第4話 傾倒

 さて、父親がトイレから戻って来て再び一家の団欒が始まったのだが、話すのはほぼ九割方父親であり、その話題はほぼ全てヤン・シュミットなる人物の事であった。

 彼はヤン・シュミット氏がいかに凄く、素晴らしく、感謝すべき存在であるかを語り続けた。

「ヤン・シュミット師はさ……」

「シュミット師が……」

「シュミット師の……」

「ああ、師よ……」

「我らがヤン……」

「あのお方……」


「……ちょっと、良いかしら?」

 二時間くらい経った所で母親が話を区切った。

「ノボル、お父さんに話したい事があったのよね」

「……は?……ああ! そうだ……そうだった、そうだった……」

 急に話を振られた息子は伝えるべき事を思い出し、ちょっぴり照れ臭そうに顔を赤らめて言う。

「……実はこの間、学校の機械工学の授業で作った機械……全自動シャーペン芯交換機っていうんだけど、それが先生に誉められてさ、地域の基礎学校児童技術コンクールに出展してくれたんだ。で、それが入賞して、僕、表彰されちゃったんだよ」

「へぇ!そいつは凄いじゃないか。良くやったな」

「えへへ……」

「……うん、まあ、それはそうとヤン・シュミット師の話に戻るけどさ……」

「「「……」」」


 数時間後……


「あら、もうこんな時間ね……じゃあ、二人とも、そろそろ帰りましょうか」

「おおっと、こいつぁいかん……ついつい話し込んじゃったなぁ。もう外は真っ暗だ……どうだ? 皆で夕飯でも食べに行くか?」

「いえ、私達、今夜はホテル予約してるから、チェックインしなきゃいけないからもう行くわね」

「あれ!? お前達、これからここで暮らすんじゃないの?」

「何言ってるのよ、しっかりしてちょうだい。ユイとノボルが基礎学校卒業するまでは、私達三人は今の街で暮らすって話だったじゃないの」

「あれぇ? そうだったっか? おかしいなぁ……俺の記憶違いか……?」

 父親は困惑したような表情を浮かべて言った。

「……お前ら、本当にあのメガロポリス・トーキョーで暮らし続けるのか? あの非合理的で、不潔で、混沌とした、あの街で……」

「うん、僕にはその非合理的で不潔で混沌としたあの街が性に合ってるんだ……確かに、ここは良い街だよ。たぶん、最高の街だ……けど、今の僕にはちょっとレベルが高過ぎするよ」

「私も……」

「じゃあね、お父さん。さようなら」

 そして家族は帰っていった……。


「……やっちまったぁ……」

 その後、独りになった父親は他に誰も居ない居間で一人、頭を抱えていた。

「……俺は何て馬鹿なんだ。せっかく久し振りに会えた家族の気持ちを無視して、自分が話したい事ばかり……こりゃあアイツらに見切りを付けられて当然だ……本当に救いようの無い大馬鹿野郎だよ……」

 だが終わってしまった事をいつまでもクヨクヨ嘆いていても仕方がない。彼は気持ちの切り替えは早かった。

「……しょうがない。その内この失敗を取り戻せる日もきっと来ると信じて……シュミット師への傾倒も程々にしなきゃな……今回の事は、良い薬だった……」


 ……ところが、そんな決意も数日後には有って無きが如し。日常生活の中で次第々々に忘れていく。やはり彼の現在の人生の主軸は、ヤン・シュミットという人物を中心として回っているのである。

 家で、職場で、通勤・退勤の道中で、気付けば考えているのはヤン・シュミットの事であった。それはもはや傾倒……いや、崇拝……いや、それすら通り越して、もはや精神的同一化とすら言っても過言ではなかった。

 もっともこれに関しては、彼を笑える人など居るまい。どんなに人間嫌い・交際嫌いな人であっても、人生の一時期、特定の人物に傾倒するという事はしばしば起こり得る事だ。芸能人、有名人、歴史上の人物……。

 しかし彼の場合、その度が過ぎていた。しかもその度合いは日に日に増していく。遂に仕事や日常生活に支障をきたし始めた。職場でもミスが頻発し始める。せっかく癇癪の方は収まったのに、これでは意味が無いではないか。

 こうなってはもう直接シュミット師に会わぬ限り、この想いは解消される事は無い……そう彼は思った。例え言葉を交わせなくても良い。いや、向こうに気付いて貰えなくても良い。ほんの一瞬で良い、同じ場所、同じ空気の中に居る事が出来たならば、それで構わない。


 ……という訳で彼は行動を開始した。まずシュミット師の医療メーカーに問い合わせたが、師の所在は教えられないとの返事。しからばと興信所(探偵)に依頼し、師の住所を突き止める事に成功した。居ても立っても居られない。さっそく向かう。


 そこは同じ都市内にある、やはり上級住宅が立ち並ぶ地区であった。この街にあのシュミット師が……そう思うと彼は喜びと緊張とで胸が高鳴った。一つの邸宅の前で立ち止まる。表札は無かったが、その家のはずであった。ついにここまで来たのだ。彼は心臓がいよいよ激しく脈打つのを感じた。

 興信所の報告によると、師は常に仕事――50万の人々の心を守り続ける、あの神聖なる仕事――に従事しているため、呼んでも出ては来ないという話であった。ならばすべき事は決まっている。恐れながらお庭に立ち入らせていただき、窓から覗き込めば、師のお姿をこの目で見る事が出来る。

 ……無礼は承知している。たが仕方がないではないか。この衝動はマイクロチップをもってしても抑えが効かない。マイクロチップが抑制するのはあくまでネガティブな感情の昂ぶりだけ、ポジティブな感情の昂ぶりは抑えないのだ。そしてこの場合は困った事に、彼の脳およびマイクロチップは彼の師への思いをポジティブな感情とカテゴライズした。彼は敷地内にそっと足を踏み入れる……。


 ……と、その時であった。彼は声を聞いた。


『それ以上はいけない!』


 それは突然、まったく突然、彼の頭の中に響いた。いや、実際に声がした訳ではない。頭の中に、その声というか、その意味の言葉が、不意に思い浮かんだ、とでも言うべきか。耳ではなく頭で聞いた、そんな不思議な感覚だった。言うまでもなく、そんな経験は生まれて初めてだった。

 彼は躊躇した。これは……やめた方が良いのかも知れない。ここできびすを返して、大人しく帰った方が良いのかも知れない。だが一方で、ここまで来て目的を果たさずに帰るのか……という思いもあった。

「……俺は、一体どうすれば良いんだ……?」

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