第25話 はだかの王様
その日も、男は空き缶を拾っていた。
空き缶を売れば、現金に替わるからだ。
まだ陽の上がらぬ早朝からアルミ缶集めをし、それを売ることによって現金収入を得る。
それが――、ホームレスとなった男の、収入源だった。
路上生活者は、「
集めたアルミ缶は買い取り業者に売ると、最低価格が一キロ八十五円、最高価格が一キロ一〇五円である。
アルミ缶を十キロ拾い集めれば、最低価格でも八五〇円の収入となる。
「シャチョウ、一杯やらねぇか?」
ホームレス仲間が、帰ってきた男を自分のテントに誘う。
シャチョウというのは、ここでの彼の名前だ。
どうやら向こうは酒盛りができるほどの収入があったようだ。
――どいつこいつも、俺を虚仮にしおって……!
彼は返事の代わりに、そのテントを睨みつけた。
視線を流せば、横浜ランドマークタワーが見えた。
横浜随一の、高層ビル――。
かつて自分はあそこにいたのだ。街を遥か下に見下ろす最上階のオフィスに――。
それが今や、薄汚れたジャケットに身を包み、路上で夜を明かすようになっていた。
かつての彼は、大企業の社長として成功を収め、多くの人々から尊敬されていた。
しかしある日、彼は全てを失った。
地位も、家も、財産も、そして信頼も、何もかもが彼の手からこぼれ落ちた。
それからの彼の財産は、夜空を見上げることができる一枚の古びた毛布と、寝場所は冷たいコンクリートの地面だった。
すべてを失いながら彼は、社長としての思い出が忘れられない。
オフィスから見下ろす横浜の街は、実に壮観だった。
もともとプライドが高く、それでいて一度欲しいと思うと、手に入れられずにはいられない性格をしていた。
「俺は社長だったのだ」
彼はホームレスたちにそういった。
だが言えば言うほど惨めになる。
一日で数百万稼いでいた自分が、今は一キロ八十五円稼ぐのに四苦八苦だ。
――あいつのせいだ……。あいつが、俺を狂わせた……。
ホームレスから『シャチョウ』と呼ばれる彼は、自身のテントで唇を噛み締めた。
その胸のうちに、深い憎しみを燃やしながら――。
◆
神奈川県警本部から徒歩県内に、『Mary Poppins』という喫茶店があるという。
捜査一課特殊捜査班特殊捜査官・天城宿禰は、この喫茶店に向かっていた。
三係警部補・綱島左門に、電話で呼び出されたためだ。
県警本部と同じ地区であるため行くことに苦ではないが、結局、他所の事件にまで関わることになり、天城の気は重かった。
その喫茶店はその名の通り、傘を手にした女性のシルエットが描かれた看板が入り口に吊され、一歩足を踏み入れると、まるで別世界に迷い込んだかのような感覚に襲われた。
店内は木のぬくもりに包まれた温かい空間で、壁には手作りの小物やアンティークの時計が置かれている。
流れているBGMは、ミュージカル映画『メリー・ポピンズ』の劇中歌、チム・チム・チェリーだ。
客は十代から二十代の女性が殆どで、間もなく還暦という綱島左門は目立っていた。
モノに例えるなら顔はカビが生えた男爵いも――、要するにゴツゴツした顔に無精髭が生えているのだが、当の本人は天城に“カビが生えた男爵いも”と思われているとは、知るよしもないだろう。
「よく、こういう店を知っていましたね」
天城は軽く嘆息し、綱島のいる席についた。
「以前、聞き込み捜査の途中で入ったのさ。珈琲がどうしても飲みたくなってな」
「他に――、ありそうだと思いますが?」
綱島は、天城が何を言いたいのか察したらしい。
近くにいた若い女性客を一瞥して苦笑した。
「はは……、確かに還暦間近のオッサンが、来るところじゃねぇな」
「それで――、本郷孝宏氏がホームレスの男性と揉めていたという話ですが――……」
その男は、元IT企業の社長だったらしい。
彼の口癖は「自分は億を稼ぐ社長だ」だとか。
「人の運命というモンは、わからんな……」
綱島はそう言って、眉間に皺を寄せる。
その“シャチョウ”は、中区内ですぐに見つかったらしい。
やって来た綱島たちに“シャチョウ”は、いきなり言ったという。
「本郷――、死んだんだって? 刑事さん」
◆◆◆
――どうしてこんなことに……。
彼は自身に問う。
この間まで彼にゴマをすり、彼を持ち上げていた連中が、彼が金と地位を失った途端に背を向けた。
