第5話



 翌日、孫策が現われた。


「周瑜!」


 満面の笑みである。

 側の朱治と黄蓋、そして兪河ゆかがとても眠そうな顔をしているというのに、孫策は大元気である。


「会いに来た!」


 庭先に、垣根を掻き分けながらやって来た孫策を、並んで茶を飲みながら話していた耀淡と周瑜はぽかんとした顔で見る。

「伯符殿……貴方は城で用事があったのでは?」

「……というか伯符、ちゃんと通路から入ってきたらどうだ。見てみろ、君が掻き分けて来たところに跡がついてるぞ」

「公務終わらせて会いに来た! 軍議はちゃんと出たぞ! 俺はえらい!」

「他の公務は平気なのか? 謁見とかあった気がするけど」

「どうしても会いたい奴は寿春まで来いっ! って置き手紙残して来た」

 周瑜が半眼になる。

「またそんなことをして……張昭殿にまた叱られるぞ策……」

「そんな重要な用事なかったもん」

「牛渚の水軍の視察は明日だろう?」

「うん。こっから行く。行って、こっち戻って来る。周瑜も一緒に行くか。二人で遠乗りしよう!」

 朝の太陽の中で、キラキラと嬉しそうな孫策は輝いている。

「玉座に座っても全く変わりませんね、伯符殿は……」

 耀淡は苦笑した。

「すみませんが我々、小一時間寝かせてくだされ……夜じゅう飛ばして、寝ておりませなんだ……」

 よろよろと肩を組みながら、黄蓋と朱治は部屋の中に入って行く。


「よーう! 緋湧! 元気だったか!」


 池の側で中の鯉を熱心に見ていた緋湧が、孫策に気付いて駆けて来る。

 ここで会うと思ってなかったみたいな反応である。ぴょんぴょんと嬉しそうに後ろ脚を跳ね上げて、孫策の足に低い体勢でじゃれついた。

「伯符殿は一日も貴方と離れていられないようですね」

 くすくすと笑っている耀淡に、周瑜も微笑む。

 そのうちに「策兄さまの声がするー!」と元気よく香凜の声が聞こえて来た。



◇ ◇ ◇



 結局、その日一日寿春の城で過ごし、翌日孫策と周瑜は牛渚の水軍砦に発つことになった。


 甘寧が船を用意したので、それに乗って一気に長江を遡上した。


 牛渚に着くと、早速呉の水軍が船で隊列を作り、一行を出迎えた。

 呉の各地に幾つかの水軍拠点はあるが、この牛渚の水軍砦が、最大規模である。

 ここは向かい合う対岸の合肥で、董卓軍と向き合う戦線でもあるのだ。

 有事の際には、すぐさまこの砦の水軍が動き出す。

 最前線に相応しい、ぴりとした空気の中、整然と出迎えられ、孫策は満足した。

 舳先に周瑜を招き、二人で見下ろす。

 遠くに見えて来た港には、周泰と呂蒙の姿があった。

 この出迎えは彼らの計らいなのだろう。


 江夏で水軍を鍛え、この牛渚に送り込む。


 長江はいつも、呉に利益と恩恵をもたらす。

 だが、侵略を行うのなら、この大河は厚い壁となって敵の前に立ち塞がるだろう。


 守るべき国。

 守るべき戦いをする、孫策の国に、本当にこの地は相応しい。

 明るく夕日に輝く長江の水面と、そこを守る兵達を、周瑜は穏やかな眼差しで見つめる。

 船尾の方で眠っていた緋湧が目を覚まし、舳先まで駆けて来た。

 寄り添う孫策と周瑜の側にやって来ると、四つ足をぴんと伸ばして立って、目を細め、黄金色の太陽を気持ち良さそうに正面から浴びた。

 それを見て、孫策と周瑜が顔を見合わせ、額を寄せ、笑い合った。

 鈴の音が響き、舳先の左右には甘興覇と陸伯言がそれぞれ立つ。

 孫策が腕を上げて兵達を労うと、





 オオォ――――ッ!!





