第3話



「俺は最近、周瑜が好きだ」



 その日の昼下がり、孫策は弓の修錬場にいた。

 最近はのんびりとした毎日が続いているが、孫策は武門の長として、武の修錬を一日たりとも欠かしたことはない。

 一緒にいたのは淩統と、太史慈たいしじ、それに朱然しゅぜんである。

 彼らは気心の知れた軍の仲間として、和やかに弓の技を競い合いながら遊んでいた。

 その中でも、やはり孫策の弓の技は随一で、その孫策をして「周瑜の弓術は俺の遥か上」と言わせるのだから、軍の中でも周公瑾の武は、「女だから」などという言葉で決して卑下はされなかった。

 美しい射の姿勢から、同時に撃った矢が小さな的をどちらが早く撃ち抜くかという遊びをしていたのだが、誰も孫策には勝てず、その上単なる的を撃つにも飽きた孫策が敢えて相手の射より遅く打ち込み、相手の飛んでる矢を叩き落とすという芸当をやってのけると、さすがに男達はこれでは相手にならんな、と笑っていた。

 そんな和やかな空気の中、突然孫策がそんなことを言ったので、三人ともきょとんとする。

 中でも淩統は、きょとんとしたあと、怪訝な顔をした。


「……最近……?」


 何を今更、という感じだからだ。

「いや……策様何言ってんすか。あんなにいつも熱烈に愛し合ってるの見せつけといて今突然好きになったみたいに言わないで……。ずーっとあなた愛妻家でしょ……」

 確かに、と太史慈が笑っている。

「そーじゃねえよ! 最近ますますって意味だ!」

「はあ、そうですか」

「殿の所は仲が良くて羨ましいです。私も許嫁は幼馴染みですが、やっぱり駄目ですね。どうも色気のある展開になりませんし、気心が知れているからこそお互いの嫌な所も遠慮なく出してしまう。私の所は喧嘩ばかりですよ」

 朱然はぼやいた。

 彼は朱治の甥だが養子で息子になっている。

 折角養子にしてもらったのだから義父のように、立派な武将にならなければと、日々頑張っている二十歳過ぎたばかりの青年で、淩統の同世代だが、色々と悩みはあるらしい。

「そういうこと、ありませんでしたか。生意気なのです、幼馴染みの女というのは。戦功を立てて、家に帰ると、近所の女は誰もが立派になったと誉めて憧れてくれるのに、その女だけは全く俺を誉めもしないし。今更お前になど驚きはしないという、あの態度が腹立ちます」

 孫策は腕を組んだ。

「ん~……? そうかぁ……?

 俺は周瑜を生意気だって思ったこと、一度も無いけどなあ」

「一度もないんですか!?」

 朱然が衝撃を受けている。

「失礼ながら、五歳くらいから出会われたんですよね?」

「うんそうだ。まあ、仲良くなるまでは確かに生意気だと思うこともあったぞ。あいつ昔から男勝りだったしさ。俺は周家の令嬢の護衛を頼まれてんのに、あいつは側に護衛が張り付くのなんか嫌だとか言って、俺のことすぐ撒くんだよ。そんで隠れて逃げ回るから、その時はこのクソやろー! とか言ってた。 

 けど、あいつそもそもその時<男>を演じてたしな。

 俺も相手が男だと思ったから、何てムカつく奴だと思って追い回してたけど、女って分かってからは、やっぱなんか違くなった。

 仲良くなってからは、一度もない。

 だってあいつ凄いんだ。当時から文武両道だったし、何やっても俺より勝ってた。

 自分より勝ってる相手に生意気だとか、思えんもん」

「なるほど……」

義封ぎふう。あんまり参考にはならぬと思うぞ。

 ここは女人の格が違う。

 普通の女は男より武に秀でていないし、軍策も練らん」

「確かになぁ。普通あんな何年も音信不通になってる男をずーっとずーっと信じて、しかもいじけもせずきっと帰って来るって目をキラキラさせて信じてくれる女なんかいないと思うぞ」

