ひかりのはやさで

煙 亜月

ひかりのはやさで

 東京から岡山まで確実に座れ、かつ終点が岡山なので確実に寝過ごさない交通手段はなーんだ? もちろん答えは『ひかり』である。まあただ、二〇時台ののぞみにも岡山止めの便はある。しかしのぞみで座れるだろうか? さらに、年端もいかない女の子が門限通りに家に帰れる話に限定するのでのぞみという選択肢は消える。


 そうした訳でわれらが主人公・ヒカリ嬢――ちなみにこの「ヒカリ」は人名だ――は、岡山東京間をろくな荷物も持たず日帰りで往復するのであるが、それには一年かそれ以上、時を遡る必要がある。


 まず諸悪の根源、マコトについて話そう。名前負けしているというか、よくもまあこの名を負ってあんな悪行こんな悪業をはたらけるのかと普通の神経の持ち主ならば悲嘆に明け暮れさえするのがマコトだ。


 マコトは法曹界を目指す――というか目指していた――大学三回生である。年齢的にはもう少し上なのだが、それはこやつの頭と要領の悪さに起因するので、あえてわたしをして説明責任を果たすとかそんな義理はない。それでもというならわたしではなくマコトにいってくれと反駁する。口だけは達者なマコトのことだ、彼に寄ってくるあなたがたをマコトはのらりくらりとかわし追い返すのだろう、そういう男だよ、マコトは。


 きっかけは単純明快だった。

 中学高校とよく遊んでいた女の子二人組を紹介する。カオルとヒカリ。その保護者役というかアッシーというか、カオルの兄・マコトについて話そう。マコトはしばしばその二人組と行動を共にしていた浪人生だ。浪人生であるから本来勉学にいそしむべきなのだが、マコトは率先して家の軽自動車に女の子二人を乗せて遊びに付き合っていた。さすがに顎足枕とまではいかなかったが、親の軽自動車くらいならいくらでも出していた。


 そのころから彼は感づいていたのかもしれない——自分には女をたらし込む才覚があることや、さらにそのスキルは出し入れも自由自在に使えるということなどに。カオルもヒカリが自分の兄を憎からず思っているとも察していたし、その応援役に回るのもやぶさかでなかったのも事態を重くさせた。勢い、ヒカリとマコトの間を隔てるものは、もはやマコトの東京への進学という地理的なもののみとなった。


 物件も決まり引っ越しの雑事も済み、あとはマコトがやり残していたことは一つ——ヒカリの心を盗むことである。それはルパン三世のように洗練されたもので、なかなか立ち直れない点においても相似していた。つまり、マコトの進学と同時にヒカリの心は岡山ではなく東京に在ったのだ。


 ある朝のこと。

 それは別段どの朝でもいい。どの朝であれ、はじまりはマコトかヒカリからのLINEで『おはよう』から始まるのだから。ゆえに、どの朝であれ代わり映えもない代わりに温かみのある『おはよう』から一日がスタートするのだが、そこへ変化や進展を望むことは、ある種のリスクをヒカリは感じていた。

 

 これ以上好きになってしまったら、わたしはどうなるのだろう。

 高校三年生、ヒカリは人知れず悩んだ。

 

 マコトが東京へ移り住み、ヒカリと毎日毎日、幾度も幾度もLINEのやり取りをしていたころ。

 その時も二人はテキストを打ち合ったりマコトの好きなスヌーピーのスタンプを送り合ったりしていた。それについてヒカリが持った感想は、『わたしたちは今、物凄く順風満帆。怖いくらいに』。



『おーい、ヒー』

 ――なんだよカオル、ひとがsdっかく寝てるところを

『いや寝てないやん。それにそんな誤字打てるのパソコンだけっしょ』

 ――友よどうか秒で露見したおれの嘘をフォローしてほしい

『海だぜ海。またふたりでいこうぜ』

 ――あのさ

『あん?』

 ――おれたちいま夏期講習中だと思うんだが

『だからだよ』

 ――おおん?

『兄貴、帰ってくるから』

 ――場所は? いつ? どこ? 何日? 水着は新しいの買った方がいい?

