熱源も同時に散布している。ドローン戦車が赤外線センサーを備えていても、AIは分析に手間取るはずだ。

 味方の小型偵察ドローンは、空中から周囲の状況を捉えていた。ドローンは特攻車の〝兵器庫〟に常備されていたもので、2機あった。それらをコントロールしていたのは、シナバーと組んだ特戦群の電子戦班だ。

 彼らもまた、遠く離れた研究所から〝模擬実戦訓練〟に参加している。

 と、タブレットに表示されたドローンの画像が激しく揺れる。

 シナバーが報告する。

『敵の飛行ドローンが体当たりしてきました!』

「至急もう1機を回してください。エントランスの情報が必要です!」

『了解! あ、敵のドローンと相打ちになりました。今、アロー・スリーが墜落した敵ドローンをカメラで捉えています……これ、やっぱり人民解放軍の装備ですね。薬師寺の武器はほとんど中国軍のもののようです』

 篠原はもはや驚きもしなかった。

「最初からクラブハウスに装備されていたわけですね」

『民生品とは仕様が違います。数も多いようです。実弾も装備されているんですから、そのゴルフ場を軍事基地みたいにしようとしていたのかも』

 笠木は手にしたタブレットで2機目が送ってくる映像を精査している。残念そうにうなずいた。

「中国資本に買われた土地は、治外法権化するのが普通です。それがゴルフ場なら、中国人専用にされることもあります。その中に軍用装備を備蓄されても排除しにくいのが現実です。一斉蜂起に備えていたと考えるべきですね」

 篠原も悔しさを隠せない。

「すでにそこまで侵食を……。しかし、ここが買い取られてからそんなに時間は経っていません。これだけの装備を簡単に持ち込めたのはなぜでしょう?」

「そもそも旧オーナーとの繋がりがあったのかもしれません。中国資本に身売りする経済人には、マネートラップやハニートラップでがんじがらめにされた者も少なくありませんから」

「だとしても、なぜ薬師寺がそれを使えるのでしょうか……」

「彼自身が中国軍とも組んでいたのか、ネクストチップスが人民解放軍と連携していたのか……無国籍企業なら、中国市場は無視できないものです。表向きはデカップリングが進んでいても、抜け道は温存しているかもしれません」

「なるほど、中国は内部分裂しているとはいえ、歴史的にも米国の支配層とべったりの上海閥がとかがありますしね……」

「むしろ裏取引の方が利益は上がるかもしれません。ドローン類の頭脳やノウハウも、ネクストチップスが積極的に提供していると考えるべきでしょう」

「厄介な時代ですね」

 笠木は不敵に笑う。

「特戦群としては、極めて有益な情報収集ができました。危険に見合う〝収益〟は上げられたということです」

 偵察ドローンがエントランス上空を旋回する。しかし周辺は煙幕に包まれ、細部が読み取りにくい。玄関正面のドローン戦車もはっきりと目視できない。

 と、画面に一瞬の変化が現れた。

 湧き上がる黒煙の中から、真っ黒な服装に身を包んだ隊員が素早く這い出る。まるで獲物に襲い掛かる巨大トカゲを思わせる動きだ。

 ドローン戦車の背後に素早く回り込んで、手にした泥らしいものをカメラに擦り付ける。そしてアンテナらしい突起にダブルクリップのようなものを挟み込んだ。

 隊員は飛び出す瞬間を冷静に測っていたのだ。

 チャンスが訪れるまで煙幕に身を隠してドローン戦車を観察し、その機能を細かく推定していたようだ。赤外線を遮断するポンチョを着ていた。

 それらの装備もすべて、特攻車に常備されていたものだ。

 笠木のヘッドセットに通信が入る。

「アロー・ツー。戦車1台視界遮断。アンテナに侵入路を設置。どうぞ」

「あの泥、何を使った?」

 ここ数日は雨は降ってないようで、地面はカラカラに乾いていたのだ。

「小便で捏ねました」

「勲章ものだな」

 シナバーの通話が割り込む。

『勲章に1票。これでドローン戦車のシステムに入れます! 数分ください!』

 アロー・ツーは短機関銃を構えて、そのままクラブハウスに突入していく。隙があれば薬師寺を殺害して構わないという暗黙の了解が出来上がっていた。

 クラブハウスの背後に回った朝倉からの連絡も入る。

『アロー・ワン、建物に侵入』

『同じくアロー・スリー、侵入――まずい! 室内に煙幕を張られました』

 篠原が決断する。

「我々も行きましょう」

 運転席の笠木が遊撃車を発車させる。

「エントランスまでの罠はもう排除できたでしょう。一気に突っ込みますよ」

「どうぞ!」

 遊撃車は路面に散った中国製クレイモア地雷の鉄球を跳ね飛ばしながら、クラブハウスへ向かう。

 シナバーが言った。

『エントランスの戦車は電子戦班が掌握しました! でも、室内に追加の戦車がいるみたい! そっちまで手が回りません! あ、1台コントロールを奪い返されました! 気をつけて!』

