私の夢

背筋

私の夢

『文体が洗練されていない。展開も凡庸。小学生レベルの文章を延々と読まされて、時間を返して欲しい気持ちです』

 投稿画面に入力し、送信ボタンを押す。あんなやつ、死ねばいいのに。そんな思いをこめながら。


 私は幼い頃、常に大人たちの顔色をうかがいながら生きていた。そうしなければならなかったから。いい子でいること、それが、私に課せられた義務だと思っていた。夢のなかで毎日神様にお願いしていた。「ずっといい子でいますから、幸せにしてください」と。

『わたしの住む町』。そんなテーマの課題だったと思う。私が小学生の頃、国語の時間のことだ。周りの同級生は文句を言いながら書いていたけれど、私はその作文を誰よりも早く書き上げることができた。別に、作文が好きだったわけでも、自分が住んでいる町を愛していたわけでもない。どういうことを書けば先生が喜びそうか、それを察する能力が同年代の子どもたちより高かっただけのことだ。

 案の定、私が書いた作文は先生から高い評価を受けた。それだけではない。市のコンクールで入賞もした。同級生たちでさえ、「すごいね」と口々に私を褒め称えた。特に思い入れのない、自分が書いた文章を黒板の前で朗読させられたあと、先生から言われた言葉を、今も忘れることができないでいる。

「将来は、小説家になれるかもな」

 その言葉は、私にとっての呪いになった。夢のなかの神様へのお願いがひとつ、追加された。

 卒業文集の、『私の夢』のページ。みんなは、『メジャーリーガーになる!』、『ケーキ屋さん』など、自由に色んな夢を書いていた。私が書いたのは、『小説家になりたいです』の一文。先生に言われた以上、そう書くことが正しかったから。


 中学高校と、純文学を読み漁る青春を過ごし、大学は文学部へと進学した。そうすることで、周りの大人たちは私のことをいい子だと見なしたからだ。でも、小説は書かなかった。神様に願いながらも、書かなかった。いや、だからこそと言うべきだろうか。書かない限りは小説家になれない未来も来ない。もしいつか書けば、本当になれるかもしれない。ほんの一パーセントでもいい。可能性が残されているのならば、それをお守りに生きていけるような気がしたから。書くことで、その一パーセントを消してしまいたくなかったから。そうやって、大人に与えられた夢を先送りにして自分を守った。


「ねえ。小さい頃、大人になったら、なにになりたかった?」

「え? なんだっけなあ。消防士とか言ってた気がする」

「どうして?」

「覚えてないよ。かっこいいとか、そんな理由じゃないかな。きみは?」

「私はね、小説家」

「きみらしいな。読書好きだもんね」

「違うの。小学生のとき先生から、『小説家になれるんじゃないか』って言われて。それで、ならなきゃいけないと思ったから。だから、本をたくさん読んでるうちに、それが当たり前になったの」

「ずいぶん真面目だなあ。まあ、そんなところもきみらしいけど」

 大学卒業後に入社した無難な地元企業、そこで出会った優しいだけが取り柄の夫。でも、私にとっては十分過ぎる夫。私は、幸せだった。こんな私を愛してくれるこの人と一緒になれて。ずっといい子でいた私を、神様は見捨てなかったんだと思った。たとえ、小説家にはなれていなくても。

「書いてみたら?」

「え?」

「小説だよ。今は時間もあるだろ?」

「そんな、無理だよ。それに、なにを書けばいいのかもわからないし」

「書きたいものを自分のペースで書けばいいんだよ。きみが本心で書いた文章、読んでみたいな」

 優しく微笑みながら言う夫を見て、思った。この人は、気づいていたのかもしれない。愛する人の前でさえ、いい子でいようとしてしまう私に。

 この人のために書いてみようか。自分の言葉で。あのとき夢見た小説家にはなれなくても、この人のための小説家になら、なれるかもしれない。もう、先送りにはしなかった。私は夢中で書いた。一人の女性の話を。私の話を。

