シンナー

白兎

シンナー

 私が小さなころの環境は、今考えるとちょっと普通と違っていたようだ。大人になって、世の中の常識と私の中の常識にギャップがあることに気付かされた。

 私が小学校に上がったころのこと、裏の古いアパートに引っ越してきたおねえちゃんがいた。高校生くらいの子と中学生くらいの子。それと私ぐらいの男の子。私はいつも一人だったから、裏から聞こえてくる声に興味を持った。誰が来たのか確かめにアパートの前まで行ってみると、おねえちゃんが一人玄関から出てきた。

「こんにちは。この辺の子?」

 見た目がとても派手なわりには、優しくてあったかい感じの人だった。

「うん。この裏に住んでるの。おねえちゃんはいつここへ来たの?」

「うーん」

 少し考えて、

「一週間くらい前かな」

 と言った。

「そう。知らなかった」

「私ヨシミ。名前何ていうの?」

「由美」

 そう答えると、私の頭をなでて、

「かわいいね」

 と言った。おねえちゃんはそのあと、どこかへ出かけてく。私はそれをただ見ていた。不思議な感じの人だった。どこかうつろな目をしているのにやわらかい微笑みを浮かべている。そこに私は違和感があった。玄関はうっすらと開いていて、靴がおいてあるのが見えた。履きつぶしたスニーカーと、汚れてぼろになった子供靴。奥のほうからは、人のいる気配があるけれど薄暗い。昼間なのにカーテンを閉め切っているらしかった。私はその場を静かに離れた。何か私の中で危険なものを回避するようにと信号が出ている気がして。家に帰ると、さっき会ったおねえさんのことを考えた。少し言葉を交わしただけで、その人のことが分かるわけではないけれど、何かを抱えていている人だと感じた。

 次の日に、どうしても会いたくなって、アパートへ行ってみた。

「こんにちは」

 玄関のドアには鍵がかかっていなかった。チャイムがついていないから、ノブを回してドアを薄く開けた。

「由美ちゃんよね。遊びに来てくれたの?」

 昨日のおねえちゃんが出てきて、私を中に入れてくれた。そこにはもう一人のおねえちゃんと男の子がいた。簡単に自己紹介をして座敷に座った。おねえちゃんのお姉さんはナオミ。弟はトシヤと言った。部屋の中は布団と雑誌となんだか分からないものとで乱雑としている。

「ナオミちゃん。それ何?」

 ナオミが手に持っていたものが私は気になった。ビニール袋に脱脂綿が入っていて、それを口に当てて中の空気を吸っていた。

「……シンナー」

 戸惑いを見せながらそう答えた。私にはまだよく分からなかったが、顔色のよくないナオミを見ると、シンナーが体によくないものだと思った。

「シンナー吸うとどうなるの?」

 何も知らない小さな女の子には、素直に何でも答えてくれた。

「気持ちよくなるの。ふわふわした気分」

「私も吸っていい?」

 と聞くと、

「だめ。こんなもの吸ったら脳が解けちゃうよ」

 ヨシミが厳しい口調でそう言った。ナオミもうんうんと、うなずいている。

「だったら、やめた方がいいじゃん」

「そうだよね。やめるよ」

 ナオミは袋をとじて吸うのをやめた。

「ヨシミちゃんもこれ、やったりするの?」

 うつろな目、それはこのシンナーのせいだということにこのときはまだ気付いていなかった。

「そう。時々ね」

「だめだよ。脳が解けちゃうんでしょ? もうだめだよ」

 私はおねえちゃんたちのことがとても気になって仕方がなかった。

「うん。もうやらないよ」

 ヨシミはまた、やわらかく微笑んだ。私はその表情がとても好きだった。どこの誰でもこんな笑みを浮かべることなんてできないだろうと思った。そこに何があるのか、私にはまだ分からなかった。この空間で、しばらくおしゃべりをして過ごした。湿気と他の何か分からないものとで、どんよりと重みのある空気。あとで思い返すと、彼女たちの心の中に抱えているものがこの空気を作っていたんだと分かった。

 私はこの日から毎日様子を見に行った。ずっとシンナーを吸っていたらあの人たちどうにかなっちゃうんじゃないかと思うと怖かったし、私を友達にしてくれたおねえさんたちが好きだったから。そんな日常をこのときの私は過ごしていた。けれどある日、それに終止符が打たれることになった。

 その日も学校から帰ってすぐに、おねえちゃんのアパートに行った。そこには、近所の人とパトカーと救急車が来ていた。小さかった私には誰かに何かを聞くということができずにその光景を眺めていた。救急隊が担架で何かを運んでいてそれは救急車に乗せられていく。トシヤは警察の人に連れられ、うつむいてパトカーに乗り込んだ。おねえちゃんたちの姿はどこにも見られなかった。やっぱり、担架に乗せられていたのだと思う。ざわざわとしたやじ馬の雑音の中、私には遠ざかるサイレンの音だけが現実だと分かった。残されたのは私だけのような気がした。また、私の居場所が消えてしまった。それからはもう、彼女たちと会うことはなかった。どこからも、誰からも噂など流れては来ない。私はヨシミのやわらかな微笑みがどこかで誰かに向けられていることがあってほしいと願った。

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シンナー 白兎 @hakuto-i

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