「私の女は五日連絡しないと浮気をしているのだろうとか疑って来ますよ」

「おまえなぁ」

 孫策が弓で朱然を指差した。

「五日で浮気を疑われてたら、俺は何万回周瑜に浮気を疑われなきゃなんねえんだよ。

 そもそも人と人としての関係性が出来てねえよお前のところ。

 幼馴染みの女とどう付き合うかとかいう次元じゃねえよそんなの」

「確かに……」

 朱然はしゃがんで溜息をついている。

「あれだろ。大方親父の……朱治しゅちの勧めの許嫁なんだろ?」

「はい……」

 案の定、頷く。

「義父の用意した許嫁を断りたくない気持ちは分からんでもないが、そんなでいいのか。朱然。

 遊びの女じゃなくて、妻だぞ。

 いずれお前の子供を生んでくれる相手なのに、そんな信じれなくていいのかよ。

 それに、お前のそういうのがもしかしたら相手に伝わってんのかもしれんぞ。

『好きじゃないけど、親父の決めた相手だから仕方ないか』みたいな空気」

 朱然はハッとしたような顔をする。

「……そうでしょうか?」

「分からんぞ~。女ってのは空気を読むからな。

 まず、お前がちゃんと相手の女を敬ってない。それが駄目だ。

 一度ちゃんとそいつと話して来い。結婚のこととか、将来のこととか。本音でな。

 それでやっぱり嫌な女だと思ったら、俺に相談しろ。そしたら俺から朱治に一言言ってやるから。お前は養子とはいえ朱治の息子だぞ。朱家を継いで行く男だ。なんとなくの気持ちで女と付き合うな」

 朱然はいつの間にか立ち上がって、びしり、と敬礼した。

「はっ! ありがとうございます! 一度、そいつとがつんと話して来て参ります!」

 少し彼は気が晴れたようだ。

「良かったね」

 淩統が声を掛けている。

「ああ。そりゃやっぱり、心から好きだって思う相手と一緒になりたいからなあ」

「まあそらそうだ」

「太史慈の所だって良妻賢母だぞ。仲がいいって韓当が言ってた」

 孫策が言うと、太史慈が朗らかに笑う。

「私の所は妻が平凡なのですよ。こんな私でも立派だと敬ってくれる。ありがたいことです。

 孫策殿の所とは違い、あれは家のことしか出来ないですから」

「普通家のことをしてくれる妻はいい妻だよ」

 孫策が笑うと、太史慈も頷いた。

「そうですな。私にはあれでも勿体ない妻ですな」

「けど、周瑜殿って前から策様と一緒に戦場に出てたってわけじゃないんでしょ?」

 淩統が引き絞っていた矢から手を離す。

 的の中央を射貫いた。

「ああ。袁術の所から逃げてから、一緒に参戦するようになったからな。

 それまでは周瑜もちゃんと家のことしてくれてたぞ。

 周瑜は料理も裁縫も上手いんだぞ! 最近はこういう暮らしになって、料理をする機会も無くなったけど、今だって寿春や江夏に戻ると、周瑜が料理作ってくれる。

 この城でも菓子は作ってくれるしな。

 庭の手入れも自分でするし、動物の世話も好きだし、周瑜はすごいんだ何でも出来る!」

 孫策は力一杯目を輝かせて自慢をした。

「確かにすごいなあ。それでいてあの美貌で。あんな見事な女人を俺は見たことがありませんよ」

「へへ。そうだろそうだろ。もっと周瑜を誉めていいぞ朱然」

「誉めてもいいけど憧れるだけにしときなよね。横恋慕なんかしたら多分ハチの巣にされちゃうよ」

「よ、横恋慕なんかしませんよ!! 主君の奥方に向かって!」

 少しだけ周瑜を思い出すようにしてぽわん……という表情をした朱然に淩統が釘を刺すと、彼は慌てて首を振った。

「分かってんじゃねえか淩統。周瑜にしていいのは憧れるまでだからな手を出したらどこのどいつだろうとあそこに立たせてハチの巣にするからな。っていうか粉微塵にするからな」

