スピード×スピード

電磁幽体

『§-1』夜九時の池袋はごちゃごちゃとした賑やかな喧騒に包まれていた。


 うろつくガキども。いい年こいた会社帰りのソープ通い。客引きのニーチャンネーチャン。街の光はまるで蛾を呼ぶ無数の灯火。俺はその慣れ親しんだ空気を感じながら夜を歩く。

 今日はガキの人口密度が異常に高かった。まるで引き寄せられるように、とある目的地に向かって歩いてく。それは今日が『レース』の日だからだ。俺もその目的地に向かって歩く。

 ふと顔を上げる。熱にうなされた池袋では、きっと星一つ見つかりやしない。俺は夜空に向かって、意味もなく「ヒュー」と口笛を鳴らす。

 いきなり、がつん、と誰かと肩がぶつかった。

「おいコラいてぇじゃねーかよ。アァ? 慰謝料払えよコラ!」「オレにも金くれ」「オレもオレも」

 なんというステレオタイプの不良たち。今時いねーぞ普通。今日は『レース』で人が集まり金が動くから、こういう奴らの懐も温まるんだろうな、と俺は一人しみじみと。あっという間に三人のチンピラに囲まれた。

 まぁ、構ってる暇は無い。

 俺はポケットに右手を突っ込む。プチッと何かを押し出して、指で摘む。

 財布かナイフでも取り出すと思っていたガキどもは、ポケットから出てきた俺の指が摘んでいるモノを見て笑う。

 それはどぎつい赤色の、一粒の錠剤。

 俺は嘲笑を無視して、錠剤を口に放り込む。奥歯で噛み砕く。言い表しようのない苦さが口内を伝導する。

 ——その瞬間、世界はスローモーションになった。

 四方を歩く人々。笑いながら拳を上げて振りかかる三人のガキ。全てが遅い。

 いや、世界が遅くなったわけじゃない。だけだ。

 五感がフル稼働する。脳内分泌速度、思考速度、神経伝達速度、筋肉収縮速度、……。俺という人間の全ての速度が加速する。肉体のコンディションは一瞬にしてトップギアに。

 左足を踏み出す。地面を蹴る。ガキはまだ拳を振り上げたまま。俺は一瞬にして三人の間をすり抜ける。10m駆けたところで振り返る。ガキどもは俺がそこから居なくなったことに遅れて気づく。

「じゃあな」

 眠たくなるような速度で歩く人々の奔流を掻き分けて疾走する。

 俺は通り過ぎた空間に一筋の風が駆け抜けた。


『§-2』


 ある日、どこかの港の廃倉庫で高校をサボっていたガキの群れがいた。ガキの群れは遊びに興じていた。危ないお薬の掛け合わせ。

 ガキどもには金が無い。良い薬は金が掛かる。だから安い薬を掛け合わせて良い薬を作り出そうってわけ。馬鹿みたいだろ?

 そうして出来た薬。それは作ろうと思っていた薬の失敗作。それでもガキどものジャンケンで負けた奴が一人それを飲む。副作用とかそういうのを一切考慮に入れてない。刹那的な生き方、悪く言えばいつでも死ねる生き方。

 さて、飲む。はいお味は? 味? そのガキに起こった出来事は、——それどころでは無かった。

 飲んだガキの見る世界がスローモーションになった。腕を振る。空を蹴る。その速度だけはスローモーションでは無かった。世界が遅くなったわけじゃない。ガキが速くなっただけだった。

 これは大発見。飲むと超人化して加速する薬。その場のガキどもはすぐにその調合比率で同じ薬を作り出し、飲む。

 ……超人にはならなかった。でたらめな速度の暴走。視覚が暴走して脳みそメリーゴーランド、スプリンクラーのようにゲロぶち撒け。快感だけが暴走してあり得ねえ距離の射精、ギネス記録も夢じゃない。その他色々様々に。感覚がでたらめに先行し暴走する。

 少し経って分かったこと。超人化して加速するためには、全ての速度が均一に加速しなければならない。そして均一加速は努力とかでどうにかなるものじゃない。生まれながらのセンス。持つ者にとってのそれは世界を遅くする。持たざる者にとってのそれはタチの悪い感覚暴走剤。最初のガキは持っていた。それ以外は持っていなかった。ただそれだけ。そしてそれはガキにしか効果が無かった。

