鉄製のフライパン

鐘古こよみ

【三題噺 #73】「白昼」「花嫁」「フライパン」

「鉄製のフライパンなんて重くないか?」

「だってね、うまく育てれば、一生ものなんですって!」


 そう言って仁美は、キッチン用品店で見つけた大きなフライパンを抱え込んだ。


「テフロン加工は使いやすいけど、一年も経てば加工が剥がれちゃうの。そうしたら買い替えないといけないでしょ? トータルで考えたら高くつくじゃない」

「だけど君、料理なんて……」


 滅多にしないじゃないか、という言葉は、じろりと睨まれて呑み込んだ。


「せっかく新生活に向けて心を入れ替えようと思っているのに、水を差さないでくれない? それに料理なら、あなたもしたらいいんじゃない?」

「ごめんごめん」


 俺は素直に謝って頭をかいた。彼女の言う通りだ。これから始まる結婚生活は二人のものだ。何年も一緒に暮らすことを考えて、道具も家事分担もしっかり考えておくに越したことはない。


 家に帰ってさっそく、鉄製のフライパンをキッチンに迎える儀式をした。

 なんでもいきなり使い始めてはダメで、「油ならし」なる作業が必要らしい。

 お湯で洗い、空焚きをして水分を飛ばし、多めの食用油を塗って加熱。フライパン本体に油を沁み込ませるのが目的だ。


「あっ、野菜くずを炒めるといいんだって!」


 ネットでやり方を調べていた仁美が声を上げ、既に油を投入して火にかけ始めていた俺は困惑する。


「もう始めちゃったよ」

「ちょっと一旦火を止めて」

「野菜くずって何入れたらいいんだ?」

「えーっと、キャベツの芯とか、人参の皮とか」

「今うちにある野菜、レタスとトマトとキュウリ。あとジャガイモだけど」

「ちょっと何か買ってくる」

「フライパンのために?」

「だって最初が肝心でしょ!」


 そうやってフライパンに食べさせる野菜をわざわざ買いに行くことから始め、俺たちはフライパン育てにてんやわんやだった。

 二回目に使う時からは、調理前に「油返し」をする。

 調理後は洗剤を使わず、お湯とたわしだけで洗う。

 空焚きをして水分を完全に飛ばす。

 サビ予防のために油を塗っておく。


 料理に慣れた人間なら簡単な作業だったかもしれないが、俺たちは二人とも結婚するまで実家暮らしで、フライパンの扱いなど初心者もいいところなのだ。

 油返しを忘れて焦げ付かせたり、うっかり洗剤を撒いてしまったり、空焚きを忘れてサビつかせたり、面倒で油を塗るのを怠ったり。


 フライパンにしてみれば、とんでもない家庭に買われたものだと、溜息が止まらなかったかもしれない。

 やがて俺たちはフライパンだけでなく、子育てにも追われるようになった。


「あーっ、ちょっとタカくん、美由がキッチンに入ってきちゃった!」

「おっと、美由、そっちはアッチッチだよ。行っちゃだめだよ」

「マンマ」

「うん、ママいるね。いや、マンマか。ご飯かな?」

「お腹空いたんだね。ちょっと待ってね、今お焼きを作っているからね」


 優しい声で言う仁美の手に、フライパンはだいぶ馴染んできていた。

 俺も時にはフライパンを握った。


「パパー、お腹空いたあ」

「お昼にしようか。美由、何食べたい?」

「チャーハン!」


 リクエストに応えて冷凍チャーハンをフライパンに入れ、強火であおる。


「パパのお料理、ご飯が飛んで、すごいねえ」

「そうか。このフライパンは重いから、ママにはできないもんな」

「美由もやりたい」

「うーん、もっと大きくなったらな」

「ママ、いつ帰ってくるの?」

「明後日だよ。赤ちゃんと一緒に帰ってくるよ」


 フライパンは黒光りし、やがて油返しの必要がなくなった。

 卵焼きもきれいに剥がれるようになった。

 子供たちが成長し、料理の手伝いをするようになると、仁美は念入りに鉄製フライパンの扱いを教えた。

 料理はすぐに別の皿に移すこと。

 焦げ付いても洗剤は使わないこと。

 水分は大敵であること。


「きちんと使えば一生ものなのよ、ねえ、タカくん」

「そうだな。最初にちゃんと育てた甲斐があった」

「美由と由羽が結婚する時も、鉄製を勧めてあげてね」

「ああ、わかったよ」

「子育ての前にフライパン育て、一緒にしておきなさいって」

「うん。その方が愛着も湧くしな」


「お父さん、そのフライパン、もらってもいい?」


 美由の声にハッとして、俺は顔を上げた。

 料理をしようとキッチンに立って、卵を手にしたところだ。

 黒光りするフライパンの表面を目にしながら、白昼夢を見ていた。

 仁美と結婚し、幸せに過ごし、子供を育てて、料理をした日々。


 鉄製のフライパンは、一緒に買った最初の生活用品だった。

 だからだろうか。

 仁美が傍にいて、一緒に料理をしながら、会話を交わした気がした。


「あ、お姉ちゃん、ずるい!」


 二階から降りてきた由羽が姉の言葉を聞き咎め、唇を尖らせる。


「それ、私がもらおうと思ってたのに!」

「あんたはまだ結婚しないでしょ」

「そのうちするかもしれないでしょ!」

「美由、由羽、ダメだよ」


 水分は大敵。

 俺は後ろに一歩下がって、言葉を絞り出した。


「このフライパンは、父さんのだよ」


 母さんと一緒に育てたんだ。

 そう言おうと思ったのに、後は声にならない。

 姉妹が目を丸くして顔を見合わせ、ばつが悪そうに肘で小突き合った。


「もう、お姉ちゃんってば、当たり前じゃん」

「だってあのフライパンで作ると美味しいんだもん。あんただって……」


 美由は明日、花嫁になる。

 その姿を見ることなく、仁美は三年前、病で逝ってしまった。

 料理などろくにしたことがなかったのに、鉄製のフライパンを買って。

 結婚生活を楽しみにしていた。あの姿が娘と重なる。


「鉄製のを、夫婦で買いに行きなさい」


 たった今、仁美から言われたばかりの言葉を、俺は娘たちに伝えた。


「子育ての前にフライパン育て、一緒にしておきなさい」


 うまく育てれば一生もの。

 あの時、仁美の言うことを聞いておいて良かった。

 娘たちが巣立った後も、一緒に育てたこいつが残ってくれる。


「あの人、お父さんみたいにチャーハン、作ってくれるかなあ」


 美由が照れくさそうに言って笑った。

 隣で仁美が、優しく頷いている気がした。



<了>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鉄製のフライパン 鐘古こよみ @kanekoyomi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