「粉微塵!? 弓で!?」

「そうだ。俺は粉砕してやる」

「弓で殺す時の表現じゃないっすよね」

 太史慈が声を立てて笑った。

 一瞬威嚇するような凶暴な気配を纏った孫策だが、すぐに焦がれるように溜息をついた。

「……最近おれは益々周瑜が好きだ……。時々あいつのことを想うと胸が苦しくなることもある。俺は恋の病かもしれない……」

「恋の病って……また今更なことを……長いっすねえ策様の恋の病……全然治ってねえんじゃないの?」

「仲がいいのは、良いことだと思いますが」

「そうだけど、周瑜が側にいない時にあいつのこと思い出すとたまらなくなる……。

 別に遠征とか、別の城に離れ離れになって一カ月とか、そういうことだけじゃなくても、例えば軍議の最中とかでも周瑜がいない時とか、同じ城にいるのに同じところにいないと落ち着かん。

 もう軍議なんかどうでもいいから今すぐ周瑜の所に走り出したくなるんだ。

 会議を説教で無駄に長引かせる張昭とか、無駄に話の長い文官連中とか、ホントたまに殴りたくなる……。

 張昭の長いお小言も嫌いだ。頭叩きたくなるが、老人に乱暴するような男は周瑜に嫌われるから、じっと我慢するけど、正直目つぶししてやりたい……」

「老人に目つぶしは止めましょう、殿」

「主に張昭さんに身の危険が迫ってることはよく分かった。でもあの人も譲らないからねえ。

 俺みたいな若造が『ちょっと先生、静かにしてたほうがいいっすよ』なんて言おうもんなら俺が多分目つぶしされると思う」

「孫策殿と周瑜殿は本当に、比翼の鳥と言うべきですな。

 ただ仲のいいご夫婦というだけではない。

 お互いがお互いの糧となって、共に生きておられる。

 不思議ですなあ、元々は他人の男と女が。

 私も、あなた方ほど仲のいい二人というものを、見たことが無い。

 これは例え、男同士や兄弟だったとしてもです。

 お二人の関係は言葉には言い表せぬ。

 他にない、特別なものであると、私の目には映りますが」

 太史慈がそう言うと、孫策は溜め息をついていた顔に嬉しそうな表情を浮かべた。

「そうか。お前にそう言ってもらえると、なんか嬉しいな」


 比翼の鳥か……。


 孫策は微笑む。


(俺は、周瑜の望む事は何でも与えてやりたい。

 そう、出来てるかな?)


 思うことの答えは、いつも周瑜が自分に見せてくれる表情や眼差し、触れる時の愛情深さや、今朝の……寝所でのやり取りを聞いていた時の、自分の幸せだなと思う気持ちが、全て肯定してくれた。


「……俺はやっぱり、周瑜が大好きだなあ……」


 改めてそんな風に、幸せそうに言った孫策を、三人は微笑ましそうに見遣った。

「そういえば、そういう公績はどうなんだ」

 朱然が淩統を見た。

「どうって?」

「俺にだって許嫁がいるんだ。お前にも好きな女くらいいるんだろう」

「そういや、お前の話は俺も淩操から聞かされたなあ。

 女にモテまくって、調子に乗ってんだって? 淩統」

 孫策が思い出したように笑う。

「ちょーっと! 誰よそんなこと言ってんの! 父上!?」

「あいつはお前を心配してるだけだ。息子が全然身を固めようとしないって、ぼやいてたぞ。

 俺は別にそんなの、小うるさくはなりたくないからお前を注意しないけどな。

 まあ、ただ……ほどほどにしとけ」

 孫策は吹き出して笑った。

「してますよ! ほどほどに!」

「お前日替わりで違う女と会ってなかった?」

 朱然がけらけらとからかっている。

「誰がそんなこと、した覚え…………まぁ、あるっちゃあるけど、でも俺は別に彼女ら弄んでるとかじゃないですから。それこそ心から好きになれる子を探してるんですよ。運命の相手をね」