 その薬の利権でガキどもは金を稼ぎ、いつの間にか目立った奴が警察にしょっ引かれた。管理のずさんさからその調合レシピは流出。

 神に選ばれしガキをスーパーマンにする薬に付けられた名は『§(セクション)』。お薬スピード速さスピードの掛け合わせ。洒落てる。

 これで『§』誕生秘話は終わり。最後に付け加えると一番最初に加速したのは俺。あの頃はホントに馬鹿だったな。今でも馬鹿だけど。


『§-3』


 俺は二年の夏に高校を中退。あれから一年後ぐらいの今では近くの喫茶店でバイトをしている。

 今の俺はあの頃の俺を馬鹿だと思う。

『人間は幸福を得るために生きるのだから、その幸福を作り出す脳内分泌液を直接得ればいい』という判断のもと、俺は薬に走った。

 今ではこの『§』以外の薬は止めている。便利なことに今のところは『§』には中毒性も無く副作用も無い。ヤった後に死ぬほど体がしんどくなって丸一日眠りこけるだけ。

 ただし今のところは。副作用が突然やってきて明日死ぬかもしれない。でもそれでいい。今『レース』を走れたらそれでいい。昔の俺は薬に幸せを感じて、今の俺は走ることに幸せを感じる。

 何も変わっちゃいない、刹那的な生き方。本当に馬鹿は死ぬまで治らないらしいな。

 加速化された思考を止めた俺は『レース』用の灰色サングラス越しに、俺の横に並ぶ三人の男を見る。三人ともガキどもを束ねるチームヘッド。  

 『§』を使いこなす奴はガキどもの尊敬を集める。それに、一般人が喧嘩で勝てるわけ無いしな。頭の出来た『§』に選ばれしガキは自然と上にのし上がる。

 俺? 俺は人を顎で使うのが下手。だからいい。それに孤高と孤独を読み間違えた一匹狼の方が俺に似合う。

 ……さて、本題の『レース』について。加速しながら喧嘩するのも花だが、すぐに終わっては見てる方は楽しくない。

「速くなったんだし走れば?」

 そんな誰かの一言で一カ月おきに開催されるようになった『レース』。夜の池袋をスタートからゴールまで疾走するお茶目なかけっこ。

 その勝敗でチーム間の色々なことを決めたりする。俺には無縁のお話。勝者には賞金。こっちには縁がある。一位にしか支払われないそれを得れば一か月はメシに困らない。観客のガキどもはチーム取り仕切りのもと、誰が勝つか賭けをする。ダービーレース。

 『レース』参加者の俺たちに取り付けられた発信機はリアルタイムで俺たちの居場所を本部に届けて、池袋中のあちこちにあるカメラを使って俺たちの走りを追跡。その映像は本部でリアルタイムに編集されて、そして観客のガキどもは『見せ場』に置かれたテレビを見て俺たちの走りを観賞する。

 警察のご心配? 大丈夫。今の池袋の治安はありえないぐらい良好。詳しい事は分かんねえけど、『レース』を取り仕切ってるヤツおかげらしい。「池袋の犯罪に走りやすいガキどもを抑えているから、『レース』は見逃してくれよな」と言いながら札束を握らせれば、それでお終い。

 話は終わり。そろそろレースが始まる。横にいるヘッドの一人、ダイキが俺に話しかける。『§』をヤっている奴にしか分からない早口。

「今日こそオレが勝たせてもらうからな」

「三ヶ月連続で俺がメシ代貰ってくよ」

「……お前、チーム作れよ。お前ならオレ以上に人が集まるぞ」

「興味ねーよ。俺は走れればそれでいい」

「謙虚なこった」

 俺は首をコキコキとならす。観客から見ればその首の動きすら高速なんだろう。

 司会者役が車の上に立つ。コインを指に乗せる。

「——待ってください! 私も参加します!」

 ゆっくりとした言葉が聞こえ、後ろを向く。プーマの紺色ジャージ姿の女の子。俺と同じ灰色のサングラス。ハサミで大雑把に切り揃えたようなショート。目隠れてるけど可愛いな。サングラスの下から覗く。

 ……俺の高校の元同級生だった。高校時代のこいつは本当に優等生だった。

 俺は口で言っても早口過ぎて通じないと思うので誰かから携帯を借りて文字を打ち込む。それを見せる。

[飛び入りは一応オッケーだけど『§』出来るの? それに怪我とかしても知らねーからな]