 

 数日後、日焼けしたマコトは短パンに前をはだけたアロハシャツにビーサンというこれ以上ないほどの遊び人ルックでヒカリたちの前に現れた。

「よっ、乗ってく?」

「兄貴そういうのマジ恥いからやめてくれん? 法学部じゃなかったん? なんでそんな三下なんかに」

「法学部だけど一応インカレのサーフィンサークルで主務やってるから。まあ、雑用係だけどな」

「なんというか兄貴。自分の大学の民度下げないでよね。ほんと心配」

「オッケー、分かってるって。で、乗ってくんだろ、海?」


 と、このように例の軽自動車に三人は乗りこみ、宝伝ほうでん海水浴場へ走った。折しも盛夏、ひと気も多くサングラスの奥でマコトの目は縦横無尽に目移りしていたが、「マコトさん、泳がないんですか?」とヒカリが話しかけるや「ああ、泳ぐにしてもこんなにひとが多いと、ちとやりづらいかな。アイスかたこ焼きか、食いもの買ってくるけどなんかほしいのある?」と落ち着いた声音で提案した。

「ハイハイハイ! あたし焼きそばとかき氷がいい! シロップはみぞれで練乳マシマシのやつで頼む」

「お前は身内じゃん。てきとうに買って来いよ。おれはヒカリちゃんをもてなす以外の金はねえかんな」と、兄妹でいい合っているのを見たヒカリは苦笑いを受けべながら「じゃ、じゃあみんな自分の分は自分で買わない? なんかその方が——」

「まあ、ヒカリちゃんがいいならいいけど」と、遠慮しているのか吝嗇なのか分からない帰結をみた三人はそれぞれ食べ物や飲み物を買いに出た。


 たしかにひとが多すぎる。泳ぐにしても小さな子どもも多い。砂浜にレジャーシートでも敷いてパラソルの下たこ焼きを頬張るのがよいようにヒカリも思われた。三人並んでかき氷を食べる。頭を抱える。笑い合う。


 真水の出るシャワーで身体を流し、それぞれ服を着て家路へと就く。

「カオル、寝てる?」

「あ、はい。めっちゃ泳いでたんで疲れたんだと思います」

「少しは歳も考えたらいいのに。まあでも、ヒカリちゃんもサーフィンサークルなんかに入らない限り、もう海で泳ぐこともないだろうしさ。ま、かわいい水着も買ったんだから、いい思い出になった?」

「み、水着はその——はい、たしかに新調しましたけど、もしかしてカオルから聞きました?」

「あ、あー、いや、去年となんか違うなーって思ったから。でもそういえば去年もそんな水着だった気もするなあ。どっちだったかなあ」

 さすがはマコト。女子の水着姿に対する偏執的な記憶力を一瞬でオブラートに包んだ。「まあ、よかったじゃない。受験もあるし、いい息抜きになったっしょ」と陽気な声でいい、「その水着もかわいいし、いいんじゃない?」と墓穴を掘るに近いような結論を導いた。


 その後もヒカリはマコトと頻繁に連絡を取り、また受験も控えているのでカオルと一緒に図書室にこもって勉強した。目標は、理科II類。日本で一番頭脳に秀でた看護師を目指していた。カオルもカオルで東京の高倍率で高難度の国立大法学部を志望した。いってみればふたりとも出来はよい。その点、マコトは一族で少数派の私大進学組で多少の肩身の狭さはあったようだが、いちいちそんなマコトエピソードを斟酌するほど暇はないので先に進める。


 ヒカリにはよく分からないが例年、セミの鳴き声の種類が晩夏に差し掛かるにつれ変遷をみるようだったが窓もカーテンも閉め切って勉強するのだ、そんなことに逐一かまけてはいられない。カーテンも、といったがここ数年の酷暑をみるに分厚い遮光遮熱カーテンでないと日中の暑さに耐えきれないのだ。エアコンのコンプレッサーもだし、ヒカリ自身もだ。時計を見るなりしなければ時刻だって分からない。ご飯に呼ばれもしなければサーカディアンリズムも保てない。二十四時間勉強する機械にでもなったかのように、青春をかけてヒカリは打ち込んだのだ。


 もちろんそれはカオルも同じで、最難関ともいえる法曹・政経に特化した大学の法学部を目指しているのだからスマホを触る暇だって惜しい。私大ではあるものの兄が中途半端に難関校へ進学したのだから、敗けたくはなかった。汚名は兄だけで十分。自分は確実に、絶対に法曹界へ進むべきだ——そう考えていた。


 九月のマーク、十月の記述式の模試でヒカリ、カオルのふたりともB判定だった。あと少しだ、あと少しなのにB判からA判まで巻き返さなくてはならない。カオルの目指す法学部も法務の職業訓練校のようなものだし、ヒカリにいたっては入学から国試合格とすべてが欠くべからざるカリキュラムだった。焦った。焦りと不安とでヒカリはマコトを頼った。


 どうやらこのマコトという男は慰めだとか癒しにも才ある人物のようで、わたしからしてもただの遊び人である以上に人心掌握術に長けた、悪用しようと思えばいくらでも好きに使える技能の持ち主であった。

『あれ? 既読? ヒー、おは(あくびをするスヌーピー)』

 ――あ、まーくん。おは。

『徹夜?』

 ――えっと、いや、ただの夜更かし。だってまだ四時だし

『それは朝なのか深夜なのか(再びあくびをするスヌーピー)』

 ――んー、そうだね、そろそろ寝た方がいいかも。まーくんは朝なの?

