午後5時57分

英国租借地香港 九龍城区


 李はやや躊躇しながら、扉を開いた。

 その途端、テレビの大袈裟な声と焼売の匂いが混ざり合った生活臭が二人を包んだ。

 部屋は小ぢんまりとしており、どこか秘密基地を彷彿とさせる。

 整理が行き届いており、目を見張るのは窓際に置かれた高性能な受信機と、本棚に詰まった使い込まれたノートの数々だ。

 それに、様々な情報が詰まっているに違いなかった。

 部屋の真ん中にあるソファーへ座っていた老婆は、突然かつ予想外の来客に呆然としている。


「李、李かい?」

「そうだよ、おばさん」


 老婆は立ち上がり、彼女へと歩み寄る。


「この子は……ホントに、とんでもないことをしたもんだよ……馬鹿なことをして……」


 老婆の口からは罵倒が出てくるも、目は完全に潤んでいた。


「掟破りだなんて……師匠が聞いたら、憤死するよまったく……」


 李は老婆の小さな身体を受け止め、抱きしめる。


「ごめん。でも、後悔はしてないの」

「外にいただろ、若いのが。ソイツは?」

「ちょっと静かにしてもらってる。殺してないわ」

「……そうかい」


 老婆は李から離れると、周へと目を向けた。


「この兄ちゃんは?」


 李は少し考えてから、ちょっとおどけて。


「運命の人」


 と答えた。

 周の顔が赤くなり、老婆は顔を綻ばせた。


「色々、あったんだね」

「うん」

「それで、何の用だい? ……まぁ、察しは付くけどね」

「金さえ払えば、どんな人間でも乗せてくれそうな船を探してるの。何か、情報はない?」

「あるよ」


 即答する老婆。その口ぶりには、情報屋としてのプライドが込められている。


「けど、条件がある」


 硬い声色に、周の手がホルスターのハイパワーに伸びる。

 老婆はそれに気がついておらず、言葉を続けた。


「アンタ達を追ってる殺し屋について、耳に入れておいてほしい」


 周と李は顔を見合わせてから、老婆の条件を飲んだ。



 老婆は冷蔵庫から缶のオレンジジュースを出し、若人二人に渡してから向かい側に座る。


「毒は入ってないから、安心しな」


 老婆のブラックジョークに、二人は苦笑するしかなかった。

 周が煙草に火を点け、李がプルタブを取ったのを合図にして老婆は棚から一冊のノートを抜いた。


「アンタ達を狙っているのは、何 昊ヘ・ハオってヤツさ」


 ノートを開き、あるページを見せてみせる。

 何 昊という題の下に、字がビッシリとそれでいて几帳面に書かれていた。


「コイツは、中国本土が縄張りの奴だ。けど、お得意様は何処にでもいる。呼ばれれば行く、そんな奴さ」

「……殺し屋って、そんなもんだけどね」


 の呟きに、老婆は「まぁまぁ」と誤魔化す。


「元は、毛沢東の兵隊さ。二次大戦の時には、毛の命令で世界中を飛び回って、色んな戦術や戦い方を学んだ。そしてそれを持ち帰って、戦後の第二次国共内戦に役立てた」

「筋金入りの、兵隊って訳か」


 周の解釈を、老婆が首を振って否定する。


「いや違う。奴は殺人狂さ。戦争に行って、言葉じゃ表せんモンを見て、頭がおかしくなっちまったらしいんだ」

「聞いたことあるわ、心的外傷後ストレス障害PTSD……だったかな」

「そのピーテーなんだかかは知らないけどね、奴自身は内戦で暴れ過ぎて、毛に愛想尽かされて、そこから殺し屋に転向したのさ」


 周が煙を細く吐き、吸い殻を空にしていた缶へ捨てた。


「殺人狂……か」

「そうさ。殺し屋だけじゃなくて、どの商売にも言えることだけどね、結局、人柄より信頼が第一さ。キチガイだろうが、依頼をこなせば信頼されるのさ」


 皺だらけの顔で言われるとどんな言葉でも説得力が増すものだが、こればかりは二人にとって増して嬉しいものではなかった。

 老婆は更に言葉を続ける。


「けどね、問題は何に狙われているってことじゃない。三合会から

「分かってる」


 李がすかさず返事をするも、老婆は首を横へ振った。


「分かってるもんか。分かってるんなら、逃げる算段なんて出来るもんか」


 老婆の語気が強くなる。


「連中はね、一度殺すと決めたら、何年掛かっても、何処に逃げようとも、どんな方法を使っても探しだして殺すのさ。例え、明日世界が滅ぶとしてもね」


 老婆の口から出た言葉は、二人を絶望へと叩き落とす。

 自分達が置かれている状況が自分達が考えている以上に深刻なのを思い知らされ、二人の胃がズンと重くなる。

 周は咥えていた火の無い煙草を外し、李はジュースの缶を握ったまま固まった。


「『掟』ってのはそのくらい重たいものなのさ。けど、『掟』を皆が守るようになってからは、逆にその重さと恐ろしさが伝わらなくなった。皮肉なもんさ」


 その皮肉を悪用された挙句に殺されそうになっている李は、不愉快そうな態度を露わにした。彼女から事情を聞いている周も、ビルから落ちたチンピラに「災いあれ」と心の中で呟く。


「その『掟』は、撤回させることは……」

「不可能だね。もう何十年と続いてきたことだし、連中には撤回する理由がない」

「八方塞がりってワケか」

「端的に言えばそうさね。……でも、どうにかできない訳でもない」


 思いがけない言葉に、李が食いつく。


「どういうこと?」

「どうもこうも、簡単なことさ。三合会の連中に、自分達を殺すメリットがないことを思い知らすのさ」

「メリット……」

「『掟』ってのは結束を強める楔に過ぎない。でも、結束を強めるために、仲間内でトラブルが起こるようなことになっちゃ本末転倒だろ?」

「ああ」

「殺そうとする度に面倒が起こるとなると、組織としては殺すのに躊躇が出てくるはずだろ」

「……確かに」

「でも、こればかりはやってみないとなんとも言えない話さ。受け継いできた『掟』を重んじるか、組織を守ることを取るか……二者択一で連中はどんな選択をするか。それに、面倒を起こすにしてもどのぐらいの面倒を起こせばいいか……」


 老婆の目に、こちらを憐れむような色が浮かぶ。まるで、二人の行く末を決めつけるように。

 周はその憐憫を敏感にも感じ取って、腹を立てるも、そう思われても仕方がない状況なのだと溜息をついた。


「……でも、逃げるなら、どうにかしてケリを付けなきゃならん訳か」

「そうさ。でなけりゃ、二人揃って新天地でお陀仏さ」


 どうするか。思考の深みへと飲み込まれる瞬間、周の脳裏にある一つのアイデアが湧いてくる。

 それは困難な賭けには違いなかったが、上手く勝てば後顧の憂いすら断ち切れるものであった。

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