きみの音

鳥尾巻

きみの音

 七月一日。僕はいつものように、最寄り駅への道を歩く。四月に入学した高校の制服はネクタイが窮屈で、GWを過ぎてもクラスに馴染めない僕の息苦しさを増長させる小道具のような気さえする。

 朝陽に照らされた閑静な住宅街を、通勤や通学をする人たちに紛れてとぼとぼ歩いていると、T字路の角に建つ家からたどたどしいピアノの音が聞こえてくる。何度もつっかえて、最初から弾き直す。幼子が懸命にピアノと向き合って弾く様子が想像できて少し微笑ましい。そうだ、がんばれ。心の中だけで呟いて、僕は学校への道を急ぐ。

 そうだな、今日は僕も自分からみんなに挨拶してみよう。既にクラス内のグループは出来上がっていて、どこかに入ろうなんて気は起きないけれど、これは自分の為だ。


 それから毎日、僕は教室に入って挨拶をするようになった。最初のうちは数人しか反応しなかった。あの家の前を通るたび、少しずつ上手くなるピアノの音に勇気を貰える気がして、僕はめげずにそれを続けた。

 晴れの日も、雨の日も、雪の日も練習を休まない君は、きっと努力家なんだろう。ギラギラと日差しの照り付ける夏も、街路樹が葉を落とし始める秋も、木枯らしの吹く冬も、再び迎えた桜の季節も、ピアノの音は僕を励まし、そして癒した。

 一年も経つ頃にはたどたどしい指使いから、流れるような音階が朝の空気を満たして響き合う。僕には音楽の事は分からないけど、いくつかレパートリーの増えた曲も音が踊るようで、君が心底楽しんでいるのが分かる。


 ある日の放課後、角の家の前を通ると、中から泣き声が聞こえた。レッスンに行きたくないと駄々をこねている。そうだよね。友達とも遊びたい日もあるよね。玄関から出て来た母親と思しき女性に手を引かれて、泣きながら歩いて行く小さな背中を見送った。

 僕はと言えば、少ないながらも友達が出来、誘われて部活に入り、それなりに学校生活を謳歌していた。学年が上がり、進路に悩む頃にも、君の音は僕を前に進ませてくれた。あれからも休まず練習は続けている君はえらい。僕も頑張らなくては、と、勝手に勇気づけられていたよ。

 僕は地元の大学に進学し、高校教師の職を得た。母校に戻った僕は毎日同じ道を歩く。朝の練習を一日も欠かさない君のピアノはどんどん上達して、今ではプロも顔負けの腕だ。仕事に悩む時も、恋人との別離に傷心している時も、君の音が僕を慰めた。

 幾度目かの春、君が僕の生徒として目の前に現れた時は少し驚いたけどね。幼稚園の先生になりたいと言う君の夢が叶うように、僕は全力で応援したいと思ったよ。


 あれから数年が経った。僕はいつもの道を通って駅への道を急ぐ。今日の曲は少ししんみりしているね。「別れの曲」って言ったかな。それから数日のうちに、君の家に業者がやってきてピアノを運び出すのが見えた。そうか。家族との別れを惜しんでいたんだね。

 僕がこの道を通ることはもう殆どないかもしれない。君のピアノをあのT字路の角の家で聞くことも無くなるだろう。

 

 これから君は、僕の傍でずっとそのピアノの音を聞かせてくれる。

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