第28話 誘拐犯は冥王ハーデス

 その日――、加賀町警察地域課巡査・大野啓太は、いつものように巡回を終えて、山下町交番に帰ってきた。

 山下町交番は中華街・朝陽門近くにあり、県下屈指の繁忙交番である。

 この日も何事もなく、町は平和である。

 ただ、今年の夏は台風が猛威をふるった。

 七月、台風6号・台風7号が立て続けに東日本上陸し、八月には伊豆鳥島が噴火。さらに台風13号が接近し、東日本 ・西日本の太平洋側で大雨となった。この台風通過後は大幅に気温が下がり涼しくなったが一気に秋とはならず、八月終盤から残暑が厳しくなった。


「お疲れ様です。ハコ長」

 加賀町交番を預かる田所浩一警部補が、デスクから顔を上げた。

「ああ。ご苦労だったな」

 そう言った田所の表情は冴えない。

 大野が巡回に出るまでは、いつもと変わらず穏やかな顔をしていたのだが。

「なんか……、凄く疲れているように見えますが?」

「女を探してくれと依頼があってな」

「失踪ですか」

「いや、さらわれたらしい」

「はぁ!?」

 

 誘拐事件とは穏やかではない。

 だが田所は眉間に皺を刻んだまま、署に報告するでもなく、動こうとしない。

 この一時間前――、この交番にひとりの青年がやって来たという。

 青年は女性と同棲しており、青年が外から帰ってくると女性は家にはおらず、夜になっても帰ってこなかったという。

 

「捜索願いを出すようにと言ったんだが……」

「拐われた――、と言ったんですね?」

 

 警察に捜索願いを出し、特異行方不明者(誘拐の恐れがある場合や、子供や老人など、一人で生活していくのが困難だと判断された人)と認定されれば、ただちに捜索が開始されるが、特に事件性がない場合には、一般家出人に分類され、警察が特別に捜索に乗り出すということはない。

 なにを根拠に拐われたのかと聞くと、青年は拐われたと訴えるだけだったらしい。

 なんでもそのやり取りが、十分近くも続いたらしい。

 しかしこういうやり取りは珍しくはなく、大野はそんなことがあったことを忘れていた。

 二十二年の歳月が経ち、彼自身が交番所長ハコ長となるまでは――。

 

               ◆


 加賀町警察署は神奈川県下で、最も歴史の古い警察署の一つである。

 管轄区域内は神奈川県庁をはじめ横浜市役所、中区役所、横浜地方裁判所、横浜地方検察庁や、警察本部を含む多くの官公庁舎及び企業ビルディングなど、日本有数のオフィス街である一方、横浜スタジアムや横浜中華街、山下公園、元町商店街などの遊興、観光スポットの一面もみせる。

 管轄範囲は狭く、管内居住人口は県下各署に比べて少ないものの、労働人口及び観光客等の来訪により昼間帯の人口過密が著しいが、国際都市・横浜」の中心部の治安を担っている。

 

 そんな加賀町警察署に中区ビジネスホテルで起きた本郷幸恵殺人事件と、山下公園・大桟橋付近で殺害されたホームレス殺害事件の捜査本部が立ったのは、三週間前のことだった。

 事件の指揮を任された神奈川県警捜査一課管理官・新庄宗一郎のその日の心境は、穏やかではなかった。

 朝――、山手町の空き地から白骨遺体が発見されたらしいと、彼は一課の捜査員から報告を受けた。

 なんでも特殊捜査班が追っている本郷孝宏殺害事件の捜査中に、白骨遺体が発見されたらしい。

 もはや、特殊捜査班の手におえる案件ではない。

 新庄はそう思っていた。

 

 なのにだ。

 捜査一課長・浦戸一は、特殊捜査班に捜査の続行を命じた。

 なぜ、あの窓際部署が重要な捜査に関わってくるのか、どうして一課長は彼らを必要とするのか、新庄には全く理解できなかった。

 いや一課長だけではない。

 本部長が直に科研から引き抜いた、天城宿禰は最も気に入らない。

 浦戸は言う。


 ――特殊捜査班の連中は、皆はただの窓際部署だと思っているだろう。だが、彼らには彼らの役割がある。彼らが持つ視点は、我々が見逃すかもしれない部分を捉えるかも知れん。


