そのゴリラは光っていた

豚肉まぢか

そのゴリラは光っていた

「うおっ!」

「パパ、どうしたの?」


 そのゴリラは光っていた。俺は思わず声を上げてしまった。たまの土曜日、4歳になったばかりの娘を連れて動物園に来た。家族サービスというやつだ。妻は家を掃除したいからと一緒に来なかった。よくあることだが、仕方ない。うさぎさんを触りたいという娘にせっつかれながら、ふれあいコーナーに向かう途中だった。そのゴリラは光っていた。なかなかの光量で光っていた。


「みきちゃん!あのゴリラ!あのゴリラ見て!」

「えっ?ゴリラ?あ、本当だ」

「めっちゃ光ってるじゃん!どうなってんの、あれ!」

「光ってる?光ってるって何?」

「えっ?ほら、あのゴリラだよ!」

「普通のゴリラじゃん」


 普通のゴリラがあんな光ってたまるか、と口をついて出そうになったとき、ふと周りが誰も気にしていないことに気がついた。あんなにもビカビカと光っているのに。ゴリラが。あぐらをかいてボケっとしているゴリラが。幾人かの子供は楽しそうにゴリラを見つめて、あるいは指差しして、親達はそれを少しつまらなそうに眺めている。よくある動物園の光景そのものだ。だが、そのゴリラは光っている。よくある動物園のゴリラは光らない。檻の前の看板には『ニシローランドゴリラ(学名:ゴリラ・ゴリラ・ゴリラ) タロウ オス42歳』。決まりだ。ニシローランドゴリラは発光しない。たぶんヒガシローランドゴリラも。そして誰もゴリラが光っていることを気にしていない。ならばおかしいのはゴリラではなく俺の方だ。


「変なパパ。ねえ、早く行こうよ。うさちゃんなでなでしたい」

「ごめん、みきちゃん。パパもうちょっとこのゴリラ見てていいかな?」

「ええ?いいけど……パパ、ゴリラなんて好きだったっけ?」


 別に好きでも嫌いでもない。ゴリラはゴリラだ。そこに好き嫌いという感情について考えたことはない。いや、なかった。今この瞬間までは。


「うん、パパはゴリラが大好きなんだ」

「そっかぁ」


 考えてもみてほしい。ゴリラだ。なんの変哲もない、ゴリラだ。ただのゴリラが目の前でビカビカ光っているのだ。ゴリラに目の前でビカビカ発光されれば、そりゃ気にもなろうものである。しかも、あのゴリラは俺にしか光っていることを確認出来ない。あのゴリラは俺のためだけに光っていると言っていいのではないか。俺だけが特別なのだ。俺だけが。俺とタロウさんだけが。ふと、蛍は何のために光るのだったかと思い出す。蛍のオスは尻を光らせることで、メスに求愛行動をとる。光が強ければ強いほどオスとして魅力的な存在だという。そうして蛍達はひと夏の恋に落ち、青春のままその命を燃やして散らしていくのだ。求愛……?まさか、俺は求愛されているのか……?タロウさんに……?そ、そんな……あんなに激しく光って……。俺はじっと、タロウさんの光り輝くあまりにも逞しい筋肉を見つめる。その黒い毛皮に覆われた背中の筋肉は、ヒトでは絶対にあり得ないほど激しく隆起し、まるで生まれ育った西ローランドの広大な大地を思わせる。い……いけないよタロウさん。君と俺はゴリラとヒトだし、俺たちは男同士だし、俺には愛する妻と娘が……。


「パパ?どうしたの、ボーッとして」

「ハァハァ…タロ……ッな、なんでもないよ、みきちゃん」


 俺は今、一体何を考えていた……?いかんいかん、しっかりしろ。西ローランドなどという地名は存在しないんだ。気をしっかり保て。ぶんぶんと頭を振り、パンパンと頰を張り、再びタロウさんを観察する。