 薬師寺は警備室に立てこもって、全てのドローンを操作しているようだった。

 電子戦班の隊員は、その薬師寺と戦車のコントロールを奪い合っているのだ。それはまさに、サイバースペースでのツバ競り合いだった。

 と、不意の突風で煙幕が流されてエントランスの視界が開ける。

 そこに遊撃車が突入した。

 その先には、ロケット砲を装備したドローン戦車がいる。1台が砲身を遊撃車に向けていた。

 遊撃車には防弾機能が施されているとはいえ、純粋な兵器である特攻車よりは脆弱だ。ロケット弾の直撃を受ければ、おそらく1発で破壊される。

 笠木が咄嗟にハンドルを切った。車体が歪んで輝きを失った特攻車を盾にするように、進路を振る。

 同時に、ドローン戦車の1台が鋭く向きを変えた。

 遊撃車にロケット砲を向ける〝友軍〟に、機銃弾を打ち込んでいく。同士討ちだ。

 電子戦班が操作している。

 ほぼ同時にロケットが発射されたが、機銃弾の衝撃で射線がわずかにずれた。放たれたロケット弾は遊撃車の後部を掠めて森に消え、その先で爆発した。

 篠原が思わず叫ぶ。

「シナバーさん、ナイス!」

『その先、まだ戦車がいます。おそらく……5台! 掌握した戦車も視界不良! 赤外線センサーで探知続けます』

 と、エントランスから漏れ出る薄い煙が見えた。室内にも煙幕が充満しているようだ。

「薬師寺は1人で全部の戦車を操っているんですか⁉」

『らしいです。回線が切られる直前まで、他の人間は見えませんでしたから』

「さすが、超人ですね……」

『でもこっちはプロが10人。絶対勝てます! あたし、奪った戦車でクラブハウス内の状況把握を進めます!』

「お願いします!」

 室内の朝倉からの通信が入る。

『アロー・ワン、警備室に侵入! ……くそ! 無人です! 標的はすでに脱出した模様』

 シナバーが叫ぶ。

『警備室は危ない! 戦車がいます!』

 と、クラブハウスの奥から激しい銃声が聞こえた。ドローン戦車同士が撃ち合っているようだ。

 笠木が言った。

「アロー・ワン! 状況報告を!」一瞬の沈黙。笠木の表情に緊張が走る。「朝倉!」

 一瞬遅れて、朝倉の返信が入る。

『アロー・ワン、右上腕、軽度の負傷。銃弾は貫通、作戦行動に支障なし。……一瞬気を失いました。応急処置後に状況に復帰します。戦車の撃ち合いに巻き込まれましたが、シナバーさんに感謝です』

「即時脱出を。ロケット砲の使用も危惧される」

『了解』

 篠原は言った。

「薬師寺はどこへ……」そしてシナバーに問う。「ドローンは、警備室以外の場所からも操作できそうですか?」

『実際、中断なく操られています。最初から警備室とは別の操作系を使っていますので。対処法を考え直します』

「やはり複数のスキルを同時に使っていますね」

『厄介ですね……』

「薬師寺の位置は特定できませんか?」

『今、ドローン戦車の操作系を精査しています。それが分かれば特定可能かも』

 笠木が言った。

「自分も外に出ます」

「危険では?」

「部下が戦っているんですよ? 一刻も早く標的を発見しないと、逃げられかねません」

 と、黒づくめの隊員が身をかがめながら近づいてくる。アロー・ツーだ。

 笠木は車を出て部下に接近する。

 だがアロー・ツーは、いきなり笠木の首筋に何かを押し付けた。アーマーの隙間だ。

 笠木は一瞬驚いたような表情見せたが、その場にぐったり膝を突き、倒れた。

 アロー・ツーが運転席のドアを大きく引く。

 何が起きたのか分からないままの篠原の前に、顔を出す。そして、ゴーグルを外してフェイスガードを下げた。

 事件発生時に見せられた報告書にあった顔だ。

 薬師寺柾――。

 薬師寺は助手席の篠原に銃を突きつける。

「あなたが篠原さんですか。なんというしぶとさなんでしょうね」

 篠原がつぶやく。

「今のあなたは、薬師寺ですか?」

「他人の人格には興味がないのでね」

「で、なぜそんな格好を?」

「〝アロー・ツー〟を倒して奪ったんです。当然でしょう?」

 篠原は心底驚いていた。

「あなた……70歳近いですよね? なのに特戦群と戦えたんですか?」

「人格を吸収すると体の組成も変化することは知ってるんでしょう? 若返っているんですよ。しかも、人格を変えなくとも彼らの能力は使えます。今の私は、テロリストでありハッカーであり、騙し合いにも長けた詐欺師です」