「とても心を打たれたよ。せっかく書いたんだし、出版社に持ち込んでみたら? もっと多くの人に読んでもらいたいと僕は思うよ」

 夫がそう言ったとき、私の心は揺れた。あの卒業文集に書いた言葉。記憶のなかのおぼろげな文字列が、輪郭をもちはじめたような気がして。もしかして、あの頃ずっと神様にお願いしていた、もうひとつの夢が叶う未来が来るのかもしれない。そう思ってしまった。

 私が選んだのは、小説投稿サイトだった。なんのことはない。この期に及んでもまだ、私は弱かったのだ。プロの批評を受けることが怖かった。小説投稿サイトなら、たとえそれが誰からも評価されなかったとしても、たまたまだと自分に言い訳が立つ気がして。編集者の目に留まれば、そんな淡い期待も抱いていた。

『風船とわたし』。一人の女性と奇妙な風船頭の男の日常を描いた作品は、「エッセイ」のジャンルに投稿した。本当は「純文学」のジャンルがよかったけれど、そのサイトにはそれがなかったから。

 夫に見せた短編の内容を膨らまして、連載をした。読者はほとんどいなかったけれど、少ない「いいね」が私に夢を与えてくれた。思えば、あの頃が一番幸せだったのかもしれない。一パーセントが二パーセントになったような気がした。私の神様は、ささやかだが、夢を叶えてくれた。そう思った。この作品が、私にとっての聖域だった。

 自分の内面に向き合い、それを文章に起こす作業は苦しくも、とても楽しかった。夫も私を応援してくれていた。私は執筆に煮詰まると、よく深夜に散歩をした。静かな住宅街を歩き、公園を通り抜け、自販機で缶コーヒーを買って帰る。その過程で思考がクリアになる気がした。そうして家に帰り、ときには朝方まで執筆をした。


「遠足の思い出を俳句にしてみましょう」

 先生がそう言ったのもやはり、国語の時間だった。与えられた画用紙に、五・七・五で言葉を書き、色鉛筆で好きな絵を添える課題。

 絵があまり得意ではなかった私は、悩んだ末、簡単などんぐりと落ち葉を描いた。そして、教科書にあったものを自分なりにアレンジして、俳句にした。

 次の日、教室の後ろの壁に貼り出されたたくさんの作品。休み時間になると同級生はそれらを眺めて口々に、感想を述べていた。でも、そのほとんどが俳句の内容ではなく、絵の出来に関してのものだった。

 なかでも、評価が高かったのが、私の隣の席の男子の作品だ。彼の画用紙はその大部分が絵で埋められており、俳句すらも、絵の一部のような構成になっていた。加えて、彼が書いたものは五・七・五の体裁をとっておらず、俳句のように見えなかった。彼がそれを自覚していたのかは定かではないが、自由律だったのだ。作品の絵の完成度と、自分たちとは違う形式で書かれたそれを、同級生たちは褒めそやしていた。

 私は、これまでに感じたことのない怒りを覚えた。どうして、決められた枠組みのなかで表現していないにもかかわらず、評価されるのか。そして、それを先生が許しているのか。こんなの、俳句ではない。ただの絵と、出来損ないの詩だ。当時の私には、それが許しがたかった。


『正直、今のラノベ系にはうんざりしてます。小説とも呼べない薄っぺらい内容で流し読み読者を獲得するより、私は読む人の心に残るような文学然としたものを書きたい』

 私はただ、自分の本心を書いたつもりだった。「純文学を書いてます」。そんなプロフィールではじめたXの投稿。その頃には、作品も書き上がっていたが、「いいね」の数は少ないままだった。もっと多くの人の目に触れれば。そんな思いで、作者アカウントを作り、自作の宣伝を兼ねて、今まで触れてきた小説の批評などを日々、投稿していた。

