エピローグ

深海忘却


 ふと見えたマンションの窓から、焚火のように優しい橙色の光が漏れている。

 世界の半分が、瞼を閉じて眠ろうとしていた。

 がちゃり、とわたしは鍵を回す。

 二日ぶりに帰って来た家は、もうずっと、長いこと帰っていなかったみたいだ。

 最後に見た時よりも、空白が大きかった。


「…………」


 バッグを下ろすと、帰ってきたんだという実感スイッチが入る。

 そしたら、身体が勝手に家事をやり始めた。

 二日間、出しっぱなしだった洗濯物を軽くほろって入れる。汚れてはないけど、夜の冷たさで湿っていたから、明日また洗おうと思う。

 シャワーを浴びたわたしは、今夜は裸のままリビングに戻った。

 タンスには温かいネグリジェが仕舞ってあった。夜闇はまだ冷たいけど、夜はもう寒くなくなってきた。そろそろ、衣替えもしなくちゃいけないみたいだ。

 電気を消して、茫然と窓の外を見ていたら、街が明るく見え始めた。

 深夜になったのだ。

 わたしはベッドの上で横になり、目を閉じた。

 潜水するように穏やかに呼吸していると、身体が布団に沈み始めて……そのままわたしは、とぷんと布団の中に引きずり込まれた。そこには浮力なんてものはなくて、重力さえもない。ただ海に沈んでいくみたいに、泡のように揺蕩いながら、わたしはずっと底まで沈んだ。

 そこは深海。

 わたしとソノアだけが呼吸できる、二人だけの居場所だった。


       …


 ミウナ、と。

 優しい声音で呼ばれ、わたしは目を開けた。

 朝を迎える寸前だった。微かな光で青みがかる、水族館のような部屋。

 わたしたちの、二人だけの楽園。

 あの時のように、ソノアはわたしの頭を膝にのせてくれていた。

 久しぶり、とかは言わなかった。

 だって今は、あの日々の地続きなんだ。そんなことを言ってしまえば、何もかも破綻して、夢から覚めるように現実に戻ってしまう。だからわたしたちは、カーテンを透過するひかりでふと目が覚めてしまった朝みたいに、見つめ合っていた。

 ソノアは、朝の温度でも溶けそうなくらい、優しい声音で言った。


「ねえミウナ。幸せになれそう?」

 その言葉があまりに温かくて、わたしの両目が涙で滲んだ。この夢が覚めてしまうかもって思って我慢するけど、全然我慢できなくて、泣いて、それでも夢が覚めないから、さらに涙が溢れてしまった。


「……うん。なれそう。ソノアがいなくなって、死ぬほど悲しいけど、ちゃんと幸せになれそうなんだ」


 ようやく会えた。最後に会えたのだ。

 だからわたしは、言い損ねた想いを言葉にしていった。


「わたし、ソノアと出会えて本当によかったよ。いつもわたしを玄関まで迎えに来てくれるのが嬉しかった。ソノアと一緒に食べるご飯がおいしかった」


 横になってるせいで、涙が喉に詰まってうまく喋れない。

 それでもソノアは、うんうんと、涙を浮かべながら頷いてくれた。


「ソノアがわたしの足の間に座ってゲームするのを見てるのが楽しかった。一緒に寝ると寂しくなくて安心した。泣いてる時に頭を撫でてくれるのが嬉しかった」


 一緒にいて言い争いをしたこともあったはずだ。

 なにかで喧嘩もしたような気もする。


「目が覚めた時に、隣でソノアが寝てるのを見るのが好きだった」


 だけどわたしの中には、幸せな思い出しか残っていない。


「いじっぱりなところも、猫が好きなところも、顔も声も全部そう。―――わたし、ソノアのことが大好きだった。愛してる」


 笑っているソノアしか、思い出せなかった。


「嬉しいことばっかりなんだよ。ソノアと居られて……わたし、本当に幸せだったんだ」


 言葉に換え切れなかった想いは、ぜんぶ涙になって流れ落ちた。耳の後ろを伝う感覚も全然嫌じゃない。

 とても温かくて、繊細だったから――これがお別れの涙なんだってわかった。

 わたしの中で生き続けていたソノアが、死者になっていく。そしたら、目の前のソノアも、少しずつ青い光になって溶け出した。


 生きることは、永遠を遠ざけること。

 だからわたしは、もう永遠ソノアとはお別れしなくちゃいけないのだ。


 幸せになれそうだと。だから安心してというように、わたしは笑った。じゃないとソノアをいつまでも心配させてしまうから。


「……ああ、私もだ。私も、ミウナと出会えて……本当に幸せだったよ」


 ソノアは、心の底から安心するように笑った。


「最後に、一つだけお願いがあるんだ」

「うん、いいよ。なんでも言って」


 ソノアはわたしに、たくさんのものをくれた。何度生まれ変わっても忘れたくない思い出。生まれてきた意味。数えだしたら切りがないほどたくさんの幸せだ。

 どんな願いでも叶えようと思った。

 寂しいから一緒に居てほしいでも、仇を取ってほしいでも、なんでもいい。

 ソノアの願いなら、わたしはなんだって叶えたいって、そう思っていたから……。


「ミウナには……いつか、自分のことも愛してあげてほしい」


 そんなの、不意打ちすぎる。

 あまりにも優しいお願いに、せっかく止まっていた涙が堰を切ったように溢れた。


「すぐじゃなくていいんだ。何百年、何千年かかってもいい。私のことを、忘れた後でもいいから……本当にちょっとだけでいい。私が愛したミウナを、ミウナにも愛してほしいんだ」