 水軍全体が喊声で応える。

 一瞬低く身構えた緋湧も、釣られるように天に向かって咆哮を上げた。

 兵達の覇気を感じ、

 戦う意志は、生きる意志と同じなのだと周瑜は思った。

 だとしたら、自分をあの死の底から救い上げたのは、紛れもなく片時も離れず側で祈ってくれた男が、不屈の戦う意志を内に秘めた、そういう男だからなのだと思う。




(……ありがとう)




 孫策の腕の中に抱かれながら、周瑜の心は満たされていた。




◇ ◇ ◇





 翌日、牛渚砦で一夜を明かした孫策は、朝から膨れた。


 このまま今日は寿春に戻るつもりだったというのに、寿春に行ったと聞いた謁見を願う人々が、どうやら孫策が牛渚砦に戻って来ているようだとここに詰め掛けて来たのだ。

 中でも嫌だったのは、反董卓連合に参戦する時に孫家に兵を委ねて共に挙兵してくれた、江東連合の豪族たちが来たことだ。

 彼らは一番最初は孫策の父親である孫堅に兵を委ね、孫堅が亡くなったあとも、周家の後ろ盾があったとはいえ、誰も欠けることなくそのまま孫策の指揮下に入ってくれた。

 それどころか、孫策にとって個人的に恩がある、という理由で参戦した反董卓連合にも、兵を送ってくれたのである。

 勿論、その江東連合は北方で呂布軍と遭遇した時に全滅しているから、その戦いで自分の父や、息子や、兄弟を失った者がほとんどなのだが、彼らは孫策の戴冠を祝い、再び董卓軍と戦う時には兵を喜んで送ると約束してくれた者達なのである。

 つまり、孫策とは切っても切れぬ関係で、孫策は彼らには多大な恩があるし、彼自身も友情を感じ、会いに来た時は他の何を後回しにしても会いたいと思う者達なのだ。

 周瑜も戴冠式で会ったが、ここでも再会し、なにやら妃殿下に大病があったと聞いたが、お元気なようで安心したと、彼らは安堵した顔になった。

 話しているうちに、それぞれの豪族たちが自分たちの軍の様子を見て欲しいと言い始めて、断れなくなった孫策は、そのまま建業でも寿春でもなく、江南の方に向かうことになったのである。



「……策。我慢だぞ」



 心の中で膨れているのが分かる顔をしている、孫策の頬を周瑜が撫でてやる。

「……分かってる」

「違うな。我慢じゃない。あの戦いで打撃を受けた豪族たちが、また戦う意志を取り戻して兵を鍛えてくれている。嬉しいことだろ?」

「うん」

 孫策は寒くて袖の中に突っ込んでいた手を抜き出して、溜息をついた。白い息が出る。

 もう出立の準備は整ってしまった。

「……本当にお前は来ないのか? 別にいいんだぞ、あいつらだって是非二人揃ってきてほしいって言ってんだし」

「うん。でも君が帰らないなら、私は建業に帰らないと。

 あまり二人とも居城を留守にするのは良くない」

 孫策ははぁ……とため息をついて、しゃがみ込み、緋湧の背に顎を乗せて凭れかかる。

「悪ぃ……。俺がお前を追って寿春に行ったりしたから。そんなことしなけりゃ、お前はもっと寿春でゆっくり出来たのにな。ごめんな、周瑜」

 そんなことを言った孫策の優しさに周瑜は微笑んで、同じように反対側から、しゃがみ込んで緋湧の背に顎を乗せた。

「気にするな。私はちゃんと義母上に元気な顔を見せたかっただけだ。それが出来たからいいんだよ。

 それに義母上が建業にまた近々来て下さると言ってた。

 私のことは気にしないでいい」

 額を寄せて、軽く触れ合う口付けをする。

「すぐ建業に戻る。遅くても、五日……いや、四日で」

 うん、うんと周瑜は頷いてやった。

「建業で君の帰りを待ってるよ」


 

「虎の背中でイチャつく奴ら初めて見たなー」



 甘寧がやって来る。

「いつまで拗ねてんだよ、小覇王。もう準備整ってんだろ。さっさと行けよ」

 彼はしゃがんでいる孫策の首根っこを掴むと立ち上がらせた。

「おめーは本当に周瑜がいねえとヨレヨレになんだなぁ」

 呆れた甘寧がぼやいている。

「甘寧将軍、君主の首根っこを掴むのは止めた方が良いかと」

「うるせぇ。てめーは俺と釣り対決で負けた分際だろ陸遜。俺に負けた奴は全員俺の舎弟なんだよ。いいか、これからは俺を敬い、舐めた口を利くんじゃねえぞ」

「はい。分かりました。それでは甘寧将軍こそ早く妃殿下の護衛部隊の指揮を取っていただけますか」

「おめー全然分かってねえだろ!!」

 それが舎弟の口の利き方か? と甘寧が睨みを利かせても、陸遜は全く相手にしない。

 代わりに甘寧の纏う激しい気配を不快に思ったのか、ぐるぅ、と足元で緋湧が唸り声を上げた。

「おっと。また足に喰いつかれる!」

 甘寧が孫策の襟首を放して、駆け出して行った。


◇ ◇ ◇

 