 新庄は唇を噛み締め、窓の外を睨んだ。

 彼にとって特殊捜査班という存在は、邪魔以外のなんでもなかった。


                ◆◆◆


 この日の空は、夏特有の澄み切った青だった。

 だが天城の心は、靄がかかったようにはっきりしない。

 科研の鑑定によると――、例の空き地から出てきた白骨遺体は女性で、死後十年以上は経過しているという。

 もしその女性の関係者が捜索願いを出しているならば、署内にまだあるはずだと思った天城は、さっそく調べた。

 十年以上までに姿を消し、A・Yのイニシャルをもつ女性を――。

 そして、その女性の捜索願いはあった。

 

 当時最初の訴えを聞いたのは、加賀町警察署山下町の大野啓太巡査だという。

 山下町交番に消えた恋人を求めてやって来た青年の名は、霧島五郎――。

 あの“乙女座ヴァルゴの真実”を描いた画家である。

 彼は捜索願いを提出するとき、係員に「誘拐犯は冥王ハーデスです」と言っていた。

 係員は彼女が消えたことで興奮し、意味不明なことを口走っているのだろうと思ったようだ。

 大野啓太巡査は現在、山下町交番の所長となっていた。

 

 

 白い雲が風に流され、陽光が鮮やかに門の赤い装飾を照らしている。

 横浜中華街の入り口である朝陽門は、観光客や地元の人々が行き交う街の守り神のように立ち続けている。

 その門を見上げると、金色の文字がきらめき、周囲の喧騒を静かに見守っていた。

 朝の光に照らされた門は、どこか神秘的で、力強いエネルギーを放っていた。

 周囲に広がる中華街の店々からは、朝早くから準備が進む音や、厨房から立ち上る香ばしい香りが漂ってくる。

 点心を蒸す湯気が空気に混じり、まるでこの街自体が息をしているかのようだった。

 

「あの時――、あの青年が探していた彼女は殺されていたんですか……」

 大野に白骨遺体が見つかり、二十二前に消えた天宮燁子という女性だと伝えると、彼は深い溜め息をついた。

「彼女を殺害し、遺棄した犯人はわかりません」

「天城さん……、もし警察が青年の訴えを聞いていれば、結果は変わっていたんでしょうか?」

 大野はそう語る。

 警察に届けられる、失踪者の捜索願は膨大である。

 警察というところは、事件性がない動かない。

 民事不介入、である。

 だが、警察が民事不介入を理由に動かなかったことが原因で、今回のような殺人事件を含む刑事事件に発展するケースが起きた。 


 彼女はどんな思いで、土の下にいたのだろう。

 暗く湿った土の中、誰にも知られずに埋められた彼女の体。

 過去の残酷な出来事の名残として、その身体は静かに白骨化していく。

 土は冷たく、重く、その上に月明かりが射し込むこともない。表面からはまるで何もなかったかのように見えるが、地下では時間とともに遺体が分解され、かつては血が通っていた肉が朽ち、やがて白い骨だけが残される。人々の記憶から消え去るほどに、彼女の存在も土に飲み込まれ、風化していく。

 白骨化した遺体は、もう何も語ることはない。生前に感じた痛みや恐怖、そして最後の瞬間の孤独も、全ては過去のものとなった。

 だが、骨は黙っていながらも、真実を秘め続けている。

 ここにいるのだと、訴え続けていた。

 それが、A・Yとイニシャルが彫られたリングだ。

 リングに宿った彼女の念と記憶は、確かに天城に伝わった。

 

 霧島五郎は、わかっていたのだろうか。

 彼女がもう、死んでいることを。

乙女座ヴァルゴの真実”に込めた想い――、彼女は冥府にいる。拐われて、冥府の人間になった。そして彼女は待っている。その闇から解き放たれることを。


 誘拐犯は冥王ハーデス――、霧島五郎がいう冥王ハーデスとは誰のことだったのか。

 さすがにかの空き地で、二十年も前の犯人の痕跡を探すことは難しいだろう。

 ただ、本郷孝宏殺害の物的証拠は発見された。

 本郷孝宏の血がついたガラス片が、草むらに落ちていたのである。

 それは犯人が間違いなく、その場を通ったという証明であった。 

  

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特殊捜査官・天城宿禰の事件簿~乙女の告発 斑鳩陽菜 @ikaruga2019

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