第27話 闇からの訴え

 午後七時、画廊『ETERNAL』――。

 戸締まりをし終えて、『ETERNAL』オーナー・正院玲二は一人、暗くなった店内に残った。

 日中の喧騒が嘘のように、画廊は静まり返っている。

 壁に飾られた作品たちも、まるで安らかに眠りにつくように、静かにその存在を漂わせていた。

 

 彼が画廊を開くきっかけは、偶然のようでいて運命的な出来事だった。

 彼は大学では経済を専攻し、卒業後はごく普通の企業に就職した。

 その変化が訪れたのは、休日に立ち寄った小さなカフェでのことだった。カフェの一角にある壁には、地元のアマチュア画家の作品が数点飾られていた。その中の一枚の絵が彼の目に留まった。

 絵の作者は、霧島五郎――。

 風景画を専門としていた彼が、唯一描いた人物画。

 その絵は現在、彼の画廊『ETERNAL』にある。



 黒い背景の中で、一人の女性が上を見上げている。

 彼女の周りはまるで光がすべて吸い込まれてしまったかのように、暗闇に包まれていた。暗黒の舞台に彼女だけが浮かび上がり、全てが静止したように感じられる。

 その目は悲しげで、言葉にできない何かを訴えかけている。

 頬にはかすかな涙の跡があり、薄く開かられた唇が今にも何かを言おうとしている。

 絵はギリシャ神話の、ペルセフォーネを描いたものだという。

 大地の女神デーメーテールの娘として生まれ、光あふれる世界で育ったペルセフォーネ。そんな彼女を冥府の王ハーデスが見初め、冥府へ連れ去った。


 黒い背景は冥府の闇を象徴しているのかもしれない。

 突然冥府に連れてこられたペルセフォーネ。光が届かぬ世界に囚われた彼女の悲しみを、この絵は表現しているのだ。

 失われた光、抑え込まれた感情、残酷な運命――、黒い背景にはそんな意味もあるのだろう。


 彼女の両手は強く握られている。

 まるで何かに祈っているかのように。

 いつか光の世界に帰れることへの祈りか、それとも自分がここにいることを母に伝えているか、絵の上部が微かに明るく塗られており、それは希望を意味しているのかも知れない。

 彼女がいつまでも、闇の中でいないという暗示――。

 実際ペルセフォーネは、地上へ帰っている。

 冥府の主とはなってしまったが、彼女は母デーメーテールと再会を果たすのだ。

 この絵に出会ったことは、正院にとって運命というしかなかった。

 

 絵のタイトルは“乙女座ヴァルゴの真実”――。

 作者の霧島五郎がなぜ、風景画ではなく、この絵を描いたのか。

 生涯において、たった一つだけ描いた人物画。

 その意味を正院が知ったのは、絵を購入して間もなくの頃だ。

 彼は思った。

 これはこそ、やらねばならぬ使命だ――と。

 そして彼は、ある計画を立てた。


「もうすぐ、真実が明らかになります」


 絵に向かい、正院はそう呟いた。


                    ◆


 県警本部七階の休憩スペース――、天城は周囲の喧騒から少し離れた場所で週刊誌を手に取り、ゆっくりとページをめくる。

 

 天城は有名人のゴシップネタには関心はなく、この手の週刊誌は読まない。

 だがこういう記事が売れるのか、各紙は挙ってその人間の裏の顔を暴き始める。

 しかし今回ターゲットにされたのは、本郷孝宏だった。

 

 本郷孝宏は、トラブルメーカーとして知られていた。美術界で多くの敵を作り、何度も論争の中心に立たされた存在だったようだ。

 彼の美術品に対する評価は、作品の市場価値にも大きな影響を与え、美術界の中で絶大な影響力を持っていた。

 しかし、その鋭い批評や高圧的な態度は、多くの人々の反感を買い、特に一部のアーティストや画廊ーオーナーからは「目の上のたんこぶ」として嫌われていた。

 本郷は多くの新進気鋭のアーティストを「才能がない」と公然と批判し、彼らのキャリアを事実上終わらせた例も多々あったという。

 あるアーティストは、彼の評論が原因で重要な展覧会から外され、精神的に追い詰められていたという噂もあるようだ。

 

 一部の画廊ーオーナーは、本郷が自分たちの取り扱う作品をこき下ろしたために、その価値が大幅に下がり、経済的に大きな損失を被ったと主張している。中には、経営が立ち行かなくなったギャラリーもあるらしい。

 彼が殺害された事件は、誰が犯人でもおかしくないほど、多くの人々に恨まれていた。

 死者に鞭打つわけではないが、記事の内容は本郷氏の仮面を剥がし始めた。

 本郷氏の存命中はは彼を恐れ、誰もが口を閉ざしていたのだろう。

 だが天城には亡き本郷氏の評価よりも、引っかかることがあった。

 

 この三日前――、天城は再び例の空き地を訪れた。

 築地と最初にかの地に足を踏み入れた時、二つの誰かの念が天城の中に流れ込んできた。

 誰かの念があるということは、そこに何かがあるということだ。

 モノは嘘はつかない――、天城のこの信念は現在も揺らいではいない。



「――見落としていたモノ……?」

 特殊捜査班長・神崎が瞠目した。

「あの場所あきちに、何かがあります」

 天城は特殊捜査班の面々には、本郷邸から先にあった空き地の存在を伝えていた。

「お前の推理では、本郷氏を殺害した被疑者がその場所を行き来した――、だったな?天城」

「ええ。ですが、物証は見つかっていません」

 

 なにかある――、というのは、あくまで天城の勘だ。

 しかし最終的に、物的証拠が事件の決め手となるのだ。

 天城の特殊能力は、そこに至るプロセスに過ぎない。

「捜査するのはいいが――」

 そう言った神埼の額に、皺が刻まれる。

  

