午後6時30分

英国租借地香港 九龍城区


 老婆の情報屋としての矜持が垣間見える言葉を受け、李はただ笑うしかなかった。


「変わらないね、おばちゃんは」


 彼女は自分の鞄から、香港ドルの束を差し出す。


「お代。色々とありがと、これでいい物でも食べて」


 老婆は云十万の札束を一瞥してから、首を横に振る。


「受け取れないね」

「どうして?」

「掟破りと取引したなんて知られたら、私も殺されかねないからね。取引は出来ない」


 札束を持つ李の手を押しのける。


「それは、二人のために使いな。運命の人、なんだろ」

「おばちゃん……」


 周はそのやり取りを見て、素直に羨ましいと感じた。

 誰かを信頼し、誰かを思いやれる。人間として当たり前のことを、周は出来なかったのだ。

 彼の責任もある。しかし、彼を取り巻く環境が酷かったのもまた事実だ。

 そんな胸の切なさを抱えながら、短くなった煙草を空き缶へ捨てようとした時だった。

 周と李の耳が堅い何かが転がる音を捉える。

 階段と通じている扉が僅かに開き、黒い物体が二つほど投げ込まれていた。

 黒い物体――ソ連製F1手榴弾は三人の足元近くへと転がってくる。

 反射的に動けたのは、李だった。

 彼女は周を抱き寄せ、後ろへ体重を掛ける。大人二人の体重を受け、座っていたソファーがひっくり返る。

 我に返った周も李を庇うように、体勢を入れ替えた。

 二人が床に転がったタイミングで、手榴弾が炸裂した。

 爆風や破片によって、色々な物が破壊される。

 蛍光灯が割れ、机は真っ二つになり、ノートが燻り黒煙を上げる。

 爆風によってソファーが動き、周と李は押しつぶされそうになるも寸でのところで止まった。


「……生きてる?」

「……なんとかな」


 二人はそれぞれの得物を抜き、身体を起こす。

 つい数秒前までそこにあった光景は、一変していた。

 荒廃した部屋。

 目の前に座っていたはずの老婆は、無残な死体と化している。

 爆発を近くで喰らった両足は千切れ、何処かに飛び。

 破片を喰らった腹からは湯気立つ腸がこぼれ。

 首や頭からは血を垂れ流している。

 ショック死していた。即死なのが、せめてもの救いと言うべきか。

 窓の外から差すサイケデリックなネオンの光が、死体を彩っておりグロテスクさが増している。


「おば……ちゃん……」


 絶句する李。

 彼女の師匠が生きていた頃から付き合いがあり、損得抜きで相手をしてくれた数少ない人物を喪った心情は如何ほどか。

 それに同情しつつも、周は破片で裂けたジャンパーを脱ぎ捨て、鞄からミニウージーを出した。


「……何処の馬鹿だ?」


 コッキングしながら、咥えていた煙草を吐き捨てる。


「三合会か、とか言う殺し屋か」


 考えたかったが、そんな暇などないことを二人は経験から感づいていた。いつ踏み込まれるか、また手榴弾を投げ込まれるかも分からないからだ。

 出入口は待ち伏せの可能性が高く、残された道は一つしかなかった。

 ガラスが無くなった窓へと二人の視線が向けられる。


「行こう」

「……うん」


 李はもう一度、老婆の遺体を見て「ごめん」と呟いた。

 外の様子を確認する。爆発音を聞きつけ、周りの住民が集まりだしている。


「っ!」


 手のひらをガラス片で傷つけながら、先に周が飛び降りる。三階の高さは彼の足や腰に響くも、行動不能にはならなかった。

 続けて李が降りようとした時、ドアを蹴破って誰かが突入してきた。

 その人物と彼女は目が合う。

 古ぼけた黒いコートを身にまとう老人――大陸の殺し屋こと、何 昊だった。

 殺し屋の手には、ソ連製のPPS43短機関銃が。

 銃口がゆっくりと李の方に向く。

 54式を握る手が白くなるも、彼女は戦うよりも飛び降りる方を選んだ。

 周がお姫様抱っこの形で受け止め、腕を掴んだまま駆け出す。

 銃声が鳴り響き、二人の足跡をなぞる様にして弾丸が命中していく。

 一般住民が驚き、恐怖し、逃げ惑う。

 二人はそれを利用して、射線を切りながら逃げる。

 しかし、失念していた。殺し屋が殺人狂であることを。

 すぐ後ろにいた中年女性が、潰されたヒキガエルみたいな声を出して倒れる。

 周が振り返ると、女性の背中に紅いシミが広がっていくのが見えた。

 足を撃たれたり、首から血を流して藻掻いている者もいる。

 周は殺し屋の正気を疑うも、即座に疑うまでもないと切り捨てる。彼らが出来るのは、大きく息を吸って必死に足を動かすだけだった。

 あと少しで大通りというところで、路地へとライトバンが二台滑り込んでくる。


「!?」


 戸惑う二人。

 ライトバンから降りてきたのは、銃を手にした三合会の構成員達であった。


「おい! アイツ等だ! 銃持ってんぞ!」


 彼等は連絡が途絶えた構成員――ギャランに乗っていた若手からの定時連絡が途絶えたことから、敵の襲撃を察知しおっとり刀で駆けつけたのだ。

 装備しているのは拳銃ではなく、アサルトライフルや散弾銃といった長物で相手方の殺意の高さが伺える。

 周は反射的にミニウージーを腰だめで構え、正面に向かってぶっ放す。

 毎分950発。秒間にして15発もの9ミリパラベラム弾が発射される。

 構成員達は慌てて物陰に隠れようとするも、高連射でばら撒かれる弾によって貫かれてしまう。

 32発分の弾倉は2秒ほどで空になったが、三人を行動不能にする。


「こっち!」


 今度は李が周を引っ張り、路地へと引き込む。

 三合会構成員はウージーの銃撃に怯んだものの、すぐに取り直して追いかけてくる。おまけに、殺し屋も追いついてくる。

 李は振り向きざまにKG-9を鞄から抜き、9ミリ弾で牽制をした。


「この先に、デパートがあったでしょ? そこで人込みに紛れて、反撃のチャンスを待とうよ」


 同じく弾倉を空にしてから、彼女は提案する。

 逃げるなら容易い。しかし、二人は殺し屋を始末しなければならない。


「そうだな」


 ミニウージーの弾倉交換をしながら、周が頷く。

 警官として香港市街を動き回っていた周。

 片や、殺し屋として逃走経路用に標的を追い詰めるために、香港市街の地理を知り尽くしている李。

 地の利は二人にあった。

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夜明けの香港 タヌキ @jgsdf

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