第5話 少しの謎
極度の精神的興奮の中で隅の方に追いやられていた彼自身の理性の声も聞こえてきた。俺は、一体何をやってるんだ。こんなの……不法侵入じゃないか。犯罪行為だ。もし警報装置か何か作動して騒ぎになったら、それで極めて重要なお仕事をされている師のお邪魔をしてしまう事になる。それに……
……これは本当に、万に一つも有り得ないであろう、考えたくもない可能性だが、もし……もし、ヤン・シュミットという人物が、あの不心得者共の言うように、存在していなかったとしたら……
……もし、家の中を覗いて、そこに誰も居なかったら……いや、それだけならまだ良い。家の中にはただの大きな機械装置があるだけで、無機質な光の明滅と単調な機械音を発しているだけだったら……そんな光景を目にしてしまったら、俺は、どうなってしまうだろう……
家族の事を思い出す。彼は馬鹿ではない。あの日、妻と子供達がシュミット師の存在にかなり懐疑的だった事も解っていた。それでも……と彼は思う。
……それでも、アイツら徹底的な否定だけはしなかったよな。つまり俺の「神話」を壊さないでくれた。本当に踏み込んで来て欲しくない最後の一線は守ってくれたんだ。それなのに、俺が今やろうとしてる事は何だ? アイツらがせっかく守ってくれたその「神話」を、よりによって自分の手で壊そうとして……それも自分勝手で幼稚な好奇心から……何て馬鹿なんだ。情けない……
「……帰ろう」
彼は、静かにきびすを返し、その場から立ち去ろうとした。うちひしがれてではなく、敢然と……とその時、また頭の中に声が聞こえたような気がした。
『ありがとう……』
……その声が聞こえた途端、彼は不思議な感覚にとらわれた。身体が、内側から温かくなっていく……なぜかは解らないが、安心感が……大いなる安心感とでも言うべきものが、全身に広がり満ちていくのが解った。
ああ……これでもう安心だ。彼は思った。ヤン・シュミット師は居る。間違いなく居るのだ。姿は見ていないが、それが感覚的に解った。これでもう本当に安心だ……。
彼は満たされた心で家へ帰って行った……。
……その後、彼は日常生活に戻ったが、少しの変化があった。もう四六時中シュミット師の事を考えるという事は無くなった。それに、以前は師の存在を少しでも否定する発言に出会おうものなら躍起になって反論したものだが、今やそんな事も無くなった。……といってシュミット師の存在に疑念を抱くようになったとか、感謝や尊敬の心を忘れてしまったという訳でもない。言わば、常に意識しなくなったのだ。
色んな意見の人間が居るのは当たり前だ。俺は、シュミット師は存在していると思っている。たぶん、居られるのだろう。居るような気がするんだよなあ……それで良いじゃないか。
数年後、彼は会社で最年少で経営陣に迎え入れられた。
その少し前、家族もこの都市に来て一緒に暮らし始めていた。父親の目から、もうかつての狂信者じみた光が無くなっているのが解ったからだった。
やがて子供達も学校を出て就職、そして家を出て行き、それぞれに家庭を築いていった。孫の顔も見られた。一方、仕事では順調に成功と出世を重ね財を成した。
全てが順調、何の問題も無し……とまでは言えなかったが、概ね平均以上の幸福な人生を送り、多くの家族に見守られて彼は旅立って行った……。
確かに世の中には、はっきり解らない事も色々ある……だが、それで良いのだ。人と人とが相対する時「適度な間」が無いと、無意味に緊張や対立を生んでしまう。橋の継ぎ目に「あそび」が無かったら橋は壊れて落ちてしまうだろう。人生にしても同じ事、恐らくそれが「少しの謎」なのだろう。
『イニシエーションとフロンティア―side earth―』……終
イニシエーションとフロンティア―side earth― 浦里凡能文書会社 @urazato2020
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます