第4話
寿春への道中は順調だった。
穏やかに晴れ渡り、まだ風は冷たかったが、確かに初春の気配を感じる。
長江沿いをゆっくりと西へ向かう。
左手に見える川の水面は、長閑に光り輝いていた。
◇ ◇ ◇
一日をゆっくりと使い、翌日寿春に着いた。
今は寿春を居城に暮らしている、孫策の母、
「しゅうゆー!!」
駆けて来方が孫策と全く同じで、周瑜は笑ってしまった。
「久しぶり! 本当に元気になったんだね!」
嬉しそうに周瑜の身体に飛びつく。
「香凜殿、心配かけてすまない」
「本当に心配したんだよ。でも、策兄様が一緒だったから、きっと大丈夫だって私思ってた!」
昔から、孫策が「兄弟の中で一番父親に似て豪気なのは香凜」と言っていた通り、この孫家の末の妹は、いつも元気だ。
「陸遜! 兄さまから貴方のこと聞いたわ。お義姉さまを守ってくれてありがとう。
あなたいい人ね!」
率直な物言いの彼女に、陸遜は琥珀の瞳を瞬かせてから、深く頭を下げた。
「恐れ入ります」
「きゃーっ!
香凜は陸遜の側に行儀よく座っている虎を見つけて駆けて行った。
香凜の頭など、本気になれば一噛みで砕けそうなだけに、側で見ている者達は虎にしがみついた彼女にハラハラする所だが、生憎呉の兵達は孫策や周瑜が緋湧に寄り掛かって寝たりしてるのを見慣れているので、全く心配していない。
「もこもこーっ♡」
虎とも再会して、嬉しそうである。
「香凜。そんなところで立ち話をしないの」
やんわりとした声がして、全員が振り返り、すぐに深く一礼した。
孫堅夫人である耀淡である。
「周瑜」
彼女は嬉しそうに、歩み寄って来た周瑜を抱き締めた。
「まあ、本当に。貴方が目を覚まして良くなったことは伯符殿から聞いていましたけれど。
本当に元気そうで安心しました」
「義母上。ご心配をお掛けしました」
「貴方が目覚めないと聞いた時は本当に、心臓が止まるかと思いました。
けれど、香凜の言う通り。
貴方の側には伯符殿がいましたから。
決して貴方を脅かす者の好きにさせたりはしないと、私は信じていましたよ」
顔を見れば分かる。
本当に、耀淡は自分の無事を祈ってくれていたのだろう。
幼い頃から彼女のことは知っている。
母親を早くに亡くした周瑜にとっては、まさに、母親と言われて思い浮かぶのは耀淡なのである。
「陸遜殿。貴方のことも伯符殿から聞きました。
危険を冒しながらも、周瑜の為に働いてくれたと。
深く感謝いたします」
「光栄です。奥方様」
礼儀正しく、陸遜は深く頭を下げた。
耀淡は、陸遜と孫権の不仲を知っている。以前から聞いてはいたし、建業の城ではこの前、目の当たりにした。
彼女は母親として、孫権の見識をはなから疑うようなことはしたくない。
ただ無論、まだ十代の孫権が何もかも、間違いなく道を歩んで行けると思い込むほど、盲目ではなかった。
……何より、孫策はこの陸遜を信頼しているようだ。
しかし、今回陸遜は命を懸けて周瑜を救ったのだから、これで孫権の感じ方も、変わって来るだろう。
「さぁ、皆どうぞ中に入って。ゆっくりくつろいでください」
耀淡は穏やかに微笑むと、一行を招き入れた。
◇ ◇ ◇
その夜、周瑜は耀淡と二人だけで、暖炉の側で過ごしていた。
耀淡が周瑜の笛を聞きたがったので、周瑜は笛を吹いた。
吹き終わると、耀淡が胸を撫で下ろす。
「義母上?」
「いいえ……。本当に綺麗な音で。安堵しました。周瑜。
貴方の笛の音が昔と変わらず澄み切っているということは、貴方は健康だけではなく、心の安堵も取り戻しつつあるのでしょう」
周瑜は微笑んだ。
暖炉に掛けた器から杓で湯を掬い、温かな茶を淹れ直す。
「……さすがは耀淡様です」
聞かずとも、周瑜に盛られた毒の本質を、鋭く見抜いているようだった。
「貴方は強いひとです。周瑜。その貴方が、今回は目覚めた後もしばらく公の場に出ることも出来なかった。
伯符殿が一人で寿春に来ましたし、あれは、貴方の無事を報告しに来ただけではないのだと私にはすぐ分かりました。
しばらくは、静かに貴方を休ませてやって欲しいと……策は、そうは言いませんでしたけど、伝えたかったのはそれなのだと思ったのです」
「……ありがとうございます。義母上」
「周瑜」
耀淡は手を伸ばして、周瑜の手を握った。
柔らかな女の手だが、やはり周瑜の手は何かが違う。
豪傑と謳われた孫文台の妻として、彼の子を三人生んだ耀淡だからこそ、分かる。
あの孫策が迷いなく戦場に連れて行くのだ。耀淡は城で、弓で遊んでいる周瑜くらいは見たことがあるが、戦場で実戦に臨む彼女を見たことはない。
