第2話

 自習時間に担任がクラスメイトを出席番号順に一人一人呼び出してから、初めて進路希望についての個別面談をする日が今日だと気付いた。教師のいない教室で、まるで小雨のように生徒たちが声を潜めて、ぽつりぽつりと静かに話し始めた。皆、進路についてどうしたのか話し合っているようで、都会の大学に行くつもりの人や地元の大学に行く人、専門学校に行きたいという人がいた。真面目に自習勉強をする人も何人かいて、皆何かしら目標に向かって進んでいる。それが私を不安にさせた。

 私の前の番号の人が教室に帰ってきたので、私は角にある空き教室に向かった。

 空き教室にある机は壁際に綺麗に整頓されていて、その中央に二つの机が迎えあって置かれている。窓側に先生が座っていて反対側に空きの椅子が置いてある。

 席につくと先生は机の収納部分から一枚の紙を取り出した。私が前に提出した進路希望書の紙だ。

「美波さんはまだ決まってないってことであってるのかな?」

「はい」

「そっか。夏休み前だから、受験するならそろそろ決めておかないと大変だけど、それは分かってる?」

「分かってるんですけど、どうしたいのかよく分からなくて。親は大学に行ってほしいみたいで。姉も私は頭がいいから都会に行けって」

「美波さんはどうしたいの」

「私は…」

 わからない。親も姉も私の大学進学をサポートすると言っている。とてもありがたいことだ。大学に行って就職するほうが、海女のような危険で不安定な仕事よりずっと安定した生活を送れるだろう。もしかしたら将来、私の収入で親に仕送りをしてあげることが出来るかもしれない。

 大学進学後にあるかもしれない未来を思うと、海女をして家の旅館を手伝う今の生活で満足していて、それをずっと続けたいと思うことは何だか自己中心的な気がした。

「すぐに決まらなそうだね。来週の放課後、職員室でもう少し話そうか」

「はい。すいません」

「いや、大丈夫。今週じっくり考えてみて」

 その週末、私は姉やベテラン海女と一緒に小さな漁船に乗って海の少し深いところでのあわび漁に参加させてもらった。

 ベテラン海女は潮流を見ながら船頭に漁場について話し合っている。その間私は頭までウェットスーツを被って髪の毛が全て隠れるように調整していた。漁場につくと船頭が船のエンジンを切って、波の音がよく聞こえるようになった。私は水中眼鏡を頭に付け、浮き輪を抱えてから姉の後に続いて飛び込んだ。

 熱い夏の中でウェットスーツを着ていたので、水の冷たさが気持ちよかった。水面に浮かぶ海女は浮き輪をビート版のように使って、船を中心に菊花火みたいに散らばる。各々あわび漁を始めたので私も海の中に潜った。

 岩の割れ目に向って潜っていき、あわびが隠れていないか探すがなかなか見つからない。岩の陰は暗く、その中から岩の模様に溶け込んでいるあわび貝を探すのは更に困難だった。見つけられないまま水面に戻り、呼吸を整えていると、他の海女たちが片手一杯にあわび貝を持って上がってくるのを見て実力差を知った。

 私もあわび貝を採りたくて、もう一度潜った。水圧が肺を圧迫するのを感じる。

 大学進学を蹴ってまで海女を続けても、他の海女より採れないんじゃ海女になる意味がない。

 足ひれを器用に使って海底に向って潜っていく。荒い岩肌に手をかけて隙間を除いた。

 真っ暗だ。

 海底で岩の隙間を見ながら泳ぎ回っていると、急に体に感じていた水圧が無くなった。きらりと水中で何かが光り、目を凝らして見てみると、それは自分のヒレだった。足ひれじゃない。本物のヒレだ。

 両足が一つにくっついて、それを覆う鱗が微かに輝いている。私は人魚になった自分に気づいて、そのヒレで水面に向かって勢いよく泳いだ。

「ごぼっ、げぇっ、ごほっごほっ。」

「美波!良かった!良かった!」

 勢いよく咳き込み喉が痛い。鼻にまで水が入ってつんとした嫌な痛みがする。私を囲んでいた海女たちは皆安心したように胸を撫で下ろして頷き合っている。

「バカだね、あんた!一体何してたの?」

「ごめん。すみません」

「今日はもう休みなさい」

ベテラン海女の内の一人が言った。

「何か考え事してるでしょ。顔がぱっとしないじゃない」

 それを聞いて、姉はそうなの?と聞くように私の顔を見た。

「生半可な状態で海に入ると危ないから、それが解決するまでは漁は休みなさい」

「はい、すみません」

 何かに悩んでいることを知られるだけじゃなく、そのせいで皆に迷惑をかけたことが恥ずかしかった。

 皆があわび漁をしている間、私は船頭とその漁師と共に漁船で待っていた。

 漁が終わって陸に戻った後、私たち海女は海女小屋に行ってウェットスーツを脱いだ。

 家に帰宅すると姉から連絡を受けて心配していた両親が待っていた。二人ともロビーの椅子に座っていて私の顔を見た途端、安堵に硬い表情が解けた。家族全員で抱きしめ合って、無事家に帰れたことを心から感謝した。

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