「ほう。そうか」

「物は言いようだよなあ」

「朱然お前あそこの的の前に立て」

「いやだね」

「はっはっは! 俺の軍でもお前の話は聞いたな。だが決して悪い噂というわけではない。

 お前は淩操将軍の子として期待されているんだよ。あの方はこれからの呉軍の中核を担う方だ。お前は息子で、同じように武に優れている。

 ぜひ娘をお前に娶ってもらいたいという話を最近よく聞くようになった」

「そうだな。俺もお前は今は遊び歩いてても、決める時は決める気がする。

 この前の瑯邪ろうやで二週間ほどお前と過ごしたけど、お前チャラチャラしてるように見えて所々やっぱ根は真面目なんだなって思う部分あるもんな。確かに淩操に似てる所あるよ」

「俺は普段から、硬派っすよ……」

 淩統は唇を尖らせた。

「へぇ。それじゃ運命の女ってのは見つかったのか?」

「見つかりましたよ。俺は今は彼女一筋なんで」

「何だそうなのか?」

 孫策は意外そうな顔をする。太史慈も、朱然もだ。

「好きな女がいるのか。なら何故淩操に言ってやらない。言えば喜ぶのに」

「あー父上に言うとはしゃいで、すーぐ結婚だなんだとか言って来るからヤダ。

 俺はまだ、色々と恋愛楽しみたいの」

「そうか、お前にそういう相手がいるってのは知らなかったな」

「いるっていうか、出来たっていうかね……」

 照れ照れしている淩統に、孫策は腕を組んだ姿で笑った。

「相手はどこの誰だよ。淩操は父の代からの忠臣だ。変な女には惚れんなよ淩統」

「綺麗なひとですよ。そら策様の周瑜さんには敵わないですけど。でも俺には、彼女の笑顔はこの世で一番綺麗に見える」

「へえ~~~~そんな女いたかなー。誰だよ。城下町の女か?」

「お前には教えねえ」

 ビシッと指で朱然を示して、淩統が断った。

「うん。だが、皆こうして家庭を持って行くのはいいことだ。

 あとは……呂蒙や徐盛あたりか。話を聞かんのは。

 ああ。あと甘寧も誰か相手はいるのかな?」

 太史慈が首を傾げると、淩統は半眼になる。

「呂蒙さんや徐盛さんはともかく鈴野郎の心配はいらないっしょ……。そもそもあいつに『家庭』とか『妻』って概念が存在してんのかも謎だし……。

 あいつの場合人間同士の恋愛っていうよりどちらかというと動物の交尾に近いような気がすんだけど」




「だーれが動物の交尾だよ」




 上から突然声がした。

 見上げた樹の上に甘寧がいる。

「あんたいつからそこに」

「おまえらがここに来る前からここ陣取ってた。

 ったくお前ら修錬場でなんつー話してんだよ。

 孫策まで揃って、惚気やがって。

 何が比翼の鳥に、恋の病だよ。甘ったるすぎて砂糖菓子の夢見たじゃねえか」


「甘寧! お前今まで色んな場所で色んな女見て来ただろ。

 周瑜より美しい女見たことあるか?」


「あー?」

 孫策がにこにこと甘寧を見上げている。

 甘寧は器用に枝の上に寝そべって、肘を付いて大きな欠伸をした。


「いや。いねえ。容姿じゃあいつが一番だ」


 腕を組んで、孫策が笑った。

「だろ? けどな、容姿じゃ、っていうその言い方は気に食わん。

 周瑜は容姿も性格も心映えも何もかもが世界一の女だ!」

 甘寧はおかしそうに唇を歪めて、下ではしゃいでいる孫策を見下ろしている。

「惚気んなって言ってんだろ。

 あとな。俺は好きな女は特にいねえ。その時その時で抱きたい女も変わる」

「皆さんこれが山賊ですよォ。山賊の考え方ですよ~!」

「てめー誰が山賊だ。俺は水賊だって何回も言ってんだろ。次言い間違えたらシメるぞてめぇ」

「どこに引っかかってんだおめーは!」

「陸遜などはどうなんだろうな。大きな世話かもしれんが」

 太史慈が甘寧を見上げて、同じように時々木の上にいる陸遜を思い出したようだった。

「んー。まぁ、あいつは色々と複雑な事情を抱えてるからな。

 面倒を見なけりゃならん相手もたくさんいるし」

 孫策も腕を組む。

「いい男だぞ。仕事も出来るし、よく気が付く奴だし、ああ見えて実は細やかだ。

 顔もいいから女にはモテると思うんだがな。

 なにぶん、地上でじっとしてる時間の方が短いからな」

「はは……そうですな」

「けど、あいつは陸家の一人ですから」

「そうだな。陸康殿がそのうち、相応しい縁談でも持って来るんだろうな」

「あいつは早く結婚でもした方がいいんですよ。フラフラしてるから、孫権殿などにも疑いなど掛けられるんです」

 朱然が言うと、淩統が唇を尖らせる。

「なにそのカッチーンて来る言い方」

「立派な家庭を早く築けば、孫権殿も張昭殿も自然と信頼なさるようになる。

 あいつは、人に信頼されようという気持ちが無いのがいかん」

「義封」

「ん? なんだ」


「お前とはもう、絶交!」


「いてっ!! なんだ! 公績! なんでお前が怒って蹴って来る!」

「俺の前で陸遜を悪く言うなっつの!」

「なんだよ。お前いつから陸遜とそんなに仲良くなったんだよ」

「ついこのまえ!」

「一緒に山登りしたからなあ」

 遣り合う二人を見て、孫策がおかしそうに笑っている。

「陸遜はそうなんだよ。一緒にいると、信頼出来る奴なんだなっていうことがちゃんと分かる。

 あいつはいい奴だよ。陸家六道とかいう業みたいな使命背負ってるから、どうしても自由に自分の気持ちとか表に出せないでいるけどな。

 本当は優しい心を持ってる。

 権もそのうち戦場に出る。そうしたら陸遜を信頼するようになるだろうよ」


「策様! 俺一生貴方について行きますから!」


 淩統がぎゅっと孫策の手を握った。

「おう。てか突然なんだよ」

「そうですよね! 陸遜は使命を背負ってるから自分の気持ちを上手く表に出せないんですよね。本当はきっと、言いたいこととか、好きとか、恋もしたいに決まってる」

「蘇州の陸家は名門中の名門。嫁ぐ相手は誰でしょうなあ」

「嫁ぐっていうか、個人的には俺ぜひ嫁いでもらいたいっていうか」



「あっ!!」



 淩統に手を握られていた孫策が突然声を出した。

「周瑜の気配がする」

 え? と三人の男が孫策を見た。甘寧が後ろを振り返り、数秒後、修錬場の入り口に現われた周瑜を見て、大笑いした。

「すげえ……」

「さすがですなぁ」

「つーか何で今分かったんすか? 気配ってなによ……匂い? 足音?」


「しゅーゆーっ!!」


 元気いっぱいに孫策が駆けて行く。

 周瑜は笑いながら、犬みたいに駆けて来た孫策を抱き留める。