それでも、この城にいても、周瑜の武勲は耳に入って来る。
孫策はついに、教えてはくれなかったが、耀淡の考えでは、何か周瑜が幼い頃から実戦に関わっていたのだろうと思っていた。
だが、実際に同じ時を過ごしていた耀淡は、全くそれには気付かずにいた。
孫策にも気後れをしない、非常に気丈な娘だなとは幼い頃から思ってはいたが、さすがは名門周家の血筋、と考えたのはそれくらいである。
『周瑜は大丈夫だ』
孫策は耀淡に、いつもそう話した。
『周瑜が戦いを望まなくなったら、俺にはそれが分かる。
少しでもあいつの中に、戦うことに迷いが出た時は、必ず戦場から身を引かせる。
でも、そうでない限りは、俺にも戦い抜くためにあいつが必要なんだ。
幼い頃から、ずっとそうだった。
今、突然始めたことじゃない。
周瑜はちゃんと考えて、心を決めて、俺達武官と同じ手順で、戦場に出てる。
周瑜は俺の妻だが、戦場では俺は、信頼出来る自分の参謀として扱ってる。
そうなると、俺は昔から分かってた。
周瑜が自分の妻になることより確かなものとして』
耀淡から聞かされた孫策の言葉を、周瑜は温かな気持ちで聞いていた。
孫策は直接、周瑜にそういう言葉を与えてもくれるけれど、他の場所で、他の人間に聞かせる言葉でさえ、彼の周瑜に対する信頼は、少しも揺らぐことはない。
……自分もそうだ。
周瑜はふと気づき、くす、と笑った。
「周瑜?」
手を繋いだまま、耀淡は首を傾げた。
「実は、今日寿春に来たのは、義母上にお話ししたいことがあったからなのです」
「わたしに?」
「はい……。」
周瑜は自分でも何か不思議な心境のまま、慣れないその言葉に戸惑う心を鎮めて、耀淡の顔を静かに見つめて、告げた。
「まだ医師には見せていないのですが、……恐らく、子が出来たようです」
さすがに耀淡は驚いたように目を見開いた。
だが、握った手は離れず、そのまま周瑜の手を力を込めて握り締めた。
「まぁ……周瑜それは……」
「はい。月の障りが途絶えたので、そうではないかと思うのですが。
母が生きていれば、聞きに行ったのですけど……。養父上は今も親しくしてくださいますが、さすがに伯符殿が王となられ、周家とは臣下の関係になってしまいましたから……。こういうことはどうも相談しにくくて。
かといって、いきなり城で言っても、大騒ぎになるような気がしたので、こういう時、どうすればいいのか、義母上に助言をいただこうと思って来たのです」
聞いている間に、耀淡はようやく少しずつ、状況を飲み込んだようだった。
「ごめんなさい、驚いて。
ああ……、でも、本当なのですね? 周瑜……」
耀淡は立ち上がり、向かい合っていた所から、周瑜の隣へとやって来て、その身体を抱き締めた。
「驚きました。勿論、先だってのことがあったので、まずは、貴方が健康を取り戻すことが何よりかと……。月の障りは……いつから?」
「はい。身を起こせるようになってからなので……二月になります」
「そうですか」
ようやく、そこで耀淡の顔に喜びが広がった。
「それは間違いないでしょう。勿論、きちんと宮廷医師には診ていただくべきですが……。
策にはもう話したのですか?」
「いえ、まだ……」
おや、と耀淡は思う。
珍しいことだ。この二人は、幼い頃から姉弟のように何でも秘密なく話して来ていた。
こんな大事な話をまだしていないなど、意外である。
「……先だっての毒術の件は、紛れもなく、私の命を狙ったものです」
周瑜は暖炉の火の方を見て、少しだけ声を低めた。静かに話す。
「毒の詳細を、伯符殿から?」
「いえ。あの、氷のような状態から醒めた後は、ずっと酷い発熱に襲われていたとは聞きましたが」
「毒の仔細を、陸遜が随分調べてくれました。
あの毒術は、毒と同時に、呪術の要素も含んだ、特別なものであったようです」
「呪術?」
「はい……。毒はきっかけに過ぎず、身体の機能を低下させ、呪術の効力を最も有効的に発揮させるように……。
私は熱に魘される間に、酷い悪夢を見ていました。
夢は、……伯符に関することで」
ぎゅ、と無意識のうちに周瑜の、耀淡の手を握る手に、力が宿ったのが分かった。
「私の咎や、過ちで、彼を失う夢を」
火に照らされる周瑜の横顔には、静かな怒りの気配があった。
それが何に対する怒りなのかは分からなかったが、唇を引き結んで闘志にも似た怒りを帯びる横顔は、耀淡の目にもひどく美しく映った。
