人魚と神様

ごもじもじ/呉文子

人魚と神様



 深い深い海の底には、人魚がいます。


 人魚の命は限りがないため、人魚はいったい自分がいつからそこにいるのか、知りませんでした。育ててくれた、別の人魚のことはぼんやりと覚えています。


 もう一人の人魚の体には、たくさんの傷がついていました。そして、上の方を指差しながら、


「あそこには、恐ろしいものがたくさんいる」


と言うのが常でした。そして、いつの間にかいなくなってしまいました。



 ひとりになっても、人魚はさみしいとは思いませんでした。なにしろ、人魚にはすることがたくさんあります。


 ゆっくりと降下してきたクジラの死骸が、たくさんの生き物にむさぼり喰われて、やがて骨となるまでを眺めていたり。スケーリーフットの鱗をチムニーで集めて、美しい腕輪を作ったり。ヨコヅナイワシと泳ぎ比べをしたり。深海には面白いもの、興味がつきぬものが山とあります。



 ある時のことでした。上の方から、なにかが沈んできました。上半身は人魚と似ていますが、腰から下が違います。ひれの代わりに太い棒が2つ付き出していて、とても不恰好な姿でした。


 通りがかった亀が、顔をしかめて呟きます。


「おお、いやだ。死んだ人間だ」


 人魚は聞き返しました。「にんげん?」


「そうだよ。そいつは人間だ。上の方にうじゃうじゃいる生き物さ。こんなところまで沈んできやがって」


 重ねて、人魚は尋ねます。「人間って、どんな生き物なの?」


「ずるくて、残酷で、どうしようもない生き物だよ」


 そう言われて、人魚はいなくなった人魚の言葉を思い出しました。恐ろしいもの。それは、人間のことだったのでしょうか。


 人魚は、その死骸をまじまじと見つめました。身体は人魚よりもちょうど一回りほど大きいのですが、すばしこく泳げるとは思えません。沈んでくる途中で魚につつかれたらしく、あちこち骨がはみ出した、情けない姿です。人魚は思います。これが、そんなに恐ろしいものなの?


 人間をもっとよく眺めたい、と思い、人魚は手をのばしました。しかし、人魚がつかむより早く、サメやヌタウナギが群がってきました。大きな肉の塊は、めったにないご馳走です。肉をくいちぎり、柔らかい部分にもぐり込んで、あっという間に、人間は骨だけの姿になりました。



 人間の骨の中で、人魚が気にいったのは、腰より下、太い棒であった2本の骨でした。人魚はその骨を手に取り、打ち合わせて鳴らします。こつこつ。こんこん。深海の底で、骨の音が響きます。人魚はそれをひとときの玩具として、クジラの歌と合わせて鳴らしたりして遊んだものでした。


 やがてホネクイハナムシがついてしまったので、骨は捨てられました。しかし、骨を捨ててしまってからも、人魚は「人間」という生き物について、時折考えるようになりました。



 上の方と下の方を行き来する魚たちに、人魚は尋ねます。人間を見たことがある?


 見たことがあるよ、と、魚たちは口々にさんざめきます。


「ここの、ちょうど上の方に、人間たちは島を作ったよ」

「海に浮かぶ街だね」

「人間がいっぱいいたよ」

「永遠の力を手にいれたんだって。それを基に、街を作ったらしい」

「人間は神様になりたいらしいね」

「そういえば、私たちを捕らえて食べなくなったな」


 魚たちの使う言葉は人魚には難しく、言っている内容の半分もわかりません。それでも、耳にとまった言葉がありました。神様。



 いつの事だったか、いなくなった人魚はこう言っていました。


「不死は呪い。私たちが不滅なのは、罰を受けているからなのだよ。いつか神様が私たちを救い、あとかたもなく滅してくれる」


 人魚は、いなくなった人魚のことを思いました。あの人魚は、神様が救ってくれたのでしょうか。そしていつか自分も、神様によって救われるのでしょうか。 


 また、このような事も考えました。ずるくて、残酷で、恐ろしい、とまで言われる人間は、いったい神様になれるのでしょうか。



 人魚は、賢いイルカをつかまえて、以前亀に聞いたのと同じことを尋ねます。「ねえ、人間って、どんな生き物なの」


 イルカは気まずそうに答えます。「そうだね。ぼくらにはわりとよくしてくれる生き物だね」


 重ねて人魚は問います。「人間は、神様になれると思う?」


 イルカは、少し考えて言いました。「生き物が、生き物であるその本性を変えることはできるんだろうか。ぼくには、それはとても難しいことのように思えるよ」


 イルカの言葉は、やはり人魚には理解が及ばないものだったのですが「それはとても難しい」と言ったことだけは分かりました。


 賢いイルカの言うことです。きっと正しいのでしょう。でも。もしかして。あるいは。



 それからしばらくして、深海の底に沈むものに、見たことのないものが混ざるようになりました。触ろうとする人魚を、ジンベエザメが遮ります。


「それは人間の武器だ。危ない」


人魚は尋ねます。「武器? 武器って何?」


「殺し合いの道具だよ。人間は、それを使ってお互いを殺すんだ。今、上の方では人間たちの争いが起きている」


 殺し合い。争い。その言葉は、神様にはどうにも似つかわしくないように、人魚には思えました。


「なんでも、永遠の力を巡っての話らしい。愚かなことだ。いいかい、上の方には、絶対に近づいてはいけないよ」


 ジンベエザメは、いなくなった人魚と全く同じことを言って、ゆったりと泳ぎ去って行きました。人魚は考えます。永遠の力。それは人間を神様にするものだったはずです。でも、そのために争いが起きている。やっぱりイルカが言っていたように、人間が神様になるのは、無理なのかもしれない。人魚は、とても残念な気持ちになりました。



 それからまた、少しだけ時が経ちました。今日はなんだか、周りの景色が違う、と人魚は思いました。ふと気がつくと、黒い、ふわふわとしたものが、人魚の周りに降ってきています。マリンスノウの代わりのように、その黒いものは海中を漂い、見慣れたいつもの景色が一変しました。人魚は大喜びです。なんて美しいんでしょう。


 黒いものは、海底にどんどん積もっていきます。人魚はそれを掬っては頭の上に投げ、掬っては投げ、を繰り返しました。たちまちのうちに、人魚の頭や身体は、黒いもので覆われていきます。何度目かの動作の時、人魚は気づきました。


 上から、何か落ちてくる。


 それは、幾本もの大きな円柱でした。一本一本が目くるむような青の光を放ち、深海の底を照らします。


 人魚は、光を初めて目の当たりにしました。その輝きに、一瞬で心を奪われます。


「びかびかして、なんてきれい」


 円柱は、強く激しい青い輝きを放ちます。その光には不思議な力がありました。目をつぶっていても、まだ青い光が瞼の中を駆けめぐっているのです。 


 物珍しさにダイオウイカが近づいてきましたが、気味悪そうに人魚に言いました。


「その光を見ていると、私はなんだか調子が悪くなってくるよ」


 ダイオウイカが逃げ去った後も、人魚はその円柱の側にいました。青い光は、いつまでも衰えることがありません。何時間、何日経とうが、変わることのない輝きを放っています。


 人魚は、思わず祈っていました。


 神様。神様。


 こんな素晴らしいものを、この海中に授けてくれて、ありがとう。


 これを届けてくれたのは、人間に違いない。人間はきっと、神様になれたのだ。人魚はそう思いました。


 神様にお礼を言いにいこう。


 人魚は見えない海面を見上げました。そして、意を決すると、上へ上へと昇っていくのでした。

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人魚と神様 ごもじもじ/呉文子 @meganeura

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