 一拍遅れて、修錬場の入り口に陸遜が姿を見せ、一礼してそこに控えた。

「策。ちょっといいか? 今から寿春に行って来ようかと思ってるんだ。

 今日は時間が出来たから。

 義母上ははうえに久しぶりにお会いしたい。

 この前のことでも、随分心配を掛けてしまった……。春になったらまた色々と忙しい。今のうちに会っておきたくて」

「そうか……そうだな。」

 孫策は頷く。

「お前のことは、本当に心配してた。顔を見せれば安心すると思う。

 陸遜、後回しに出来る公務は、後回しにしてやってくれ」

「――はい。先ほど張昭殿、張絋ちょうこう殿とも相談し、そのように計らいました」

「そうか。身体は大丈夫か?」

「うん。丁度いい、運動になる。馬に乗って行く。心配するな、馬車も連れて行くし無理なことはしないから、君は安心して……」

「――ちょっと待て。なんだその俺が留守番するような前提の話し方は」

「? 留守番だろう?」

 孫策は衝撃を受けたような顔をする。

「冗談じゃない! 俺も行くぞ!」

 淩統が額を押さえ、朱然は交互に孫策と周瑜の顔を見て、太史慈と甘寧が声を出して笑っている。

「いや、俺も行くぞって君はでも、今日は定例の軍議が……」

「なら、明日一緒に行こう。軍議終わってから……」

「殿。明日こちらに、山越さんえつ族の<いつくび>の首長たちが謁見に……」

「陸遜余計なことを言うんじゃない。俺はさっきお前はいい奴だと言ってやったというのに何の仕打ちだそれは」

「? ……はい……。申し訳ありません……?」

 陸遜は何のことか分からなかったが、一応、頭を下げた。

「それに三日後には牛渚ぎゅうしょの水軍を見に行くんだろう? 私も、寿春の帰りにあそこには寄ろうと思ってる。その時に会おう。一緒に水軍を見るか?」

「見る。でもその前の寿春も一緒に行く」

「駄目だってば……」


「いーやーだー」


「こんなに絵に描いたような駄々を見たことある?」

 いつの間にか陸遜の隣に立った淩統が、腕を組んで顎で示す。

「はい。私は結構」

 陸遜は普通に答えた。

「あ……そう……。そうなんだ」

「俺も付いて行くぞ軍議なんかあいつらで勝手にやらせる。いーだろ太史慈! どうせ定例報告なんだから!」

「いいだろと言われますと、俺にはいいぞと答えにくいですが……」

「いいだろ朱然!」

「太史慈さんに頷けないことを俺に聞かんで下さい、策様。義父ちちにぶっ飛ばされるのは嫌です」

「いいだろ淩統!」

「いや、定例報告会はダメなんじゃないっすかね……。色んな戦線から武将も来ますし。

 それにみんな策様の顔みたいでしょ」

「そうだぞ、策」

「なんであと一週間後くらいに話してくれないんだよ公瑾。そしたら時間できるのに」

 孫策は子供みたいに膨れた。

「なんか珍しく喧嘩になりそうな気配だね」

 陸遜に耳打ちすると、彼は後ろ手に手を組んで、一瞬だけ笑みを見せた。

「さぁそれは……どうでしょう」

「ごめん伯符。君はついこの前寿春に行ったから、今回はいいかと思って」

「行ったぞ。でもあれはお前が目を覚ましましたの報告だから遊びに行ったんじゃない。すぐ帰って来たし。

 周瑜と出かけるのはまた全然別の楽しみなんだ!

