午後6時21分

英国租借地香港 九龍城区


 周は、持っていた煙草を咥え直してマッチを擦った。

 赤燐と塩素酸カリウムが反応し合い、独特な匂いを発しながら橙の炎が燃ゆる。


「なぁ、婆さん。例えばの話なんだがな」

「なんだい?」

、三合会ってのはどのぐらい混乱する?」


 李が驚愕して彼の方を見、老婆の顔から表情が消えたかと思えばワナワナと震えだした。


「そりゃあ、大混乱さ。香港、いや世界中にいる構成員達総勢八十万のトップが突然消えるんだよ、混乱が起きないはずないだろう」

「……そうか。じゃあ、俺達に構っている暇なんてなくなるだろうな」

「……そうかもしれない。だが、それは途轍もなく分の悪い賭けだよ。下手をすれば、八十万もの敵を作ることになる。そこを考えないのかい? 親殺しの後の跡目ってのは、親殺しの犯人を殺した者が継ぐもんさ。探し出されて、殺されるよ」

「俺達を追ってる何って殺し屋を殺して、実力を見せつける。中国トップクラスの殺し屋が返り討ちに遭うような奴を、親の仇といえど、わざわざ殺しに来る奴がどれだけいる? それに、どっちにせよ何もしなければお陀仏なんだ」


 ここで周は煙草の火を缶の淵で消しながら、口の中に残った煙を吐きだした。


「分の悪い賭けだろうが、やんなきゃいけないんだ」


 トップ殺害をほのめかす発言以降、黙っていた李が口を開く。


「……そうね。どっちにせよ死ぬかもしれないのなら、少しでも勝てる方に選んだ方がいいもの」


 まだ震えている老婆を見据え、李は宣言をする。


「私、殺すわ。三合会のトップを」


 凛々しく硬い声からは決意が漏れており、誰がどう説得しても無駄だと直感的に知らせてくれる。


「おばさん、トップの居場所って分かる?」


 これには老婆も諦めざるをえず、深々と溜息をついてから棚からノートを出した。


「確実な居場所は分からないよ。でも、今のトップは九十過ぎで、ほぼ隠居状態さ。多分、屋敷にいるんじゃないかね」

「屋敷?」


 周が首を傾げる。


「ビクトリアパークの中腹に高級住宅街があるだろう、そこに建つ屋敷さ」


 そう言い、老婆がノートを広げる。古い白黒写真がそこには挟まれており、写真には豪勢な屋敷が写っていた。


「これが、トップの屋敷か」

「元は英軍将校が建てたらしいんだけどね、戦後からはトップが住み続けてる」

「まさに伏魔殿ってことね」


 李の軽口を無視し、老婆は話を続ける。


「護衛に関しちゃ分からないけれど、身の回りの世話をしてるメイドが一人いるよ」


 ただのメイドならいいが、護衛も兼ねていると面倒だという考えを周は一言に込めた。


「メイドねぇ……」


 李は食い入るように写真を見つめていたが、外観を完全に記憶したようで写真をノートの上に戻した。

 そして、話を次の段階へと進める。


「それで、そろそろ逃走用の船について聞きたいんだけど」


 老婆は開いていたノートを閉じ、別のノートを棚から引っ張り出した。


「ここから出る外国航路の船で、なおかつ飛び込みの客でも金次第で乗せてくれるところ、だったね」


 パラパラと数ページ捲り、ニヤリと笑う。


「あるっちゃある」

「何処の船?」

「朝鮮さね」

「朝鮮?」


 妙な言い方に引っかかるを覚えた周は、身を乗り出して問いただした。


「船籍自体は韓国だし、所有している会社も韓国企業だけどね、実際のところは北朝鮮の密輸船さ」

「北朝鮮!?」


 この頃1989年の北朝鮮は、建国よりの栄華に陰りが見え始めた頃である。

 北朝鮮の経済として、建国直後や朝鮮戦争終戦までは酷い有様であった。

 しかし、終戦後は盟主国であるソ連や社会主義国であった東欧諸国、お隣の中国の支援、日本からの帰還者親族からの寄付などを元手に金日成は重工業主体の戦後復興計画「3カ年計画」を始動させる。

 手厚い支援もあって、3カ年計画は成功し、南朝鮮もとい韓国よりも早い復興と経済成長を遂げる。

 だが、金正日による経済介入の失敗や石油ショックの影響もあり、西側諸国から購入したプラントの代金を払えずに国際的信用を失ってしまう。

 経済計画を立てても絵に描いた餅で計画通りには行われず、金正日の元に届くのはご機嫌取りに特化した虚構の結果であった。

 挙句、韓国統合という悲願絵空事を叶えるべくビルマで当時の韓国大統領であった全斗煥を狙った爆弾テロラングーン事件を起こし、オリンピックの韓国単独開催の腹いせとして大韓航空機爆破事件を起こす。

 こうして、北朝鮮は世界中からテロ国家という認識をされるようになる。

 ちなみに日本人拉致の問題が持ち上がってきたのも、この頃80年代である。(当時は認めておらず、2002年の日朝首脳会談にて拉致の事実を認めた)

 大韓航空事件の翌年、88年に滞りなくソウルオリンピックは開催され、南北での格差が改めて浮き彫りとなった。

 そして、89年。

 4月現在からしたら未来の話であるが、11月にはベルリンの壁崩壊(翌年、ドイツ統一)、12月にはルーマニア革命が起こり独裁者チャウシェスク夫妻が処刑される。

 更に91年12月にはソ連が崩壊する。

 つまるところ、今までおんぶにだっこしていた東側諸国が消えるのだ。

 既に北朝鮮は民族主義の皮を被った金一族崇拝である主体主義を掲げており、自立を謳っているもののそんなことはなく。

 スーパーノートと呼ばれる米ドルの偽札や、麻薬、小火器の密売を国家ぐるみで行い、せこせこ外貨を稼いでいるものの金一族の放蕩や後のミサイル開発に繋がる軍事費につぎ込んでいる。

 このまま転げ落ちるように、94年からの苦難の行軍大飢饉に繋がるのだ。

 もっとも、今の周達にはあずかり知らぬことだが。


「とにかく、連中は外貨を欲しがって麻薬やら偽札を密輸してる。金はあるんだろ?」

「うん」

「なら、快く乗せてくれるさ。それに、そこらのチンピラと違って、国家ぐるみで密輸してるからねプロだよ。しかも、乗ってるのも国を裏切らないような連中だからね、礼儀も弁えてる」


 不安はあれど、背に腹は代えられない。周と李はそれを飲み込むしかなかった。


「で、その船は? いつ来るの」

「もう来てる」

「え?」

「ビクトリア・ハーバーに停まってる。出港は明日の夜明け、午前5時だね」


 反射的に周と李は自分の腕時計へ目を走らせた。

 残り約11時間。

 港まではどんなに遅く見積もっても、2時間。だが、彼等には殺し屋というハードル兼足枷がある。


「まぁ、どうするかはお前さん達次第さ。私は、占い師でも教師でもない、だよ」


 老婆は心の底から面白そうに笑った。

 それはその通りであり、二人は何も言い返せない。そして、李は諦めの乾いた笑みを浮かべた。

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