 篠原の目が倒れた笠木に向かう。

「やはりね。まさに超能力ですね……」

「あ、そこの指揮官には、麻酔薬を打っただけです。アロー・ツーにも。量は適当ですが、特戦群の猛者なら死ぬことはないでしょう。それと、私の位置を割り出すのは困難ですよ。ドローンや戦車は、今は自動運転中ですから」

 と、篠原のヘッドセットにシナバーの声が入る。

『気をつけて! 標的は遊撃車のすぐ横!』

 篠原は両手を上げながらニヤリと笑った。

「聞こえましたか? 僕の仲間はもうあなたを発見しましたよ」

「どうやって⁉」

「さあ。しかし、有能なことは認めてやってください」

 薬師寺も肩をすくめる。

「確かに。そうでなければ、ここまで追い詰められるはずもありませんしね」そして車の奥を覗き込む。「朝比奈純礼さん、どこに隠したんですか?」

 車内には、篠原しかいない。

「さて、どこでしょう? それ、僕が教えると思いますか?」

「ならば、こうするしか――」

 薬師寺は車から離れ、腕を伸ばして篠原の額に銃口を向けた。

 狭い車内からでは、篠原に抵抗するすべはない。

 その瞬間だった。

 銃を構えた薬師寺の腕が何かに撥ね上げられた。反射的に撃った弾丸が車体に当たって火花を散らす。

 驚いた薬師寺が振り返る。

 そこには小銃を棍棒のように振り上げた高山がいた。

 薬師寺が高山に拳銃を向ける。

 高山は反射的に小銃を捨てて突進し、薬師寺の拳銃を真上から掴んだ。銃の種類を見極め、対処法を判断している。

 同時に射線を避けるように体を傾ける。

 たとえ耳元で1発目を撃たれても、スライドが押さえつけられた拳銃はジャミングを起こして次弾を発射できない。

 しかし薬師寺は、引き金を引けなかった。

 人間と顔を見合わせて対峙した瞬間、わずかなためらいが生まれたのだ。

 テロリストの人格を宿しているとはいえ、人を撃つには相当な慣れが必要だ。〝岩渕〟は爆弾には精通していたが、肉弾戦の実戦は乏しいようだった。

 対して高山は、所轄の刑事だ。暴力団のガサ入れに駆り出された経験も数知れない。組の〝鉄砲玉〟に向かい合った場合の逮捕術は、体に染み付いている。

 そのまま体を捻って薬師寺の体を倒す。

 高山は拳銃を薬師寺の手からむしり取ると、背後に投げ捨てた。

 だが転がって体を離した薬師寺は、すぐさま立ち上がって素手の格闘体制をとる。

 高山がうめく。

「ジジイのくせに……空手かよ」

「ジジイはお互い様。戦闘スキルはどうかな」

 薬師寺が突進する。

 高山はその腕を掴んで、軽くいなす。そして、薬師寺の頭を背後から掴んで遊撃者のボンネットに叩きつけた。

「空手対合気道。ドリームマッチだな」

 体を回して高山を振り切った薬師寺は、軽く頭を振る。

「くそ……貴様、どこに隠れてたんだ⁉」そして気づく。「突っ込んできた車か!」

 最初に突入した特攻車は、シナバーが研究所から遠隔操縦していた。

 特攻車には、大きな兵器庫が作り付けられている。そこは弾薬類の誘爆を防ぐために、最高度の断熱・防弾機能が付加されている。装備品の中には、化学兵器戦対策のガスマスクと酸素ボンベも準備されていた。

