第26話 横浜メモリーズ


 この国で商売繁盛の神で有名なのは、お稲荷さんでおなじみの宇迦之御魂神うかのみたまのかみだが、横浜中華街ならば、関帝廟の関帝だろう。

 三国志の関羽といえば、わかるだろうか。

 関帝廟は中華街にある祠のことである。

 

 神社仏閣ではないが、横浜にはキングの塔・クイーンの塔・ジャックの塔があり、この三塔を同時に見ることのできるスポットを全て回ると願いが叶うという伝説がある。

 ちなみにキングの塔は神奈川県庁本庁舎の塔で、クィーンの塔は横浜税関の建物にある塔、ジャックの塔は横浜市開港記念会館の塔をいう。

 いずれもみなとみらい線日本大通り駅から徒歩10分以内の場所にあり、現在、横浜三塔が一度に見渡せるビュースポットとして認知されているのは、赤レンガ倉庫、神奈川県庁・日本大通り、大桟橋国際客船ターミナルの三箇所だという。

 


 神奈川県警刑事部捜査一課・特殊捜査班――、巡査部長・築地圭介の軽口はこの日も朝から快調だった。

「お前……、そういうことには詳しいな……」

 事件資料を捲っていた警部補・明石倫也が、渋面で顔を上げた。

「お勧めのデートコースもバッチリなんで、なんでも聞いて下さい」

 横浜生まれの横浜育ちという彼は、胸を張った。

 

「いや……、いい」

「どうしてですかぁ? まさか……、?」

 これに明石が渋面になった。

というな、と」

「先輩……、今度はなにが原因なんです? 確か以前は、彼女があとで食べようと冷蔵庫にしまってあったケーキを先輩が食べて――、口論の末に、さよならでしたっけ?」

 どうやら明石には、失恋経験があるらしい。

「……頼むから、いい加減に俺の失恋話は忘れろ……」

 堂々と暴露される側としては複雑だろう。

 明石の目が据わっていた。


 そんな特殊捜査班の部屋で、天城宿禰はデスクに腰を深く沈めたまま、書類の山をぼんやりと眺めていた。

 殺害された本郷孝宏は、トラブルが多い人物だった。それゆえに恨んでいそうな人間も多かったが、犯人ではない。

 本郷氏を殺害した犯人は実に頭がよく、土地勘のある人間だ。

 そしてその人物は、本郷氏に警戒されることにない人間――。

 さらに本郷氏は、誰かから脅迫されていた。

 その誰かは、本郷氏を殺害した人物と同一人物か否か――。


「神埼班長、行ってみたい所があるのですが――」

 天城の申し出に、ホワイトボードを睨んでいた神崎が振り向いた。

「捜査か?」

「ええ。モノの声を聞きに」

 モノの声を聞きに――、普通こう言えば「何をとぼけた事を言っている」と叱責されるだろうが、天城はモノに宿った人の念と記憶から、事件を読み解く特殊捜査官である。

 神埼は迷わず天城の外出を許可し、明石が天城に同行することになった。


 ◆ 


 晩夏の横浜市内は、昼の暑さが少しずつ和らぎ、日が傾くにつれて柔らかな風が街を包み始めていた。港の方から潮の香りがほのかに漂い、街路樹の葉が風に揺れている。

 赤レンガ倉庫近くの広場では、観光客や地元の人々がゆったりと散歩をしている。

 天城を乗せたセダンは、馬車道方面に向かっていた。

 馬車道は、神奈川県横浜市中区にある地域名および道路名である。

 馬車道の名称は、市民に定着した伝統的な通称としての地域名称であり、商店街の名称であるが、行政上の正式な町名ではない。

 関内の桜木町寄りに位置するこの道路は、幕末に開港したことから始まる。幕府は神奈川を開港させ、「吉田橋」に関門を設けた。その初めにできた関門に開港場側から至る道が馬車道である。

 そんな馬車道の通りは煉瓦で舗装された道や、実際にガスを燃やしているガス灯の街路灯など、当時の面影を感じさせる物が設置されており、通りの両側には、モダンなカフェやレストラン、アンティークショップが軒を連ねており、古さと新しさが絶妙に混ざり合った風景が広がっている。

 天城たちが向かおうとしている場所は、そんな馬車道にある。

 

「ここか? 天城」

 明石が振り返った。

「ええ」

 二人の前には、老舗の万年筆専門店・宝永堂がある。

 外観は歴史を感じさせる重厚な石造りの建物で、入り口には美しい真鍮の取っ手が付いた木製の扉があり、ガラス窓には繊細なデザインのロゴが描かれていた。

 店先には控えめな看板があり、時代を超えて愛されてきたことがうかがえる。

 店内に足を踏み入れると、上質な木材でできた棚やカウンターが並び、アンティークな照明が温かい光を放っている。

 天井は高く、棚には所狭しと並べられた万年筆が並び、各国の名品やオリジナルの品が一目でわかるように美しくディスプレイされており、ガラスケースには、希少な限定品やヴィンテージ万年筆が展示され、まるで宝石のように輝いていた。

