エピローグ
雅季が家を出る前に訪問を告げたにもかかわらず、玄関のドアを開けた久賀は、まだ半信半疑といった面持ちで、目の前に立つ雅季を見ていた。
それもそうだろう。
土曜日の朝、十時前。
久賀は、オーバーサイズの生成りのティーシャツに、ゆとりのあるカーキのリネンパンツ姿、ことに素足で、完全に休日モードだ。
雅季は勢いでここに来てしまったことを一瞬後悔したが、勇気を振るい起こして、食料品の入ったエコバッグを掲げて見せた。
「あのっ、いつかの朝食デリバリー……の、お返しです。どうぞ。フルーツとか、美味しいチーズとか、厚切り食パン、コーンフレーク、バリエーション豊富に揃えています」
久賀はバッグを受け取って、苦笑した。
「重かったでしょう。ありがとうございます。こんなところであれなんで、とりあえず入ってください」
久賀は傍に避けて雅季を促す。雅季が躊躇していると、エコバッグをシューズボックスに置いてから、軽く雅季の腕を引いて中に導いた。
締められたドアと久賀に挟まれて、急に鼓動が速くなる。
久賀が自然な動きでドアに片手をつき、二人は無言で見つめあった。暴れる心臓が口から飛び出しそうだ。のぼせたように頰が熱い。
普段、久賀といる時には、他の異性に持つ恐怖を感じたことは一度としてなかった。
しかし、こんな間近で見下ろされると、恐怖とは別の、疼きのようなものが湧いてきて、胸が苦しくなる。
どのくらい見つめあっていたのだろう。長く感じたが、たぶん数秒ほど。
おもむろに久賀が尋ねた。
「もしかして、まだ痣が残っているんですか」
久賀の切なげな眼差しが、首に巻いたスカーフに留まっている。
「あ、はい。もうほとんど消えましたけど……これはこれで、日焼け対策にもなりますし」
雅季は努めて明るく答えた。
「今日は、お休みですか?」
「え、ええ。でも、用事があるので、これでおいとまします。久賀さんも、せっかくのお休みですし……、お洗濯とかお買い物とか……」
必要以上に並べていた言葉は、久賀が少し身を屈めた途端、途切れた。
耳元で、久賀が囁く。
「うちに、朝食を持って来ただけじゃないですよね」
激しい鼓動を聞かれてしまうのではないかと案じて、雅季は無意識にドアに張り付くようにして、ノブを握っていた。
「わ、私、もう行かないと……」
声がかすれていた。
左肩に久賀の手がそっと置かれ、一瞬息を呑む。
「まだ、喉の調子が良くないんですね」
刹那、スカーフ越しに、優しく押し付けられる唇の感触があった。
思わず目を瞑った。ショルダーバッグの持ち手をギュッと握る。
ゆっくりと首筋を上下する唇の温もりが伝わり、やがてそれが徐々に体に広がり始めると、雅季の呼吸は浅くなった。
何度か同じ道を往復した唇が、微かに耳の付け根の肌をかすめた時、雅季は細く息をついた。相手が静かに身を引く気配に、雅季は目を開ける。
肩にあった手も離れていく。急にできた距離に、雅季は寂しくなった。でも、彼は雅季に逃げ道を作ってくれただけだ。
「引き止めてしまって、すみません。用事、間に合いますか」
久賀は何事もなかったように、自然にエコバッグを手にした。
そうだ、彼は自分に、いつだって全ての思いを見せてくれている。
今も、そう。
それなのに、自分はそんな彼の優しさに甘えて、逃げ続けている。
雅季はドアノブから手を離し、鍵をひねってロックした。
かちゃん、という硬質な音が自分の心にも大きく響く。久賀の目が一瞬見開いた。
もう逃げられない。もう、逃げたくない。
「用事は……、別の日でも……。特に約束していないんです」
久賀は柔らかく微笑した。
「じゃあ、まず朝食にしましょうか」
検事 久賀丞已2 〜Make a promise〜 久保ちはろ @Chiharo
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