 何度だろうが俺は好きなんだ」

「ごめん。そんなにがっかりすると思わなくて」

 周瑜はさすがに少し気まずそうに孫策の手を取った。


「……日程、改めようか?」


「……。どうしても今日行きたいのか?」

「行きたいというか、思いついたんだ、今朝。今日は午前中で公務が終わりだったし、よく晴れてたから……忙しくなる前にって」

 二人で空を見上げる。

 確かに最近寒かったのだが、今日はよく晴れて小春日和だ。

「……。」

「……。」

 全ての者が口を閉ざす。

「……。わかった」

 随分重要な決定を下す時のように、孫策は頷いた。

 ぽふ、と周瑜の頭に手を置く。

「お前も今のうちに馬に慣れておきたいだろうしな。

 母上とゆっくり話もしたいんだろ。

 行って来い」

 一度そう言うと、孫策は膨れるのを止めて、笑みを浮かべた。

「その代わり、道中気をつけるんだぞ。普段は俺はこういう仰々しいのは嫌いだけど、今回は護衛もたくさんつける。――陸遜!」

「はっ!」

 陸遜がその場に膝をついた。

「お前を周瑜につける。いいか。素性不明の奴は絶対に周瑜に近づけるな。頼むぞ」

「かしこまりました」

 頷いて、拝命する。

「すまん。伯符。私にあんなことがあったから、いつもより心配してくれてるんだな」

「……まぁ、そうだな。前回も俺が華陽に行ってる留守をやられたし、もっと言うとその前の袁術だって、俺が遠征してる留守に、お前を持って行かれた。

 ……なんでか知らんが、俺とお前が離れるとロクなことが無い」


「それはまあ、比翼の鳥だからじゃないですか?」


 淩統が声を掛けると、孫策は苦笑した。

「そうだな」

 それから、周瑜の身体をしっかりと抱きしめる。

「俺達は二人で一つだ。長い間離れてるとダメになる」

 孫策の身体が温かい。あと、ずっとここにいたからなのか、太陽の匂いがした。

「それを絶対忘れるな。周瑜。いいな?」

「うん。分かってる。」

 それは、今回のことでも周瑜自身、思い知ったことだ。

 孫策を世界から取り上げられると、周瑜はさほど、強くはいられない。

「私も十分注意する。それに義母上の居城に行くんだ。大丈夫だ」

「そうだな。注意は周囲の人間がする。周瑜は気にするな。ゆっくりして来い」

「うん」


「甘寧! お前も付いていけ」


 樹の上でうつ伏せになって、またうつら……とし始めていた甘寧が、呼ばれて「ん?」と目を開いた。

「なんで俺が……前にも言っただろォ。俺は護衛戦はあんま得意じゃねえんだよ。

 どうせならこう、大戦の前線を斬り込んでいくやつとか少人数で敵の本営に斬り込んでいくやつとか、思う存分暴れて来いみたいな仕事が好きだってお前には何度も、」

 文句を言おうとした甘寧に、下から見上げながら、孫策が腕を組んで仁王立ちした。

「甘寧。俺はお前を気に入ってっけどな。言っとくが、俺が言った『周瑜を守れ』っていう命令に嫌そうな顔をする奴は、俺の軍にはいさせねえからな。

 そこは目を輝かせて『喜んで行ってきます』か『有り難き幸せ』と言うところだ。

 返事どっちだァ! 断ったら城から放り出すぞ。あとこの樹も今すぐ切り倒してやる」

「どっちも甘寧が言ってるとこ見たことないなー」

「人生でんな言葉一度も使ったことねぇよ」

 甘寧がよっ、と樹から降りて来る。

「仕方ねえなあ。まーここにいても眠いだけだからな。引き受けてやるよ。

 けど、俺と陸遜じゃ、まるで董卓の首でも取りに行くみてぇな布陣だな」

 孫策が吹き出す。

「行くなよ! 甘寧。今回は寿春に遊びに行くんだからな!」

「寿春かぁ。あそこは魚が旨い。

 よーし釣りするぞ。陸遜、お前も付き合えよ。

 お前がカルガモの雛みてーにいつもピィピィ連れてるあの六道の連中連れて来い。

 俺の側近とお前の軍で釣り大会だ!」

 早速そんなことを言った甘寧に、淩統はハッと我に返った。

「ちょーっとなんでこいつが陸遜と!!」

「なんでって、甘寧ははやいから、何かあった時に頼りになる。

 こいつと陸遜なら間者相手にも迂闊に手を出させないだろうし」

「俺だって、早いですよ馬術は!」

「……いや、悪いがお前は山道非常に遅かった……」

 淩統が衝撃を受けてる。

「ひどい! あんな非常識な山を登らせといて! 普通の人間は早いとか遅いとかじゃない! あんな山登りませんよ! 俺は登り切ったのによくやったの一言もない!」

「一言が欲しいみたいですね」

 陸遜が拗ねた淩統の意を察して、助言をした。

「あーごめんごめん悪かったな。お前はよくやったよくやった」


「心が全然籠ってない!」


 孫策がぞんざいに返すと、淩統は気に食わなかったらしい。

 太史慈と朱然が大笑いしてる。

「惜しかったなあ、公績。あの時もっと自分は使えるって策様に売り込んでおけば、今回も使ってもらえたかもしれないのにな」

「うるさいよ!」

 からかう朱然に怒って返す。淩統は最後の希望のように陸遜を見た。

「陸遜からもなんか言ってよ……。

 俺は護衛得意だって。どっかの馬鹿みたいに敵を見つければ猪突猛進なんてことはしない」

「釣り大会したいよなあ? ボン」

 甘寧がにやにやしつつ、陸遜の頭をぽふぽふと叩いている。

「いえ。釣り大会は別に重視しませんが、全てをお決めになるのは陛下です」

「それに淩統、お前だって定例軍議出る予定じゃなかったか? そうだよな?」

 太史慈が頷く。

「そうだぞ淩統」

「あんなもんただの報告会っしょ! 最終的に飲み会みたいになるくせに! 全然重要じゃないよ! 知らない年上のおっさんばっかと飲んだって気ぃ使うだけで全然楽しくない!」