『朝マズメで釣るから』

 ――朝マズメ?

『うん。日の出あたり。釣れるんだ』

(天国的に呑気なマコトに若干の苛立ちを覚えつつも抑える努力をするヒカリ)

 ――ああ、試験、終わったんだね

『そう。やっと大学生らしいことができるよ(にひひと笑うスヌーピー)』

 ――えーなんかムカつく

『ぬはは。じゃ、現役合格してよ。東京おいで。待ってあげてもいいんだぜ?』

 ――うん、絶対合格するから。理IIがダメでも後期はランク落とすしさ。絶対東京行く。待てる?

 『全然待てる(超然と腕を組むスヌーピー)』

 ――ありがと。そろそろ寝るかな。ありがとね。まーくんいなかったらモチベ持たんかったかも

『だろ?(詳細は省くがとにかくスヌーピー)じゃあヒーも早く寝なよ』

 ――おけ。おやすみ、まーくん

『おやすみ、ヒー』


 もう一時間だけ勉強したら、寝よう。

 ヒカリはインスタントコーヒーをカップに入れ、ペットボトルのぬるい水をとぽとぽとそそいだ。


 夏休みに会った時のマコト兄さん——まーくんはずいぶんと大人びた風体で、これがその――余裕から出る差なのかとヒカリは若干の焦りを感じた。自分の水着姿なんか見てはいないだろうと思っていたのだが。ゆえに、帰りの車中で運転席のまーくんが自分の水着をほめてくれたことはヒカリにとって実に驚異的なことだった。つくづく罪作りである。ミッション車の運転免許があり、自信にあふれ、朗々とし、「大人」だった。そんな世間一般ではまだまだモラトリアムのガキに分類されるマコトも、ヒカリにとってはこと大きく映ったのだろう、恋心を抱くにじゅうぶんであった。


 冬休みは冬季集中講座へ出る、といい東京岡山間の弾丸日帰り旅を敢行することも、あった。それも一度や二度ではない。簡単にいうと夏に四回、冬に五回、東京へ日帰りの恋路に就いた。往復で六時間、会っている間なんてどうあがいても四時間がせいぜい。馬鹿馬鹿しいとも思うが、結果的に理IIに合格したのだから責め立てるべくもないだろう。罪といえば、新しい自分のパソコンを買う資金をパーにしたのが唯一の罪といえようか。それでもヒカリはマコトに会いに行き、逢瀬の帰り、ひかり521号の車内でせめてもの巻き返しをと学参を机に広げたものだった。


 意外なことにマコトはちょいとつまみ食いだとか、ちょいと弄ぶとか、そんな気分であったのだ。そうなのだ、当初はそうだったのだ。だが、ヒカリの甲斐甲斐しさ、ひたむきな愛情にマコトの虚飾や、周囲の者の「あれこそがマコトだ」と誤解していたマコトのぺらぺらとした外殻は剥がされてゆき、最後に残ったちっぽけな不安という、そんな核へヒカリは肉薄し、最終的に包み込んだ。


 そういうこと、つまり一年かけた攻略の手腕があってわたしもこのマコトという、愚者のカードを逆転させた。無計画で責任感もなく、遊ぶことしか頭になかったマコトがわたしという見えざる手によって一目惚れやひらめき、新たな挑戦へとひっくり返った。いま現在マコト、いや、誠は隣県のロースクールでてんやわんやの日々であり、わたしはわたしで演習や実習でこれも目の回る忙しさであった。


「――という訳で、僕はこのひかりさんと出会わなければただの遊び人に終わっていました。そんな僕を変えてくれたひととこれからもずっと一緒にいることができるなんて、神様が何か間違いをしたのか、あるいは夢じゃないかと毎朝ひげを剃るたびに頬をつねっています。さらにありがたいことに――」


「お父さん、お母さん、本当に本当にありがとう。最後のお願いに、どうか馬鹿な娘を叱ってください。実はわたしたち夫婦は学生当時、お金を出し合って何度も何度も東京で会っていました。それで帰りのひかりで戦々恐々としながら勉強して、なのに第一志望に合格できたのは別に不思議でもなんでもないんです。わたし、誠さんがいつも子どもみたいに寂しそうにホームで見送ってくれるたびに決意を固めました。このひとには希望や仲間はすでにあった。でも、それは先が見えずにがむしゃらに遊んでるだけなんだって。わたし、このひとを照らす光となる。お父さん、お母さん。わたしにその名前をつけてくれて、わたしは、誠さんの、光に、もう、だから、ちょっとごめんまーくん、ティッシュ――」

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