 わざとじゃないかってくらい、ソノアはわたしに優しい言葉を投げかけた。寂しい夜にソノアを思い出して、わたしが泣いてしまうことがないように、ぜんぶ連れて行こうとしていた。

 人はどんなに幸せになっても、自分が嫌いだと満たされない。自己嫌悪は心のヒビだから、幸せが漏れ出てしまって永遠に満たされないのだ。

 だからソノアは、わたしがわたしを好きになることを祈ってくれた。

 ずっとずっと、わたしの幸せばかり願ってくれるのだ。

 分かってるのに、永遠に離れたくなくて、わたしはソノアの手をぎゅっと握りしめた。


「ねえソノア。わたし、いつかソノアみたいな、かっこよくて、世界で一番美しい王様になるから……っ!」


 部屋セカイが明るくなり出した。まるで深海から、少しずつ浮上していくように。


「だから、少しだけ待ってて。わたし、絶対に自分のことも好きになる。それでソノアのところに、わたしちゃんと幸せになったよって、胸を張って言いに行くからっ!」


 驚いたように目を大きくした後、ソノアはくしゃりと笑った。

 それで目の端から、世界で一番きれいな涙が零れ落ちた。


「ああ、待ってる。ずっと待ってるから、ミウナは生きていいんだよ」


 わたしの涙も、言葉を最後に止まっていた。明日を迎えられるようになっていた。

 いつの間にか、窓の外の空は真っ青になっていた。どこまでも深くて、広い空だ。世界の端まで届きそうなくらい、それは遠くまで広がっている。

 もう、起きなければいけない時間だ。


「ミウナ。―――――――」


 最後にソノアは、わたしにそう言ってくれた。

 それがいつもの朝だったから、わたしは嬉しくて笑った。


       ◇


 浅い海辺を漂っているような、浮遊感に揺曳していた。

 心地よい温かさに、わたしは穏やかな気持ちで目を開けた。

 部屋の中には、陽光の彩が軽やかに溶け込んでいた。その蜂蜜色のセカイで、わたしは独りで朝を迎えた。微かに舞っている小さな埃は、日差しで溶ける雪のようだった。

 春がやってきたのだ。

 身体を起こしたわたしは、目の周りの意識を集め、窓の外を眺めた。

 そこに、いつもの街並みが広がっていた。所々に見える葉っぱには、桜色が混ざっている。今と昔とで『景観』は変わらなかった。わたしとソノアが見ていたセカイは、ちゃんと同じものだったことが嬉しくて、わたしは微笑った。

 わたしはベッドから起きる。前のバイトは辞めてしまった。今日からは、アマネさんたちのいる喫茶店で――侵触体としての新生活が始まる。

 洗面所に行って、わたしはぬるい水で顔を洗い、歯を磨いた。髪の毛は長くなりすぎていたので、ハサミでばさりと切ってしまった。こんな朝には髪を切るべきだと思ったのだ。

 わたしは一人で、独りぼっちで朝ご飯を食べる。

 だけど不思議と、ソノアと出会う前のような孤独感はなかった。

 止まった洗濯機から、洗濯物を取り出した。下着類だけ部屋の中に干して、残りを籠に入れてベランダに出た。

 そこから見える景色は、とても広かった。

 世界を美しいと思った。

 わたしはソノアのことを忘れてしまう。

 けれど、ソノアが残してくれたものがなくなるわけじゃない。

 何度も忘れ、どれだけ色褪せたって――いつかは必ず、わたしはソノアのことを思い出すに違いない。だから何も怖がらなくていい。

 きっとソノアも、それを望んでいるから。

 部屋に戻ったわたしは、新しいセーラー服に着替える。街に馴染むためにアビストスが用意してくれたものだ。まるで新しいクラスに向かうような気持ちになる。

 勉強道具なんて一つも入ってないバッグを持って、わたしは玄関のドアを開ける。

 そこで、足を止めた。

 さよならなんて言いたくないし、またねというのはあまりに不自由すぎる。

 だからわたしは、夢の中で、最後にソノアが贈ってくれた言葉に返事をした。


「いってきます」

『いってらっしゃい、ミウナ』


 そう、聞こえた声は、きっとわたしの気のせい。

 ふわりと、温かい風に髪を揺らされる。

 青空は浅く広く、そんなプールのような空の中で花びらは泳いでいた。

 セカイは春になっていた。

 わたしが別離を感じないほど穏やかに、もう冬は眠ってしまったみたいだった。

 ソノアがいなくなった世界で、わたしは大きく呼吸して、静かに歩き出した。

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アビスブラック・テンタクルース 冬槻 霞 @fuyukasumi

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