彼の本名は岡島陽介――、もう自分が誰だったのか忘れていた。
億という利益が岡島の金銭感覚を狂わせたのか、それとも夢のような豪華な性格で欲が止まらなくなったのか、彼の周りは高級品で溢れた。
彼のIT会社は、経営も順調だった。
そんな頃だ。
岡島は美術品専門の、オークション会場に行くようになった。
若い頃から美術品が好きで、何点か収集するようになった。
競りの金額は瞬く間に上がり、競争相手が次第に減っていく。
岡島は、ここでも勝者だった。
そんなオークションに、その男はいたのだ。
本郷孝宏――、美術界屈指の大物評論家。
「さて――、最後はエミール・ガレ、一九〇〇年代初頭の作、スグリ文花瓶です。本郷先生よりの出品でございます。スタート金額は、五十万から」
本郷氏所蔵品だったモノなら、これほど間違いないモノはない。
金額は百をあっさり超えて、一千万になった。
「一億!!」
岡島は挙手した。
場が一瞬静まり、
「一億――、落札です」
これを期に、岡島は本郷と親交が深くなった。
美術品を見極める目も、養われたことだろう。
だが株価が下がり始め、会社は赤字を出すようになった。
岡島の転落は、ここから始まる。
ある知り合いの美術品収集家が、妙なことを言った。
最近贋作が、多く出回っているらしい――と。
周囲は彼を止めた。
――自分は騙されてはいない。これまで成功してきたのだ。負けるわけがない。
岡島はそう思い続けた。
それなのに――。
◆
昼下がりの喫茶店――、Mary Poppins。
天城と綱島が座る席にだけ、重い気が漂う。
「――それから岡島氏はどうしたんですか?」
天城は、綱島が岡島氏から聞いたという話の続きを求めた。
「収蔵品を鑑定に出したそうだ。これが驚くことに、ほとんどが精巧にできた贋作だったらしい」
岡島氏は、本郷孝宏に抗議したという。だが本郷は自分も被害者だと岡島氏を突っぱね、関係を切ってきたらしい。
「それからは坂を転がるような人生だったらしい」
そう語る綱島は、珈琲に口をつける。
岡島氏の転落人生――。
会社は倒産し、妻には離婚を言われ、莫大な借金だけが岡島氏に残ったという。
それが三年前のことだったらしい。
岡島はホームレスとなった。片や本郷は現在も美術評論家として名を馳せている。
――あいつのせいだ。あいつを信用しなければ……。
岡島氏は、そう思ったという。
「ですが、綱島さん。どうして二人は赤レンガ倉庫広場で揉めることになったんです?」
「岡島氏の話だと本郷氏は、誰かと待ち合わせをしていたらしい。どうだ? 彼も犯人候補にならないか?」
確かに岡島氏には、本郷孝宏を殺害する動機はある。
だが、天城は彼の犯人説を否定した。
「いえ、犯人は別の人物ですよ」
「ひょっとして、
「わかっていれば、特殊捜査班が検挙に動いていますよ」
天城は、そう言ってふっと笑う。
かつて、一流の会社の社長だった岡島氏。
彼は“裸の王様”だったのだろう。
周りの者たちは彼の成功やカリスマ性を崇め、何も言わずに従っていたのだろう。
だが時が経つにつれ会社の経営は傾き始め、それでも部下たち誰も彼に「間違っている」とは言わなかったという。彼はまさに「裸の王様」だった。
それがある日、彼が支配していた王国は、あっという間に彼の手のひらから滑り落ちた。すべてを失った彼は、気づけば街の片隅にいるホームレスとなっていた。
彼がかつての社長であったことなど、今や誰も知らない。
通り過ぎる人々はただの「ホームレス」としか見ない。
彼の命令に従う者はおろか、目を合わせる者さえいなかったであろう。
それでも、彼はなおもプライドを捨てきれず、心の中で自分を「王様」と信じているのだろう。
――俺は社長だったのだ。
岡島氏はホームレスたちによく自慢していたという。
“シャチョウ”という名で呼ばれることに、彼は抵抗はなかったらしい。
恨んでいた本郷孝宏が殺害されたという話を聞いた彼は、聞き込みにやって来た綱島にこう言ったらしい。
「刑事さん、俺は奴が死んで喜んでいるんですよ。俺を転落させたんですからね。もし俺が再び会社を興して社長になることがあれば、本郷を殺したその犯人を高待遇で雇いますよ」
その時の“シャチョウ”こと岡島の
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