幼い頃から周瑜を知っている耀淡は、孫策と子犬のようにじゃれ合って、無邪気に笑っている周瑜をよく知っているから、多分孫策が深い恋情を向けるのは、この顔に対してなのかもしれない。
「そうして、私を、私自身に失望させて、絶望させて――もう二度と目覚めることの無いように、そうさせる……そういう呪術でした」
「では、刺客を放った者は、伯符殿の命を、真に狙うものだということですね」
火を見つめていた周瑜が、耀淡を振り返る。
「策は呉を建国しました。江東平定は成ったのです。
私には策の考えなど、及ばないものですが……進撃するにせよ、統治するにせよ、策には貴方が必要なのです」
【孫伯符というあの男は、星宿においては天軍の位に位置し、数多の車騎を従え、<平定>と<潰走>をもたらす、戦神のこども】
陸遜の師は、孫策は覇権を狙う<星>だと、危険視したという。
周瑜はそうは思わなかった。
(だって、そう感じる)
この季節に、触れ合った時に、孫策が今ある平穏を、心から喜んでいることをちゃんと感じられる。
孫策が戦うのは彼が武門に生まれ付いたからだ。
彼は野心で剣を振るっているのではない。
今までは、江東平定という、夢があった。
それが成った今、孫策の目は、統治に向かって動いているはずだ。
国の境を敵が踏み越えれば、防衛の為に討っては出るが、決して無意味に他国を侵略などはしない。
ただ、世界の平穏を脅かす董卓だけは別だ。
あれを野放しにしていれば、自分たちだけが幸せ平穏になれるなどということは決してない。
孫策は戦神の子供なんかじゃない。
領地を守り、家を守り、息子を守り、自分の軍兵を守る為に戦っていた孫文台の息子だ。
(<統治>に膿むような器じゃない)
周瑜は信じることが出来た。
でも……。
『俺達は二人で一つ』
周瑜は、孫策を失って生きようと思うことが出来なかった。
だから孫策も、きっとそうなのだ。
「あの、恐ろしい呪術から醒めた時、自分が生きて、孫策の側にまだいられることを、私は天に感謝しました。
そして、孫策がいれば、もう何もいらないと、心の底から思ったんです。
それはきっと、子供のことも含めてだった」
「周瑜……」
「だから、……信じられなくて。
伯符の子供が欲しいと、ずっと思っていたけど、出来なかったから……。
それが、もうその願いすら、心の底から手放した今……」
「願いを手放したから、子が出来たのではありませんよ。周瑜」
耀淡は微笑んだ。
「願いはいつでも、手の中に置いておくのです。
ただ時が満ちたから、この喜びが手に入ったのです」
周瑜は難しい顔をしていたが、耀淡のその言葉を聞いた時、ようやく呪縛が解けたように、表情が綻んだ。
耀淡も周瑜の身体を、もう一度抱き寄せる。
「伯符殿と貴方の子が出来たなど……
周瑜が埋もれた耀淡の胸から顔を上げると、彼女の頬に涙が伝っていた。
周瑜は子供が出来たかもしれないと自分で思った時、嬉しかった。
今まで待ち望まれていただけに、間違いで、周囲を落胆させてはいけないと思ったから、彼女は押し黙っていたが、日が経つごとに、一つずつ、間違いや思い過ごしではないのだと、真実が近づいて来る。
その喜びは、堪らなく幸せだった。
ただひたすら嬉しいという一心だったが、耀淡のその涙を見た時に、不意に胸が詰まって、想いが込み上げて来た。
彼女が言ったそのままの通り、
幼い頃から自分の娘のように側に置いて、時に膝に乗せ、大きな手で頭を撫でてくれた男の姿が脳裏に浮かんだのだ。
どんな風に喜んでくれたのか、それを知りたくて、……でも知ることが出来ないという悲しみが、周瑜の瞳から零れ落ちる。
耀淡は周瑜の瞳から流れた涙を、笑わずにいてくれた。
胸に抱き寄せ、頭を撫でてくれる。
自分の本当の、育ての母親だと思う女性の、温かい胸に抱かれながら、自分がこの人が好きだという気持ち以上に、この人が孫策の母親だと強く思えることが、自分を一番安心させるのだと思った。
その夜、耀淡は「今日は一緒に寝ましょうか」と笑って、周瑜を自分の寝室に招いた。
耀淡は温かな女性だったが、彼女にそういうことを言われたことは周瑜は一度もなかったので、言われた時には驚いたが、あまりにその言い方と発想が孫策に似ていて、周瑜を微笑わせてくれた。
初めて、母親の胸に抱かれて眠ったその夜はとても温かくて、母親というものは温かい身体をしているんだなあと、周瑜は微睡みながらそう思う。
(わたしも生まれてくる子供に、こんな温かさを教えてあげたいな)
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