『またこれ系かと思ってみてたけど、この人の作品ページを見て全てを察した。よくこのレベルで他ジャンルの批判ができたもんですね』

 そんな文言とともに、私の投稿は拡散された。今まで見たこともないほどのリポストの数字。「弱い犬ほどよく吠える」、「投稿主の文章、全く心に残らない」。そんなリプライがたくさんついた。皮肉なことに、私の作品ページの閲覧数はそれまでの数百倍になったが、「いいね」の数は少なかった。

 私はショックだった。こんなことで、私の聖域が穢されて。泣きながら、夫に訴えた。Xの投稿画面を見せながら、どんな仕打ちを受けたのかを。

「えっと……それって、画面の向こうの知らない人から言われてるだけなんだよね? なにも泣かなくても」

 戸惑う夫に私は絶望した。どうして、私の気持ちをわかってくれないのか。私の文章を一番に愛してくれた、私を小説家にしてくれたあなたならわかってくれると思っていたのに。そう言った。

「ごめん。きみの気持ちもわかるけど、正直、この投稿は良くないと思うよ。きみが純文学を好きなように、ラノベを好きな人だっていっぱいいる。全部のラノベが薄っぺらな内容なわけじゃないだろうし。作品のカテゴリで優劣をつけるなんて、失礼だよ」

 言葉を失う私に、さらに夫は続けた。

「趣味もほどほどにしなよ。楽しんでやれないんだったら、無理しないほうがいいと思う。きみの身体が心配だよ」

 私はたまらず家を飛び出した。かといって、行くあてなどない。気づけば、いつもの散歩のコースをたどっていた。ポケットから、スマホを取り出す。液晶画面が目に沁みる。件の投稿をしたXのアカウントのプロフィールを確認する。恐ろしく長いタイトルの作品名と、「書籍化」、「作家」というワードが目に入る。やはり、神様は私の願いを叶えてくれなかった。私は、小説家になんてなれない。あの夢は、自分を苦しめるだけの呪いだったのだ。

 気づけば、私は公園のベンチにひとり、座り込んでいた。スマホに目を遣ると、一時間以上が経過している。不意に、喉の渇きを覚える。そろそろ動き出さないと。いつも通り缶コーヒーを買って帰ろう。そうすれば、日常に戻れる。幸せな日常に。私は、自販機の前へ向かった。

 街灯の少ない住宅街、白い光が照らすそこだけが別世界のように明るい。ポケットをまさぐると、幸い、前日にいれたままにしていた小銭に触れる。

 それを取り出し、投入口へ手を伸ばしたとき、背後に神様が現われた。風船のように頭の大きな男。幼い頃から私が夢で祈り続けていた神様。私が作品のなかで書いた神様が。

 そして、私に教えてくれた。願いを叶える方法を。

 缶ジュースのような、インスタントに補充されるものを買いたかったわけじゃない。私が買いたかったのは、もっと、ずっと、消えないもの。

 自販機の横の路地に足を向ける。高い塀と塀の隙間ほどの幅の奥、濃い暗闇が口を開いている。迷わずそこへ踏み出した。

 長くて細い路地を抜けると、広い空き地だった。私が通ってきた道以外、全てを家の塀が囲んでいる。伸び放題の雑草が脚にまとわりつく。中央に、赤いカラーコーンが四つ置かれている。雑草を掻き分け、そこへ近づく。カラーコーンに囲まれた部分だけ、切り取られたように雑草が生えておらず、土がむき出しになっている。

 土の上にはたくさんの小銭が散らばっていた。ああ。私だけじゃないんだ。神様は、みんなを救おうとしていたんだ。私は、そこへ小銭を投げこもうと手を伸ばし、一瞬ためらった。私は今、一線を越えようとしている。人として、大切ななにかを失おうとしている。刹那、そう考えた。しかし、気づけば、小銭は私の手から宙へ投げられていた。

 そして、神様に教えてもらった通り、お願いした。

「夫が死にますように」

 私が大事に心の奥にしまっていたお守りを奪って、ゴミのように捨てた夫が。平凡な人生に折り合いをつけることで、やっと解けかかっていた呪いを私にかけ直した男が、死にますように。