 現場検証をするとなると、強制捜査になる。

 強制捜査とは、相手の同意がなくても強制的に捜査目的を達することができる処分のことで、刑事訴訟法には逮捕、勾留、捜索・差し押さえ、検証などが規定されている。

 その中で検証とは、刑事訴訟法において場所・物・人の身体につき、その存在・内容・形状・性質等を認識する強制処分である。

 

 検証には、裁判所が行うものと、捜査機関が行うものとがあり、裁判所の行う検証においては令状は必要とされていないが、捜査機関の行う検証については、裁判所の検証許可状が必要とされているのである。

 つまり警察だけで勝手に強制捜査は出来ない。

 神埼はすぐに、浦戸一捜査一課長に現場検証の許可を求めに行った。

 裁判所から令状が下りたのは、数時間後のことだった。

  

                  ◆◆◆


 横浜山手町に、本郷邸を含む高級住宅街が出来たのは今から五十年ぐらい前のことだという。その当時から、この場所はあったのだろう。

 坂の上の広い空き地――、住宅街の人間に認知されるされることはなく、一面を雑草が覆っていた。

 静かにそして確実に、繁殖を繰り返してきた彼らだが、その行為に今、終止符が打たれつつあった。

 

「やはりずいぶんと、手間のかかりそうな場所だな……」

 天城の横で、神崎が呟いた。

「捜査しないことには――と言ったのは班長では?」

「それはそうだが……」

 

 捜査と言っても、ここで見つかったのは、犯人のモノもわからぬ万年筆一本だけである。

 これに指紋なりDNAなり付着していればよかったが、そのどちらないことが、解けそうな謎をややこしくした。

 

 雑草は、風が吹くたびにゆらりと揺れた。

 現場検証のため、数名の鑑識班が古澤を先頭に、注意深く足を運び始めた。

 雑草をかき分け、わずかな手がかりを探そうとするが、自然のカムフラージュに隠された痕跡は、容易には見つからない。

 足元で乾いた枝が折れる音が響き、静かな空き地に不気味な音がこだました。

 鑑識作業はこういう場所では特に慎重にならざるを得ない。

 何かを見落とせば、それが重大な証拠になるかもしれないからだ。

 裏道へ降りる石段へ向かうルートを推測し、一部の草が刈られる。

 

 天城は、何かがここに眠っているという直感を振り払うことができなかった。

 本郷氏を殺害した犯人が通ったかも知れないという推理と、不自然に転がっていた万年筆――、まるで犯人からの挑戦状のようだ。


 しばらくすると、古澤が手を上げて天城たちを呼んだ。

 何かが発見されたらしい。

「なんだってこんなモノが……」

 それは、シンプルな銀のイニシャルリングだった。

 土に埋もれる形で、発見されたという。

 土に埋もれていたにもかかわらず、光沢はほとんど失われておらず、まるで誰かの想いを閉じ込めたかのように輝いていた。

 リングの内側には、緻密に刻まれた「A・Y」のイニシャルが浮かび上がっていた。

 途端――、天城の脳内に誰かの念が流れ込んできた。

 念は記憶を呼び、天城の脳内で映像となって再生される。

 


 草が茂る空き地――、男が二人、地面を見下ろしている。

 土を掘る男と、それを見守るもう一人の男――。

 天城に伝わる念は悲しみと絶望、声なき訴え――。

 


 天城の胸の奥に、ずっしりとした不安が渦巻いていた。

 それは単なる推理や経験から来るものではなく、もっと本能的な何かだった。

 こういう時には、いつも同じ感覚が背筋を走るのだ。

「班長」

「どうした? 天城」

 神崎が眉を寄せた。

「いますぐ、この場所を掘ってください」

「え……」

「早く!!」

 天城の剣幕に、神崎は古澤たちを動かした。


「――これは……!」

 土の中から出てきたものを見た面々は、一様に絶句した。

「おいおい……、何故こうも謎が増える?」

 嘆く神埼だが、その顔は複雑そうだ。

 土の下から出てきたのは、白骨化した誰かの遺体だった。

 

 姿を現した白骨は、まるで静かに永い眠りから目覚めたかのように見えた。

 濡れた土がその周囲にまとわりつき、掘り返された泥が徐々に白い輪郭を露わにしていく。天城は、しばらくその光景に息を呑んだまま動けなかった。

 骨は驚くほど完璧な形を保っていた。

 何年、いや何十年もの間、この場所で静かに土に埋もれていたのだろう。だがその冷たく白い色は、時の流れと無縁のように思えた。

 頭蓋骨が土の中から最初に現れ、その後、細長い腕の骨や背骨が徐々に現れていった。掘り進めるたびに、まるで過去の亡霊が息を吹き返すように、ひとつひとつの骨が繋がり始める。

 

 天城は、足元の土を見下ろした。

 天城に伝えてきた念の持ち主は、この白骨遺体だろう。

 ここに埋められたこの人は、どれほどの絶望の中でこの地に還されたのだろうか。

 無数の雨が降り注ぎ、風が吹き、季節が移ろいながらも、誰にも発見されることなく、静かに埋もれていた白骨――。

 その姿は語ることはないが、無言の訴えが天城の心に刺さった。


 事件になることもなく、また弔われることもなく、この白骨遺体は暗闇の中で眠り続けた。

 ようやく出られた光の世界は、その窪んだ目にどう映るのだろうか。

 天城としては、本郷氏を殺害した犯人の物証を探すつもりが、過去の事件まで掘り起こしたようだ。

 それでも地を覆う草は、何事もなかったように風に吹かれていた。 

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