「……数分前に同じような光景を見た気がするのですが」

「見たな」

 周瑜が淩統を見て笑っている。

「しかもさっきはあいつ『定例会は重要だ』みたいなことを言って俺を諌めなかったか?」

 孫策は半眼になって髪を掻いてる。

「どの面下げて全然楽しくないとか言ってんだ。

 だめだ! お前は俺と留守番組だ。さっき俺の味方をしなかった罰だぞ淩統。

 お前は俺と軍議に出て、知らない年上のおっさんに気を使いながら飲むの!」


「いやだ~!! 陸遜ー!!」


 孫策にずるずると引っ張られて淩統が退場していく。

 太史慈と朱然も、周瑜に深く一礼してから、修錬場に去って行った。

「ったく、あいつうるせぇったらないな」

 陸遜の頭に頬杖をついて体重を乗せながら、甘寧がぼやく。

「お前随分懐かれたなあ、陸遜」

「懐かれたと言われるとどうなのか分かりませんが……」

 陸遜は苦笑している。

「すまんな、陸遜。甘寧。付き合わせるが」

「いえ。お気遣いなく。早速支度を整えて参ります。

 甘寧殿、護衛部隊を組織していただけるでしょうか」

「俺とお前がいりゃそれだけで大丈夫だろォ」

「いつもは、それで殿は笑って許して下さるでしょうが、今回はダメですよ」

「お前は生真面目だなぁ。こういう時ほど笑いながら普通のことをするんだよ」

 甘寧は不敵に笑ったが、それには小さく頭を下げただけで陸遜は答えなかった。

緋湧ひようを連れて行こうかな。最近寒いのに回廊でずっと外を見てるんだ。外に出たいのかもしれない」

「あのでっかい方の虎、俺の足をいつも噛むぞ」

「緋湧は戦の気配が嫌いなんだ。私から見ると、お前は戦気というものをよく自分の中で普段は上手く飲み込んでいると思うけど、動物はやはり人より敏感なんだろうな」

「まー俺は戦の匂いプンプンだからなあ。陸遜、お前はあいつに噛まれたことはあるか?」

「いえ、私はまだ」

 甘寧が何故か笑っている。

「動物は勘が鋭いな」

 甘寧はくっく、と笑いながら、修錬場を去って行った。

「?」

 陸遜は首を傾げている。

「分からないか? 不思議だと言ってるんだよ。甘寧は多分」

「不思議?」

「私達から見ると、六道の長であるお前と、甘寧は似ている。孫策もさっき言ってただろう。『お前と甘寧がいれば、間者系には強い』と。

 甘寧も戦場外では、少し他の者とは違う動きをする」

 陸遜は何となく、察して、頷く。


「人はそうお前たちを見るが、緋湧は違うのが、面白かったんだよ」


「ああ……」

「俺は噛まれるのに、お前は噛まれないのかと」

「そのうち噛まれるかもしれませんよ」

 陸遜は苦笑した。

「私の思う限り、私も怒りや殺気を飲み込む術は学んだつもりですが、その点、自分の中で飲み込む術を心得てるということに関しては、甘寧将軍の方が遥かに上です。

 あの人はどこでも笑える。戦場でも、例え死線の上でも」

 そうだな。

 周瑜も頷いた。

「伯符もそういう所がある。でも、伯符は緋湧に噛まれたことはないぞ」

 彼女は微笑って、陸遜の肩を軽く叩いた。

 歩き出す。


「緋湧はお前が喜んで戦っている人間とは違うということが、分かっているのかもしれないな」


 陸遜は数秒瞳を瞬かせたが、周瑜の後ろ姿を見送ると、深く一礼して、その背を追った。



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