「外を歩き回る捜査員おれたちには、縁遠い代物だな……」

 明石が嘆息した。


「いらっしゃいませ。ご所望の物はお決まりでございますか?」

 店主らしき男が、そう言って近づいてくる。

 明石が警察手帳を開いた。

「いえ――、我々はこういう者です」

「これは失礼致しました」

「実は、これなんですが――」

 天城はビニール袋に入った万年筆を店主に見せた。

「それは当店で販売しております、五十セット限定の品でございます」

「顧客名簿を拝見できますか?」

 これに、店主は難色を示した。

 客のプライバシーに関わることだからという。

 事件捜査のため協力を乞うと、店主は渋々応じた。


 限定モデルの万年筆を購入した人物は、五人いた。

 一人は大手薬剤会社に勤務するという海野浩、二人目は鎌倉の資産家・北条直人、三人目は女性で画廊オーナ・杉浦 真由美、四人目は在日カナダ人・ロバート・アンダーソン、そして五人目の名前を天城が見たとき、思わず瞠目した。

 画廊『ETERNAL』のオーナー、正院玲二が、その五人目だったからだ。

 

「すみません。この方ですが――」

 天城が店主に確認した。

「ああ、この先にある画廊のオーナーでございますね。ある方の誕生日にプレゼントしたいと二つ、御購入されましたが?」

「おい、天城。確か正院って――」

 明石も、天城と同じことを思ったのだろう。

 天城が導き出した犯人像は身長一メートル七十以上で、眼鏡をかけている人物である。

 正院はこれらの条件に当てはまり、事件当夜のアリバイはないにも等しい。

 だが正院が本郷氏殺害の犯人なら、なぜ指紋のない万年筆をあの斜面に置いたのか。

 万年筆があった場所は、人気が皆無だ。

 よほど注意深く歩かなければ、万年筆には気づかない。

 この奇妙な行為は、なにを意味しているのか。

 モノの念を読む能力に長けた天城でも、人の心理を読むことは難しかった。

 

 ◆◆◆


 時間は、午前十一時を過ぎていた。

 天城は横浜港を一望する、港の見える丘公園にあるベンチに腰を下ろした。

 山下公園と並ぶ横浜観光地の公園で、この時間は静寂に包まれ、まだ夏の残り香を感じさせる穏やかな風が木々の間をすり抜けていく。

 丘の頂上に立つと、遠くに広がる港が視界に入り、本牧埠頭ほんもくふとうA突堤とってい大黒埠頭だいこくふとうとを結ぶ横浜ベイブリッジがそこから見える。

 明石がコンビニの袋を手にやって来た。

「焼きそばパンと鮭のおにぎり、コーラーと缶コーヒーがあるが、どれがいい?」

「俺は残ったやつでいいですよ」

 明石は「そうか」と言って、焼きそばパンとコーラーを選んだ。 

 目の前の海を、大桟橋国際客船ターミナルから出港したクルーズ船、飛鳥Ⅱが通っていく。

「お前――、正院が真犯人ホンボシだと思うか?」

 明石が天城の隣に腰を下ろし、そう聞いてくる。

「彼には、本郷氏殺害に至る動機がありません」

「突発的、ってこともあるんじゃないのか?」

「ならば犯人はどうして誰にも見つからずに本郷邸にやって来たんです? 殺す目的で来なければそうはなりません」


 正院の画廊『ETERNAL』へ行ってみたが『CLOSE』の札が下がっていた。

 果たして彼が、犯人なのか。

 天城の視界に捉えられる、横浜ベイブリッジ――。

 青空の下で、その堂々たる姿を広げていた。

 真っ青な空とキラキラと光る海面の間に、白い橋桁がまっすぐに伸び、まるで空と海を繋いでいるかのようだ。

 どこまでも澄んだ空の中、橋はまるで何事もなく自然の一部となっているが、その存在感はひときわ強い。長大なケーブルが優美な曲線を描き、横浜のランドスケープに力強さと美しさを与えていた。

 その橋を渡って、人々はどんな想いを運んでくるのか。

 

 乾いた風が彼の髪を揺らし、目の前を通り過ぎていくが、彼の心の中は風が届かないような重く静かな闇が広がっていた。

 彼の手にはスマートフォンが握られているが、その画面は暗いままだ。

 連絡を待っているわけでもないし、誰かに相談できるような状況でもない。ただ、心に抱えた葛藤と向き合う時間が、重く彼の肩にのしかかっていた。

 彼は改めて、亡き父を想う。

 県警捜査一課の刑事だった彼の父、天城慈音――。

 息子に笑いかけるその一方で、事件に悩んでいたのかも知れない。 

 自分は警察官ではないと言いながらも、天城は捜査一課・特殊捜査班の一員なのだ。


 彼は静かに顔を上げた。

 青空が広がるその空間に、一瞬だけ心の中の霧が晴れるような感覚がある。

 答えはまだ見つからないが、歩みを止めるわけにはいかない。

 天城は立ち上がった。

 解決には程遠いかもしれないが、彼の歩みは少しだけ軽くなっていた。

 風が彼の背中を優しく押してくる。

 前へ進めと、促しているかのようだった。 

 

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