第3話
お客さんの夕食を提供した後に厨房へ向かうと、既に料理の残り物が綺麗にお皿に取り分けられていた。両親と姉と私の分の夕食だ。けれど、そこには一人分しかなかった。既に皆食べたのだろうか。
それを持って控え室として使っている部屋に行く。いつも姉と共に食事をとり、時々そこに母が加わるが、今回は違った。
父と母と姉、全員が自身の夕食と共に私のことを待っていた。姉の隣の席に着くと、母がいただきますと言った。それに続いて私もいただきますと言って皆と一緒に食べ始める。
暫くの間、学校で何があったとか、後であの部屋の掃除をするつもりだとか、いつものように他愛のない会話をしながら食べていた。
「それで、今何かに悩んでるの?」
姉が切り出した。
「んー。悩んでいるというか、進路希望について考え事してるだけ」
「死にかけるくらい悩んでるのか?」と父が言った途端、母が父の腕を軽く叩いた。
「やめなさいよ。冗談じゃないのよ?ビックリしたでしょ。本当に良かった無事で」
「うん。ありがとう。ごめんね心配かけて」
「気づかなくてごめんね。美波」
静まり返った風呂場に水滴が落ちたみたいに、小さな声で姉は謝った。その言葉を聞いて私の方こそ申し訳ない気持ちになった。胸の内側を誰かの手がぎゅっと掴んで捻っているように感じられる。
「泣くほど怖かった?」母が、驚いている父をよそに、心配そうに言ってくれる。
「ううん。違うの、皆を心配させたから。私のせいなの。今日、進路希望の話があって大学に行って欲しいのは分かってるんだけど、私やっぱり海女になりたくて」
「馬鹿だね。誰も強制なんてしてないよ」母が手を伸ばすので、私は母に手を握ってもらう。
「そうだよ。皆、美波の為を思って言っただけだよ」隣に座っている姉は私の背中をさする。
「お前が幸せなら、何だっていいんだぞ。そんなこと気にするな」
「うん。ごめん」
「ごめんじゃなくて、ありがとうって言いな」と母が私の手をもう片方の手でさすってくれる。
「うん。ありがとう」
その夜、私は夢を見た。私は海の中から、水面に浮かんでいる船に忍び込む。まるでおとぎ話に出てくるような、西洋の立派な木製の船だ。夜だけど強い月明かりのおかげで辺りがよく見えた。その時、自分のヒレが足になっていることに気付いた。船の中に入ると天蓋付きの豪華なベットがあって、そこには私が眠っている。
これは海に潜ることを愛する私だ。私の自己中心的な気持ちだ。
その時初めて、私はナイフを握っていることに気付く。
きらりと光るナイフを、ベッドで横になっている自分に向って大きく掲げた時だった。
「美波!」
外から姉の呼ぶ声が聞こえた。
何をしようとしていたのか我に返って、ナイフを掲げるのをやめる。
「美波!」
そうだ。何をしているのだろう。誰も私の気持ちを押し殺すことなんて望んでいない。それこそ自己中心的だ。
私は部屋から出て水面を見渡すと、姉が手を振っているのを見つけた。私は姉に向って頷き、ナイフと共に海に飛び込んだ。
その夢を見た後日、私は言われたように放課後、職員室にいた。
「美波さん、この前の進路のことだけど。どうするか決めた?」
「はい。やっぱり、海女になって家の旅館の手伝いをしようと思います。」
「そっか。わかりました。頑張ってね」
「ありがとうございます」
この時から私の中の迷いは消え、海女漁にまた参加させてもらえることになった。あの時のベテラン海女は私の顔を見て、何かさっぱりしたね。と言った。
海の中に飛び込むと、水中は今までで一番澄んでいた。海底の岩の様子もよく見える。私は他の海女と一緒に深く潜り、岩の割れ目を探した。
どれが岩肌でどれが貝なのか、はっきりと区別がついた。あわび貝は私が思っていたよりずっと岩の隙間の奥、ぎりぎりのところに張り付いていて、少しでも動いたら貝が岩肌に当たって削れてしまうのではないかというところにあった。持っていたステンレス製の磯ノミをあわび貝と岩肌の間に慎重に差し込む。身を傷つけないように、てこの原理を使うと、ぽろりと貝が外れた。それを持って私は急いで水面に上がった。
「あわび採ったよ!」
誰にともなく叫ぶと、皆がよくやったね。と喜んでくれた。
「独立もそう遠くないかもね!」あの時のベテラン海女が私に向ってそう叫んだ。
立派な海女になるのが待ちきれない思いで、私の胸は弾けそうになる。
「私、いつか伊勢志摩の人魚になります!」そう言うと、皆が朗らかに笑った。
「頑張りな!」
「はい!」
私はまた水中に潜った。
伊勢志摩の人魚 伊藤東京 @ItohTokyoNovels
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