綾錦の栞
平賀・仲田・香菜
綾錦の栞
「ママ。この栞、すごくきれいだね」
小学生にあがったばかりの娘が手に持つのは私の栞。大切だけど、存在を忘れてもいたそれは、色付いたモミジを透明なシートで挟んだ手製のものだ。
それを見て思い出すことがある。幼稚園からの幼馴染、明日羽ちゃんだ。背が小さくて頭がちょっと足りない夢見がちな女の子だったと記憶する。だけど私は彼女のことが少しだけ、ちょっぴりだけ、苦手に思っていた。決して嫌いなわけではない。それは断言する。
私と明日羽ちゃんとモミジの栞。これらの関係は思い出すたび、私の心は時雨にうたれるよう。不意に目を向けた窓の先は昼だというのに薄暗く、本当に時雨が降りそうな面持ちであった。
ーーー
「未来ちゃん。明日羽ちゃんはちょっとお勉強が苦手だから、教えてあげて?」
「いいよ」
「ありがとう! 未来ちゃん!」
物覚えの悪い明日羽ちゃんに勉強を教えるのは、本当は嫌だった。
「みーくーちゃん! あーそーぼ!」
「また遊びに来たの?」
「だって私と遊んでくれる子、未来ちゃんしかいないんだもん」
私はもっと他の子とだって遊びたかった。
「未来ちゃん、明日羽ちゃんにはパパがいないから優しくしてあげてね」
「はあい」
「若いお母さんだけで大変ねえ」
当時は特に気にしてはいなかったが、明日羽ちゃんはいわゆる母子家庭であった。
「どうしたの? 明日羽ちゃん」
「ママがね……ううん、何でもないの」
「そう」
明日羽ちゃんとママが上手くいってないのは、子どもながらに何となく気が付いていた。
「私、もう帰らなくちゃ」
「待って未来ちゃん! もう少しだけ一緒に公園で遊ぼ? まだ帰りたくないの……」
ネグレクト、という言葉を知ったのはあの頃からずっと後の話だった。
小学生の間は未来ちゃん未来ちゃんと呼ばれ、ずっと明日羽ちゃんの手を引いて歩くのが日常であった。しかしいつまでもそんな生活が続くこともなく、私たちが中学校に進学する頃には自然と距離が開いていた。もっとも、部活動を始めた私が自発的に距離をとっていたというのが正しい。
明日羽ちゃんはくりくりと幼く、家も近い私は妹のように可愛がることも多かった。とはいえ私も当時は中学生。手のかかる妹のような彼女の面倒をみるのが嫌に思うことは仕方がないことだろう。勉強が、部活動がなどと言い訳をして私たちの間には手を伸ばしても届かない溝が生まれていた。
真っ赤なモミジの栞を作ることになったのはそう。私たちが中学一年生、夏も終わり、台風が通り過ぎた後の湿度が非常に高い日のことであった。
私の自室にクーラーはなく、湿った風を浴びながら宿題に取りかかっていた。開け放った窓の外からは奇妙な鳴き声も微かに聞こえる。野良猫や野良犬も高湿度があまりに不快なのだろう。
夜の帳、部屋の灯に吸い寄せられる虫の多さに辟易していると携帯電話に一通のメッセージが着信する。
『今、未来ちゃんのお家の前にいるの。ちょっとだけ一緒にお散歩しない?』
送り主は明日羽ちゃんであった。以前に連絡を取った履歴を確認すると夏休み前まで遡る。私が彼女の誘いを既読スルーしたときだ。
時刻は二十一時をまわる頃。よく知る明日羽ちゃんと散歩をするだけといっても、女子中学生が二人で外出するには憚られる時間帯。
だからそう。
私はこっそりと自室を飛び出したのである。
「明日羽ちゃんとこうして散歩するのも久しぶりかもね」
「うん」
「クラスはどう?」
「うん」
「……なにかあった?」
「うーん」
明日羽ちゃんからの返事は生だったり煮え切らなかったり。散歩に誘ったのは彼女だというのに、悶々とした苛立ちが募り始めてくる。
明日羽ちゃんは私のフラストレーションを知ってか知らずか、後ろ手に組んで私の前を歩く。右に左に、鼻歌混じり、不規則なステップで歩くから大きめなポシェットが揺れている。
会話こそ噛み合わないが、どうやら明日羽ちゃんは楽しんでいるようだ。自意識過剰とも思えるが、彼女は私と一緒に夜を歩くことを楽しんでいるのだろう。