 すると少女はゆっくりとポケットからどぎつい赤色の錠剤を一錠。口に入れ噛み砕き、俺と同じ速度で俺の灰色のサングラスを少しだけはずす。

「心配無用です。星河君」

「分かりましたよ梅野さん」

 手を上げて司会にステイ。

「お前なんでこんなところに。今頃あっちでお受験のお勉強のお時間だろ?」

「……私、負けず嫌いなんです」

「は?」

「私より足が速い同級生、初めて見ました」

「薬キメてんだから当たり前だろ。それにモトな、モト」

「ええ、ですから私もキメてきました」

 苦笑いするしかない、馬鹿一人追加。

 俺は携帯で[こいつ参加。名前はウメな]と打ち込み他の三人に見せて車の上に立つ司会者にぶん投げる。参加決定。

 優等生中の優等生ともあろうお方が、薬に手を出して、更には『レース』に参加。しかも俺に勝ちたいからだとか。

 世の中って不思議だな。しかしなんだか、気分が良い。俺みたいな底辺に嫉妬してくれてありがとな、エリート。そんでまた悔しがってくれ。

「よぉガキども! 『レース』の時間だぜ! 今日はヘッドのサツ、ダイキ、リョウと一匹狼のホシ! そしてなんと可愛い美少女ウメの飛び入り参加だ! 今夜のオカズはこれで決まりだな、ヒャッハー! さぁ、『レース』開幕! 今宵の勝利の女神は誰の手に!?」

 車の上でいきり立つ司会者の長ったらしくて遅い口上が終わる。そいつはコインを指に乗せる。上に弾く。軽い金属音とともに俺の神経はそれに集中し、それ以外の音が消える。地面に落ちると同時に『レース』スタート。じっと待つ。ずっと待つ。

 ……チャリン。


『§-4』


 音と同時に五人は飛び出した。スタートダッシュからトップギアの肉体は一瞬にして、そこに風を置いてゆく。俺は前のダイキから二番目。驚いたことにウメはその俺の後ろ。少しだけあいつの「才能」を垣間見た。俺はすぐさま視線を前に戻す。平坦なストリートを疾走する。

 暗さは全く気にならない。研ぎ澄まされ増幅し加速された肉体。通り過ぎていく観客のガキども。50mを3秒以内で走り抜ける俺の速度、時速60kmオーバー。

 俺は風を裂き疾走する。激しい空気抵抗の壁は幸せの証。アドレナリンはもはや限界を超えて溢れ出している。今にもトリップしてしまいそうな幸福感。それでも俺の表情は冷静そのもの。もっと走りたい、幸せを感じたい。そして、出来れば一位になりたい。だから俺は今を全力で。

 平坦を真っ直ぐ走るだけじゃ、どうあがいてもダイキには勝てない。ただここは学校の運動場じゃない。ここは夜の街だ。

 さて、そろそろかけっこは終わりだ。あるのは建物。『レース』はいわば障害物競走だ。スタートからゴールまで。決められたコースは無い。俺たちが駆ける道が俺たちのコース。自分だけのコースを綿密に事前調査する。戦略は勝敗を左右する。

 俺はそこで道を曲がり歩く人々の間に風を残し、人気の無い駐車場に突入する。塀にジャンプする。横幅15cmのコンクリートブロックの上を疾走し、民家の屋根に飛び乗った。ご迷惑おかけしますね、と住民に謝罪。俺は池袋の夜の街の屋根を駆ける。夜空は曇り。雲の切れ目から望む月。十六夜。餅が食べたくなった。まぁ、勝ったあとでたらふく食えばいい。

 俺は屋根から屋根へと飛び移る。長屋のアパートを助走をつけて高低差を利用し駆け抜けて、狭い道を隔てたマンションバルコニーの鉄柵へとジャンプ。着地と勢いの衝撃を、体を捻り後ろへ飛ばす。俺は鉄柵からジャンプし、すぐ後ろの電柱に突き刺さった鉄棒に手をかける。遠心力を利用し自身の体を半回転。そこで手を離す。俺の体は空中を捻りながら一回転して、垂直上方に飛ぶ。電柱に突き刺さる——これより上にそれは存在しない——鉄棒に、立つように乗り、それまでに蓄えた運動エネルギーを殺さずに飛ぶ。マンションの屋上に着地して、そのまま駆ける。