 つまり、移動する〝セーフハウス〟でもあったのだ。

 しかも中の兵器類は今、特戦群隊員たちが身につけている。空になった空間には、大人2人が余裕で横になれるスペースがあった。

 高山と純礼は、最初からそこに隠れていたのだ。

 高山の背後には、純礼が立っていた。

 純礼は薬師寺の〝最後〟を見届けようとしている。

 薬師寺の視線が純礼に向かう。

 高山がニヤリと笑う。

「行かせねえよ。ようやく、俺の出番なんだからな」

 その間に篠原も車を出ていた。拳銃を構えて薬師寺の背後に回り込む。

「薬師寺! 諦めなさい。僕はあなたを殺すように指示されています。しかし抵抗しなければ、撃ちはしません」

 薬師寺が声を上げて笑う。

「お役人の言葉を真に受けるほどナイーブな歳ではなくてね」

 そして、マジシャンのように〝光る何か〟を取り出す。素早くそれを口に入れた。

 金属製の〝牙〟だった。

 篠原がかすかにうなずく。

「それが吸血鬼の正体、ですか……」

「いつでも出せるように、袖口に隠し持っているんです」

「ですが、朝比奈さんに近づいたら撃ちますよ――」

 薬師寺はその言葉が終わるのを待たなかった。

 いきなり体を投げ出して姿勢を低くすると、高山に向かっていく。体を傾け、片手を地面に突いてさらに加速する。その姿はまるで、地を這うサソリのようだった。

 とうてい老人の動きだとは思えない。

 高山は体が大きすぎて、その俊敏さに追いつけなかった。

 薬師寺は高山の足元をすり抜け、純礼に肉薄する。

 しかし高山も必死に追いすがる。振り向きざまに背後から薬師寺の胴を抑え、寝技に持ち込む。うつ伏せに抑え込み、薬師寺の腕を背中にねじり上げた。高山の膝は、薬師寺の背中に食い込んでいる。

「抵抗すれば腕を折る!」

 しかし薬師寺のもう一方の腕は自由になっていた。その腕でいったん嵌めた金属の牙を外す。そして、鋭く牙を振った。

 その先には、呆然と立ち尽くす純礼がいた。

 牙が純礼のふくらはぎに刺さる。

 牙を抜いた薬師寺は、純礼の血がついた金属の歯を舐め上げた。そして不意に抵抗をやめた。

 高山の下で、薬師寺の力が抜けていく。

 高山は薬師寺を立たせ、背中に回した両腕をガッチリと掴んだ。遊撃車のボンネットに押し付ける。

「篠原さん、薬師寺を現行犯逮捕! 時間は午前5時……何分だ⁉ もうどうでもいいか。指示を!」

 しかし篠原は、拳銃をダランとぶら下げて放心していた。その目が、薬師寺に向けられれている。

 薬師寺は顔だけを上げて、篠原をにらみ付ける。

 篠原がつぶやく。

「吸収……したのか……? 朝比奈さんを……」

 高山も、薬師寺が満足そうに微笑んでいることに気づいた。

「なぜ笑える……?」

 薬師寺が言った。

「必要なのは、血液だけなんだよ。それも、ほんの数滴で充分。新鮮な、採取したばかりの血液を取り込めれば、人格もスキルも記憶も、全てが吸収できるんだ。条件さえ整えば、相手の人格を操作することだって可能だ」

 高山が背後から薬師寺の腕をねじり上げる。

「ふざけるな!」

 薬師寺は抵抗もしない。

 しかし篠原は緊張を隠せない。

「この人は……本当にそれができるんです。それは、徹底した科学的調査で証明されています。正真正銘の、化け物なんですよ……」

 そして篠原は、ゆっくりと拳銃を上げる。

 その意図に気づいた高山が叫ぶ。

「やめなさい! それはあんたの仕事じゃない!」

「だめなんです……たとえ僕じゃなくても、誰かがやらないと……。今、やらないと……。この化け物を生かしておく訳にはいかない……」

 と、薬師寺はかすかに身を震わせ始めた。笑っているようだった。震えは次第に大きくなっていく。 

 それを見る篠原の腕が再び下がっていく。代わって、その目に恐怖が浮かんでいく。

「どうしたんですか……」

 異常な姿だった。

 薬師寺はガタガタと震え始める。それはまるで、難病に脳を侵されて体の制御が効かなくなった患者の断末魔ようだった。もはや、笑ってはいない。

 高山が気味悪そうに腕を離す。

 薬師寺は立っていることすらできず、震えながら膝を折って地面に頭をつく。そして転がり、のけぞり、胸をかきむしった。

 薬師寺の表情が、山影から姿を見せた太陽の光に照らされる。

 その顔が、地下深くの墓から発掘されたミイラのように痩せ細っていく……。急速に、いや、爆発的に老いている……。

 皆が息を忘れる中、薬師寺は動きを止めた。

 明らかに、死んだのだ……。

 高山が退きながら、うめく。

「なんだよ……なんなんだよ……」

 その横に、足を引きずる純礼が立った。足の傷は浅いようだったが、顔面蒼白だった。

「天罰です。彼はきっと、欲張りすぎたんです。人の体は、何人もの人格を宿すようには作られてはいません。上澄みを掠め取るだけならともかく、全人格や記憶まで取り込むなんて、不可能なんです……」

 篠原がつぶやく。

「脳の容量を超えた……ということでしょうか……」

 しかしその視線は、陽の光を浴びた薬師寺の首元から離れることはなかった。

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