 タロウさんは何をするでもなく、寝転がってボケっと天井を見つめている。よく見るとタロウさんの光り方が少し変化しているように見えた。先ほどまでは力強く光り輝いていたタロウさんは、今は薄暗い檻の中を柔らかく暖かくオレンジ色に照らしている。それはまるで、秋の日の夕方から夜に変わる瞬間の太陽のように。まさか、あれは……間接照明……?ふと、チョウチンアンコウは何のために光るのだったかと思い出す。チョウチンアンコウのメスは、深海でその頭から伸びた触手を妖しく光らせることで、エサとなるプランクトンを誘引し、捕食する。そして同じチョウチンアンコウのオスもまた、その妖しく深海の砂浜を照らす光に吸い寄せられ、その主であるあまりに強大なメスの姿に心底惹かれ屈服し、ずぶずぶとその身体に沈み込み、同化して、文字通り全てを捧げてその生を終えるのだ。誘引……?まさか、俺は誘引されているのか……?タロウさんに……?そ、そんな……あんなにいやらしくてらてらと輝いて……。俺はじっと、タロウさんの穢れを知らないかのようなつぶらな瞳を見つめる。その深く黒々とした目は、まるで生まれ育った西ローランドの広大な大地を思わせる。だ……ダメだよタロウさん。君は草食動物だし、俺たちは男同士だし、俺には愛する妻と娘が……。


「パパ、よだれ出てる」

「ムッ、オッ……」


 慌ててポケットから取り出したハンカチで口元を拭う。俺は今、一体何を考えていた……?いかんいかん、しっかりしろ。西ローランドなどという地名は存在しない。しかし、それにしてもタロウさんの様子が気になる。どうも先程から、しきりに檻のドアの方を気にしているようだが……。すると突然、檻のドアが開いた。どうやら、飼育員さんがタロウさんのためにエサを持ってきたようだ。途端にタロウさんの顔付きが変わる。飼育員さんはエサ箱にたっぷりと持ってきたニンジンやら白菜やらりんごやらを次々とどさどさと詰めていく。タロウさんは素早くエサ箱に近付き、


「うわっ!」

「どうしたの?」

「ゲ……」

「げ?」

「ゲーミングゴリラ……!!」


 七色に光り輝くゴリラをゲーミングゴリラと呼ばず、何と呼べばいい?俺はその答えを知らない。タロウさんは今や檻全体を明るく激しく七色に照らしながら、一心不乱にエサにかじりついている。にんじんを、白菜を、りんごを、凄まじい勢いでがっついている。俺はあることに気がついた。タロウさんが食べれば食べるほどに、その光は明るくなる。どうやら表現される色も増えているようだ。今やタロウさんは七色ゴリラどころか256色ゴリラ。8ビットゴリラだ。そうして少しずつ確実に、いっそう輝きを増し、この動物園をゲーミング動物園にしてしまうのではないかと危惧したその時、


タロウさんは突然、光るのをやめた。


 エサ箱が空になるのと同時に、タロウさんはその輝きを失った。まるで初めから光ってなどいなかったかのように。あんなに光っていたのに。あんなにゲーミングゴリラだったのに。タロウさんは食事に満足したのか、檻の端っこでゴロリと横になって天井を見つめている。そんなバカな。あんな、あんなのは、俺の知ってるタロウさんじゃない。あんなの、ただのゴリラだ。タロウさんはもっと光り輝く存在だった。少なくとも俺にとっては。俺にだけは、あんなにも輝いてくれていたのに。力強く輝いていたタロウさんも、怪しく美しく照らしていたタロウさんも、もういない。俺は心にぽっかりと穴が空いたような、ひどく空虚な気持ちになった。


「お腹が空いてたのかな……」

「パパ、みきちゃんもおなかすいた」

「そっか……ごはん食べに行くか?」

「うさちゃんなでてからね」

「よーし……行こっか」

「うん!」


 そうして俺はただのゴリラになってしまったタロウさんを、最後に少しだけ見つめて……娘と手を繋いで、ふれあいコーナーに向かって歩き出した。まだまだ小さい手だ。これでも大きくなったのだが。みきちゃんももう4歳。一体いつまでこうやって手を繋いで歩いてくれるだろうか。


「うおっ!」

「パパ、どうしたの?」


 そのうさぎは光っていた。

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そのゴリラは光っていた 豚肉まぢか @butaniku_soon

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