 この『レース』で重要なのは、高さ。今回のゴール地点は三階立ての民家の屋上。安心してくれ、どこかのチームのガキ提供の家だ。

 ここで高さを稼いでおけばゴールする時は飛び降りるだけでいいし、何より道を走るのは曲がりすぎて非効率的だ。俺の頭の中には池袋の街のパースがぎっしり入り込んでいる。勉強は出来なかったが、毎日毎日頭に叩き込めば流石に俺でも出来る。努力はした。だからそのパース、今回の『レース』に勝利するためのコースはもう出来ている。俺は今、そのコースを駆けている。

 さっきの屋上を飛び、更に屋上を駆けている時、横に人影を見つけた。俺と同じ様に走り、俺と同じ高さの屋上を駆けている少女。

 ウメ。驚いた。初めての『レース』で、この俺と同等……。

 ウメは確か、高校時代の陸上での走りの速さは有名だった。勉強も出来て運動も出来る学校内のスーパーアイドル。ただ、この『レース』はそんなお遊びじゃない。下手すれば落下して死ぬかもしれない、命を掛けた馬鹿みたいな戦い。俺は今、走ることを生き甲斐にしている。『§』を使いこなす才能は元からあった。ただ、正直に言って、俺にはあまり『レース』の才能は無かった。『§』を得た後に俺は『レース』に対する喜びを知った。才能が無い俺は走りに対するは努力を惜しまなかった。

 なのにウメは……。悔しいが、あいつの走りをちょっとだけ見ても分かる。あいつには『レース』の才能がある。絶対的な才能が有る。

 俺には無い。ああ……、くそっ……。


『§-5』


 俺は高低差を稼ぎ、七階建てマンションの屋上を疾走していた。俺の遥か後ろの地表にはダイキ。単なるダッシュは俺たちの中でもトップクラスだが、高いところのトリッキーさの場合は一番下。俺に勝つには百年はえーよ。

 今日の敵は、体がクソ柔軟なサツと、『レース』の絶対的な才能を持つウメ。

 俺は七階建てマンションの屋上から四階建てマンションの屋上へとジャンプ。斜め上方。夜空を飛ぶ。

 観客のガキは『見せ場』にいる。『レース』に参加するヤツらは全員全ての『見せ場』を通らなければ失格だ。

 まぁ、他のヤツらは下の三階建てアパートを駆けていたと思うが、俺は七階建てから四階建てを飛翔中。ガキどもが全員度肝を抜かしているのがありありと分かる。だってこの道幅、18mはあるからな。

 俺はたっぷりと滞空しGを味わい風を感じ、四階屋上に両手から着地。衝撃を、両手を引き寄せることによって受け流しそのまま縦に転がる。下方向の衝撃を緩め、下方向の衝撃を進行方向に移動させ、二回転後には普通に走っていた。

 遠くからゆっくりとしたガキどもの歓声が聞こえてきた。


『§-6』


『レース』開始から3分11秒が経過したことを俺の体内時計が知らせる。俺の見込みではゴールまで、あと30秒。

 俺は駆ける。今走る場所では屋上の高度が似たようなマンションが多い。俺は今、八階建てを失踪中。

 俺は途中でコースが合流したサツを追い抜かした。ウメは、俺と併走していた。俺の右側を、独自ルートで駆けていた。

 身長も普通。体格も普通。普通の可愛い女の子にしか見えないウメ。ただし、絶対的な才能を身に付けていた。

 フォーム、ジャンプ、着地、受身、衝撃方向の変換、ダッシュ、戦略考察。全てが完璧に近かった。とても初めての『レース』とは思えなかった。

 ——だからどうした。俺は今気づく。俺は『負けたときの言い訳』を考えているに過ぎなかったのだ。ウメには才能が有り、俺には才能が無い。俺は自分のちっぽけなプライドを守るために、そんな詭弁を必死に繰り出していたに過ぎなかったのだ。

 そんなことどうでもいい。勝てばいい。負けたくないなら、勝てばいい。

 だから俺は、無謀としか言えない戦略(コース)変更をした。

 ゴールの三階建て一軒家の屋上。その家を囲むようにそびえ立つ難関。大きな八階建ての幅広マンション。そこを攻略する二つのルート。右回りか、左回りか。どちらにしろその幅広を回りきるために大量の時間をロスする。

 俺はそこで第三のルート。上から攻めることにした。十一階からの八階への大ジャンプ。道幅27m。残り15秒。


『§-7』


 階段を疾風の如き速度で三階分。屋上へと続くフェンスを飛び越える。ここから端まで13m。階段を上った所為で、蓄えられた運動エネルギーはいまやゼロ。俺は走る。全てをかなぐり捨てて走る。風を裂き風を纏い風を取り残す、正真正銘の全力疾走。空気抵抗の壁を強引に走り破る。

 足に力を込め、斜め上方に十一階から夜空へと、飛ぶ。

 空中の世界はスローモーション。慣性と重力と空気抵抗に為されるがまま。


 ——その時、俺は重大な事実に気づいた。走りに夢中になり過ぎて、肝心なことを忘れてたのだ。八階建ての幅広マンション。急斜面の三角屋根。

 屋上が無かった。

 ……終わった。俺は死ぬ。後悔よりも馬鹿らしさが心を支配した。心が真っ白になった。

「ここまで走ったんだ。もう、いいだろ?」


『§-8』


 俺の体は上昇を止め、重力に引きずられてゆく。夜空に落ちてゆく。俺は声を上げて笑う。嗤う。嘲笑う。笑いすぎて泣けてきたぜ。嬉しいなぁおい、馬鹿が治るぜ。ファック。

 こぼれ出た涙は上へ上へと舞う。両手を広げて、星が掻き消された夜空を臨む。高く飛ぼうが関係ない。街の熱気はそこに在るはずの光を見えなくする。引きつった笑みで俺は、下を見た。

 ——空から見る池袋はギラギラと輝いていた。ごった返した光の奔流。汚くて眩い——

「ヒュー」

 ああ、綺麗だな……。

 ふと、心の中にウメのことが思い浮かぶ。このまま死んじまえば、そう、“俺の負け”だ。

 真っ白になったはずの心がぐちょぐちょとした汚い色に染まりきった。にやけてきた。心の奥底で何かが芽生えた。諦めでは無い。しぶとさが。

「——まだ、生きてーな」


『§-9』


 俺は八階建てマンションの壁面スレスレを落下していた。飛び出した俺の推進力は、俺をここまで導いてくれた。

 バルコニーが目の前を上に通り過ぎようとする。俺は右手でそれを掴む。歪な音を立てて、右手の骨は折れる。落下は止まない。ただ、少しだけ落下速度が下がった。また上に過ぎ去ろうとするバルコニー。今度は左手でそれを掴む。さっきと同じ様に左手は折れた。落下速度はまた下がる。そして過ぎ去ろうとするバルコニー。ここで俺はそろえた両足を引っ掛ける。そのまま落下エネルギーは背中に移動し、壁に激突した。

 両腕が死ぬほど痛い。背中もめちゃくちゃ痛い。

 それでも俺はまだ生きている。それでも俺はまだ走れる。

 バルコニーから即座に起き上がり、部屋を見る。無人。人の住む気配無し。管理人さん、後で金払うから。

 俺は窓を蹴破り部屋を駆け、扉を蹴破り廊下を駆ける。ここは、五階だった。俺はそのまま廊下から飛び出し、直接ゴール地点の三階建て民家にジャンプ。きちんと受身を取ったつもりだったが、両手が骨折して使えなかったため両足が骨折した。

 見事一位。みなさん俺を見て感動を通り越して呆れてる。俺も呆れてる。

 数秒後にウメがゴール。華麗に着地すると俺を見て驚いた。

 俺はにやつきながら言葉を紡ぐ。

「俺の勝ち」

 言い終えると同時に世界が真っ暗になった。


『§-10』


 俺は闇医者に担ぎこまれて、ここは病室。真っ白い空間。両手両足を吊り上げられながらベッドの上に。そして病室に咲く一輪の花のごときパイプ椅子に座ったウメさん。真面目で純情そうな澄ました顔が、崩れた。

「むむ〜。星河君、勝ち逃げは許しませんよ」

「梅野さんや、怪我の心配してくれよ」

 天才サマの剥き出しの嫉妬が、凡人の俺にはひどく心地イイ。しばらくその目つきで居てくれないか。

「そういえば言われてたお餅、持って来ましたよ。今食べます?」

 そうだな、勝利の祝い餅ってことで。

「あー、でも俺両手縛られてっから食べれねー」

「いいですよ。私が食べさせてあげます。星河君、赤ちゃんみたいですね。お口を開けてください。喉に詰まらせないでくださいね。はい、どうぞ。あーん」

「当てつけかおまっ!? オイやめブゲホッ! ゴホッ!」


『§-END』

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