 馬に跨る。


 五日か……。


 周瑜は騎乗した孫策を見上げた。

 こんな出先で言っても、大騒ぎになるだろうし、これから用事をしに行く孫策が集中出来ないだろう。

 彼が城に帰って来たら、子供のことを打ち明けようと周瑜は考える。

「じゃあな。行って来る。

 陸遜、呂蒙。――あと甘寧! しっかり周瑜を城へと送り届けろよ!」

 陸遜と呂蒙が一礼する。

「では、参りましょうか。殿」

 黄蓋と朱治が馬に乗ってやって来た。

「すっかり支度も整いましたから……と。どうしました?」

「最低でもまたあと四日、周瑜に会えなくなることが不意に決定して俺はがっかりして元気が無くなった……」

「はっはっは! まあ、しかし、兵も皆、あなたに会いたがっているのです。

 顔を見せてやってくだされ」

「分かってる……。」

 孫策は髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。

 周瑜の側まで馬を寄せて来る。


「あー! うだうだ言ってても仕方ねえな! よし、行くか!」


 オオッ、と隊列が呼応した。

 孫策がもう一度最後に周瑜を見下ろす。

「行って来る。お前も気を付けて戻れよ」

「うん」

 手を繋いだ。

 温かい手に、それでも孫策がまだ落ち込んでいて、一生懸命周囲にこれ以上気を使わせないように元気を装っているのも分かり、周瑜は頑張っている孫策が可愛くて仕方なくなった。



「策」



 なにか、いつものように彼を早くきらきらさせてやりたいと思い、周瑜は馬上の孫策を手招いて、耳元でつい、打ち明けてしまった。


 子供が出来た、と告げると、孫策は本当にごく薄い青灰色せいかいしょくの瞳を丸くして、きょとんとした顔を見せる。

 それは、全く不意を突かれた顔で、幼く、周瑜を微笑ませた。


「だからはやく、元気に建業に戻って来るんだぞ」


 優しく、周瑜が送り出すように孫策の手を離した瞬間、本当に孫策が突然支えを失った人かのように、ころんと横向きに馬の背から転げ落ちた。


「わ――――っ!!? 孫策どの!!?」


 孫策が落馬する姿など、今まで一度として見たことの無い武将達が、衝撃的なその姿を目撃し、思わず悲鳴を上げる。

「どうしました!? 立ち眩みですかな!?」

 黄蓋も、朱治も、呂蒙も陸遜も、他の兵達も慌てて落ちた孫策に駆け寄る。

「さく! 大丈夫か?」

 まさか孫策が落ちると思わなかったのは、周瑜も同じである。

 彼女も慌てて駆け寄り、辛うじて受け身を取って、後頭部強打を回避したが、まだよく自分の身に起こったことが分かっていないらしく、目をぱちぱちしている孫策に手を差し出した。

 周瑜と視線が合う。



 ――ほんとに?



 幼馴染みの彼らは、言葉もなく、目で語り合った。

 問われた周瑜が、孫策の無事を確認して、目を眇め、微笑む。


 ――――ほんとうだよ。


 数秒後、孫策は素早く飛び起きて、周瑜の身体を思い切り抱きしめた。


「ほんとうか! 周瑜!! やった!」


 いきなり笑って喜び始めた孫策に、兵達はびっくりしている。


「おれたちの……」


 喜びが込み上げて、吹き出して来る。




「あははっ! やった――っ! 俺たちの子供が出来た!」




 ざわ、と周囲がざわめくが、孫策は周瑜だけを見つめていた。

 周瑜も、孫策のその顔に浮かんだ喜びから、目が離せなくなった。


 ずっと一緒に生きて来たけど、こんなに嬉しそうな顔は、初めてだ。




「周瑜! 俺たちの子供だ――!」




 土の上に仰向け転がって、孫策は抱き締めた周瑜を自分の身体の上に乗せたまま、思い切り歓声を上げた。



 木霊こだまする空は高く、薄く、蒼い。




 どこまでも遥か遠くまで続いている。






 





<終>

 







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

異聞三国志【比翼の鳥】 七海ポルカ @reeeeeen13

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