「書いてみたら?」

 あんなこと、言われなければ、私はこんなに悲しまずに済んだのに。全部、あいつのせいだ。


 夫は、具合が悪いと言って会社を休みがちになった。たまにベッドから起きてきても、土のような色をした顔で、私を見つめるだけだった。なにを言いたげに。しかし、私はそれを無視した。

 寝室のクローゼットのノブに、タオルで首を吊った状態の夫を見つけたのは、しばらくしてからだった。その姿を私に見せつけるように、ドアのほうを向いて、腰を宙に浮かせていた。半開きの口から舌を覗かせた真っ白な顔。それを窓から差し込む月明かりが照らしていた。


 火葬場から帰って、ガランとしたリビングに足を踏み入れる。二人掛けのソファを見つめる。夫が良く座っていた場所のスプリングが弱くなり、少しくぼんでいる。

 気づけば、涙が流れていた。私は、なんてことをしてしまったんだろう。これが、私の願いだったのだろうか。なんの取り柄もなかった私を愛してくれた夫を殺すことが。お腹だってこんなに大きくなっていたのに。赤ちゃんの名前だって考えていたのに。死ねばいいのになんて、本当に思っていたんだろうか。あれは、神様が。きっと。いや、神様なんて――――


 著者名をコピーし、ウェブで検索をかける。もう慣れたものだ。表示された通販サイトの購入ページには、あのとき私を中傷した人間の著作が並んでいる。最新の単行本の評価の星は4.6、並んでいるのは絶賛のコメントばかり。私は、口コミ欄に文章を入力する。

『文体が洗練されていない。展開も凡庸。小学生レベルの文章を延々と読まされて、時間を返して欲しい気持ちです』

 読んでなどいない。読む気もない。だが、私の聖域を穢した罪を償わせてやる。死ねばいいのに。一文字ずつ、呪詛の念を込めながら、入力を続ける。

 神様は、あの夜以来、現れない。もう、私の願いは叶えてくれない。それならば、私がこの手で、罰を与える。夫のために。もうすぐ生まれてくるこの子のために。


 ※※※※※


池田「そういえば、宝条さんの実家の神社って、お賽銭箱とかあるんですか?」

宝条「あー。あるけど。なんで?」

池田「いや、こないだ観光地の大きな池に行ったとき、すごいたくさん小銭が投げ込まれてて、あれってお賽銭みたいなもんなんですかね?」

宝条「確かにそういうことする人おるよな。神社じゃなくても。なんでか知らんけど」

小林「昔の人にとって、水は重要なインフラだったからだろう。ほら、命の水なんて言葉もあるくらい。だから、そこに神様がいると考えた人が、捧げものをした名残なんじゃないかな」

池田「だからって、お金投げ込むって。なんか下品じゃないですか?」

宝条「地獄の沙汰も金次第っちゅうことちゃう?」

小林「神主の娘が言うセリフじゃないだろ……。昔はきっと、穀物だったり、家畜だったりしたんだよ。それが、時代を追うごとに、人間にとって一番価値のあるもの、つまりお金に変わった」

池田「誠意を見せるってことですか。それなら小銭じゃなくてちゃんと万札いれないと。小銭だけ入れて安産祈願したり、合格祈願したりって、みなさん信心深いわりには強欲なんですね」

宝条「みんながみんな誠意見せてくれたらうちの実家も大儲けできるわ」

小林「確かにお願いの内容に見合った対価は払えてないよな。特に現代人は」

宝条「神様もそこまで優しくないから、あんまり無理なお願いすると荒魂になってまうからな」

池田「荒魂?」

宝条「そう。自分の場所を穢されて、怒りはるんよ。そうなったら怖いで」

池田「へー。よくわかんないです」

小林「無駄話はこれぐらいにして、ほら、打ち合わせ再開するぞ」

池田「僕、ドリンクバー行ってきます」

宝条「小林さん、私、もう一杯ビール頼んでいい?」

小林「お前らなあ……」


(了)

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