午後5時28分

 英国租借地香港 深水埗区


 薄暗い車内で周は意識を取り戻した。

 瞬間的に覚醒し、上半身を跳ね起こす。手がホルスターにあるハイパワーへ伸びるも、動きが止まる。

 なんてことはない。

 自分がいるのが地下駐車場に停めたランサーの車内で、隣で寝息を立てる李の姿を確認したからだ。

 彼はホッとすると同時に、咥えたままだった煙草を摘んだ。火はフィルターを僅かに焦がして消えており、ズボンに灰が落ちている。

 吸い殻を灰皿に突っ込み、灰は足元へ落とした。

 腕時計を覗けば、最後の記憶から三時間ほど経っていることが分かる。

 周は念の為と、周囲を見回した。

 殺気はおろか、人の気配すら無い。

 銃などが詰められた鞄も金も、インパネに置いた64式も、李も記憶そのままの場所にいた。

 幸いなことに、彼らはまだ見つかっていなかった。

 ホッと一息つくと、周は喉の渇きを覚えた。後部座席の鞄を探ってみるも、水のボトルは無い。

 それどころか、夕食となる食料も無いことにも気が付く。

 腹が減っては戦は出来ぬ。

 周は新しい煙草を咥えながら、李が目を覚ましてからのことを考えだした。


 煙草を一本半ほど灰にした頃、李が目を覚ました。


「……あれ、寝てた?」


 目をこすりながら、独り言ともつかぬ言葉を彼女は漏らす。


「ああ。俺も寝てた。今、起きたところ」

「お互いに不用心ね、いつ襲われるかも分からないのに」


 同じようなことを思って、周は冷や汗ものだったのにも関わらず李はおかしそうに笑っている。

 経験の差が如実に現れていた。


「それも問題だけど、もっと切実な問題がある」


 問題というワードに、李は笑みを消した。


「なに?」

「飯と水が無い」


 深刻な問題だと思っていたことと、周の真面目な顔とのギャップも相まって、李は先程よりも大きな声で笑う。


「そういうことなら、買いに行こ。私も、寄りたいところがあるし」

「寄りたいところ?」

「情報屋。……三合会が警察の対応でてんやわんやしているうちに、行っておきたいの」

「なるほど……。でも、大丈夫か? あの日本ヤクザの事務所みたいなことはゴメンだ」

「師匠の代から付き合いがあるけど、大丈夫とは言い切れない。でも、あのヤクザよりはマシよ」


 李の言葉に一抹の不安を覚える周。

 しかし、自らが置かれているのが不安になっていてはキリがない状況だというのを思い出し、首を縦に振った。


 地下から出た二人が見上げた空は、薄紅と紺が混ざり合った色をしていた。

 テレビやラジオでは九龍地区を中心に不要不急の外出を控えるように呼び掛けているものの、襲撃されているのが三合会の事務所だけであり、観光客の動きも止められていない。

 相変わらず、街に人は溢れている。

 赤ら顔なブルジョワジー風の英国人。

 観光客らしい日本人の一団。

 観光客相手に、怪しげな商品を売りつけている米国人。

 店先で見せつけるように饅頭を蒸かしている中国人。

 軒先でそれを頬張る香港人の親子。

 人々を横目に、緩慢な車の動きに合わせながらランサーを走らせ、店に寄りながら食料や水を買い込む周と李。

 そしてそれを、飲み食いしながら李が望む場所へと向かっていった。

 九龍城区の一角。

 大通りの路肩にランサーを停める。客待ちのタクシーや宅配業者のライトバン以外にも、路駐車両は路肩を埋め尽くさんばかりに並んでいるので、特別目立つこともない。

 銃や金が入った鞄を持ち、李の先導で歩いていく。

 そしてある程度歩いたところで、彼女は立ち止まった。それから、一階に古本屋が入ったビルを指さす。


「あそこの三階に、情報屋が住んでる」


 そのビルの三階を見れば、電気が付いており窓ガラスにはテレビの反射らしい光がチラついていた。

 人がいるらしい。


「いるっぽいな」

「でも……」


 李が目線を下げるのに合わせ、周も目線を下げる。

 ビルの出入口を見張れる位置に、三菱のギャランΣが停まっていた。運転席に若い男が一人座って、缶コーラを傾けている。


「三合会の回しモンか」

「……やっぱり、マークされてたか」

「けど、人数は少ないな」

「たぶん、事務所への襲撃を気にして、最低限の人間以外は事務所に戻したんじゃないかな」

「なるほど。どちらにせよ、好都合だ」


 周は、ベルトのホルダーに特殊警棒と手錠があることを確かめた。


「ちょっと、あの若いのを黙らせる。しくじったら、バックアップを」

「いいよ」


 懐から警察の身分証を抜き、ギャランの方へと歩いていった。

 ウィンドウを叩くよりも先に、車内の若い男は近づいてくる周に気がつき車から降りてくる。


「オイ、誰だテメェ」


 身分証を掲げ、迫真の声で周は言う。


「警察だ!」


 若い男は、金色に輝く警察の代紋に怯む。

 男が晒した隙を見逃さず、周は特殊警棒を抜いた。

 横っ面、前頭部の順で殴られた男は悶絶しながらのたうち回る。

 更に追い討ちとして男の腹を蹴飛ばすと、鼻と口からコーラを垂れ流しながら気絶した。

 男の懐から、ニッケル仕様のS&W M19と38sp弾を噛んだスピードローターを五つ、財布やポケベルを奪う。

 それから周は、手錠を掛けてトランクに放り込んだ。目を覚ましたとしても、これでは自力での脱出は出来ない。


「やるじゃん」

「どうも」


 追い剥ぎ慣れしてきた周を、李はからかい半分、感心半分で眺めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る