気が付けば私たちは近所の公園までたどり着いていた。明日羽ちゃんは小走りに公園の真ん中へ。大きなモミジの木が鎮座する芝生に一人寝転がる。そして私に手招き。私が傍らに立つと隣に座るよう促され、彼女は勝手に膝枕を始めてしまった。少し恥ずかしいが公園にひとけは無く、私は大人しく甘んじた。
「未来ちゃんとここに来たかったんだ。知ってる? 秋になると真っ赤に紅葉したモミジが絨毯みたいになるんだよ」
「知ってるよ、二人で遊んだこともあったじゃない。でも、まだ紅葉には早いわ」
昨日の台風で落葉は十二分だが、葉の色は若々しく緑色。真っ赤な絨毯には程遠い。
「モミジの絨毯が綺麗でさ。私はそこに寝転がって昼寝するのが大好きなの」
いつもそれで風邪ひいちゃうんだけどね、と明日羽ちゃんは照れくさそうに舌を出して笑う。久しぶりに見た彼女の無邪気さに、私もつい釣られてしまう。
明日羽ちゃんは大きく息を吐くと、目を瞑って口を閉じた。
その後はしばらく無言だった。ちらちらと瞬く電灯は私たち二人を照らすようで、どこか舞台役者のような心持ちになる。夢見がちな明日羽ちゃんもきっと同じだろうか。どこか真剣な表情を浮かべながら、時折目を開けると恥ずかしそうに二人で笑うだけの時間だった。
この時間を作ったのが明日羽ちゃんであり、破るのもまた彼女であった。
「こんな時間は久しぶり。ずっと続けばいいのに」
私が同調を示して頷くと、明日羽ちゃんは続けた。
「未来ちゃん。私はあなたと一緒ならなんだってできるの。あなたがいるからできることが沢山ある。二人なら時間だって支配できるわ」
そういう明日羽ちゃんの瞳は真剣だった。彼女は持参したポシェットを探ると、どす黒い血で染まった包丁を取り出した。
「いいの、いいの。びっくりしないで。未来ちゃんに変なことはしないよ。だから私のほっぺたに手を添えていて。そう、そう、両手でお願い。ありがとう。未来ちゃんが一緒だから最後までできるの。そう、最後まで、一人でも」
そう言うと明日羽ちゃんは自らの心臓に包丁を突き立てると、一瞬の強張りの後、生を終えた。
その顔は眠るように安らかで。
貫通した包丁は鮮血を地面に広げ、明日羽ちゃんは真っ赤に紅葉したモミジの上で目を瞑っていた。
ーーー
この栞は明日羽ちゃんの血で染まったモミジを綴じたものだ。幼い娘にはとても出自を説明できない代物。
その後の明日羽ちゃんは、ネグレクトをしていた母親とともに葬儀が執り行われた。子どもから恨みを買われ、心中を計られたと地元ではちょっとしたニュースにもなっていた。
くるくると栞を手で弄んでいると、娘がある提案をする
「ママ。私も落葉の栞が作りたいな」
「いいよ。けど今日は雨が降りそうだから明日ね」
「やった!」
無邪気にぴょんぴょんと跳ねて喜ぶ娘を見ると私の顔も綻ぶ。
「こんな綺麗なのを作れるなんてママはすごいなあ。一緒にやれば私でもできる? ママとならなんだってできちゃう! ママがいるからできることがたくさんだ!」
その瞬間、私の脳裏をよぎったのは明日羽ちゃんとの最後の会話だった。
彼女はきっとお母さんが欲しかったんだ。血よりも深く絆で繋がった、頼りになるお母さんが。
しかし当時からそのことに気が付いていたとしても、私ができたことは何もなかっただろう。私だって小中学生だったのだから。明日羽ちゃんからの思いには結局応えきることはできず、結果は何も変わらない。
明日羽ちゃんは実の母親と埋葬されている。今は二人きりで仲良く過ごせているのだろうか。彼女のお墓参りも学生時代からとんと疎遠だった。
彼女の分まで栞を作っていくのもいいかもしれない。
明日羽ちゃんとだから作れる栞なのだから。
明日羽ちゃんのことを決して忘れないよう。
母から娘たちへ、贈り物をするのだ。
綾錦の栞 平賀・仲田・香菜 @hiraganakata
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